世界を渡るアイネクライネ
自分はダメ人間だなぁ、と思う日々です。何もかも全てを投げ出すという訳にもいかず、なるべく悲観的にならず、やれるだけやってだめなら終わりということで。
はい。米津玄師の「アイネクライネ」を柄谷行人の『探究Ⅱ』(可能世界論)から解釈できそうだなとふと思ったので書き連ねていきます。
可能世界論とは何ぞな。
現在の可能世界論は、可能性や必然性の意味論を扱うため、ソール・クリプキらによって1950年代に導入された。可能世界論では、現実世界は無数の可能世界のなかの一つであると考える。世界について考えうる異なる「あり方」ごとに異なる可能世界があるとされ、そのなかで我々が実際に暮らしているのが「現実世界」である。これに基づき、可能性や必然性について、〜略〜分析することができる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%83%BD%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%AB%96
クリプキの可能世界論と固有名
クリプキは、固有名(例えば「アリストテレス」)は「固定指示子(rigid designator)」であると主張しました。これは、固有名が現実世界において指示する対象と同一の対象を、あらゆる可能世界においても指示するという考え方です。例えば、「アリストテレス」という固有名は、現実世界でプラトンの弟子でありアレクサンダー大王の教師であった人物を指しますが、もしアリストテレスが別の教師についていたり、別のことをしていたりするような別の可能世界を考えたとしても、「アリストテレス」という名前は依然としてその同一の人物を指す、というのがクリプキの主張です。これは、「アレクサンダー大王の教師」といった記述的表現(確定記述)が、可能世界によって異なる対象を指し示す可能性があるのとは対照的です。
『探究Ⅱ』における固有名と単独性
柄谷は、このクリプキの議論を踏まえつつ、固有名が持つ「固定指示子」の特性を、彼が強調する「単独性」という概念と深く結びつけて考察します。
* 固有名は確定記述によっては捉えられない:
柄谷は、固有名が単なる属性の集まり(特殊性)ではないと考えます。アリストテレスがどのような属性を持っていたとしても、「アリストテレス」という固有名そのものが捉える唯一無二の存在(単独性)は、それらの記述によっては完全に捉えきれないと考えます。可能世界論的に言えば、どのような可能世界においても「アリストテレス」は同一の存在を指し示すため、その本質は個々の属性を超えたところにあると言えるでしょう。
* 可能世界は単独性を照らし出す:
異なる可能世界を考えることは、現実世界における固有名の指示対象の様々な側面を相対化し、その核にある単独性を浮かび上がらせるための思考実験として機能します。もしアリストテレスが哲学者でなかった可能世界を考えることで、「アリストテレス」という固有名が単に「哲学者」という属性を指すのではないことが明らかになります。「一人の教師」という表現などとは異なり「アリストテレス」という固有名は世界の中で唯一無二の他ならぬその人自身を指し示すことになります。
ちょこちょこ修正しましたが、よく知ってるな。
サラッと浅いところだけすくってる話なので、こんなところで。
世界を渡るアイネクライネ
アイネクライネの歌詞は可能世界と固有名というキーワードで解釈できるかも〜というお話です。
あたしあなたに会えて本当に嬉しいのに
当たり前にそれらすべてが悲しいんだ
今痛いくらい幸せな思い出が
いつか来るお別れを育てて歩く
この世界であなたと出会えて嬉しい、それ故に「あなたのいない可能世界」を見てしまう。
誰かの居場所を奪い生きるくらいならばもう
あたしは石ころにでもなれたらいいな
だとしたら勘違いも戸惑いもない
そうやってあなたまでも知らないままで
自身が世界の中で誰かを排除して場を占める暴力性を厭う。私のいない世界=あなたのいない世界を望むまでに。
あなたにあたしの思いが全部伝わってほしいのに
誰にも言えない秘密があって嘘をついてしまうのだ
~略~
消えない悲しみも綻びもあなたといれば
それでよかったねと笑えるのがどんなに嬉しいか
目の前の全てがぼやけては溶けてゆくような
奇跡であふれて足りないや
あたしの名前を呼んでくれた
しかし、あなたが名前を呼んだことで、私はこの現実世界につなぎとめられ、世界を肯定する。私は私のすべてをあなたと共有しているわけではない。ただ、その名であなたに呼び止められる。不定冠詞で数えられる一人の少女(アイネクライネ)は固有の名で呼ばれ「この私」を見つけ、「この現実世界」を肯定する。
何度誓っても何度祈っても惨憺たる夢を見る
小さな歪みがいつかあなたを呑んでなくしてしまうような
~略~
お願いいつまでもいつまでも超えられない夜を
超えようと手をつなぐこの日々が続きますように
閉じた瞼さえ鮮やかに彩るために
そのために何ができるかな
あなたの名前を呼んでいいかな
私はいつもあなたのいない可能世界を恐れながら、あなたのいるこの世界を生きる。私はその中で応答し、あなたの名前を呼び返そうとする。
あなたを失うかもしれない不安と自身の暴力の憂いの中でこの現実世界を肯定する。そして、その肯定は現実世界そのものを見えなくさせる。
あなたが居場所を失くし彷徨うくらいならばもう
誰かが身代わりなればなんて思うんだ
~略~
消えない悲しみも綻びもあなたといれば
それでよかったねと笑えるのがどんなに嬉しいか
目の前の全てがぼやけては溶けてゆくような
奇跡であふれて足りないや
あたしの名前を呼んでくれた
あなたの名前を呼んでいいかな
現実世界は可能世界から見られている。この世界は他の可能世界と比較しなければ、それを識別し、認識することができない。私がこの世界の私を名指してくれるあなただけを見るとき、取り得た他の世界を見なくなるとき、私がこの世界に没頭するとき、私はこの世界の形を見ることができなくなる。※
※固有名は確定記述の束に還元できない。固有名はそれ自体として何かの特性を持たず、それだけでは世界の中で特定の形を持たない。私の形が特定できないとき、その一者に対する世界の形もまた特定できない。そして、形を持たないものは認識できない。
それは至福の時であるがゆえに、思わぬ悲劇を招くことがある、危うい奇跡の経験。アイネクライネはそんな脆く儚げな幸福の歌だと思う。
あとがき感想
このフレームで「アイネクライネ」を見る必然性もなければ、フレームが柄谷行人でなければならない必然性もない。きっと同じフレームで他の曲を解釈することやらなんやら、いろいろなことができる。
ただ偶然色々な成り行きから、この二者に思い入れがある。今のところは理屈で冷静な判断ができないくらい好き嫌いで米津玄師の音楽を聴いている。「アイネクライネ」はその中でもある程度距離をおいて聴くことのできる曲だった。それで一つ思いついたので今回こんなものを書いた。
よくよく考えると『探究Ⅱ』の論旨と若干ズレてる感じがするが、まあ、そのへんにオリジナルなものがあって、意味のないものでもないかと思うので載せときます。固有名が出てこないがゆえに歌詞として成り立つ形で固有名の歌が歌える感じですね。
