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ひきこもりを放置する国家は、なぜ腐敗していくのか

「個人の問題」という便利な嘘

日本では現在、推計146万人がひきこもり状態にあるとされている(2023年内閣府調査)。報道されるたびに語られるのは、本人の「心の弱さ」や「コミュニケーション能力の欠如」だ。家族の育て方が悪かった、本人の努力が足りない、そういう文脈で語られ続けてきた。

しかし、立ち止まって考えてほしい。どの時代にも、どの国にも、一定数の「社会に適応しにくい人」は存在する。それは昔も今も変わらない。問題は、なぜ現代の日本でこれほど多くの人が長期間にわたって社会から切り離されているのか、という問いに、誰も正面から答えようとしないことだ。

この文章は、ひきこもりを「個人の失敗」としてではなく、「社会の設計ミス」として読み解く試みである。そしてその設計ミスが、政治の腐敗とどうつながっているかを論じる。


人間を「規格品」に仕上げるコストは、誰が払うのか

現代の職場や学校には、暗黙の「規格」がある。毎朝決まった時間に出勤できること、集団のルールに黙って従えること、感情を抑えて指示通りに動けること。こうした規格に自分を合わせる作業には、人によってかかる労力がまったく違う。

たとえば、感覚過敏のある人にとって、蛍光灯が点滅するオフィスで8時間働くことは、健常者の想像をはるかに超える消耗を伴う。対人関係に強い不安を抱える人にとって、毎朝の朝礼や飲み会への参加は、業務そのものより過酷な試練になり得る。

こうした「自分を社会の規格に合わせるための負担」を、ここでは「適応コスト」と呼ぶことにする。

資本主義社会が暗黙のうちに前提としているのは、この適応コストを個人が自己責任で払い続ける、ということだ。低コストで適応できる人間だけを「使える人材」として評価し、そうでない人は「努力不足」として市場から弾き出す。企業は人を選ぶが、人に合わせて仕事を変えることはほとんどしない。

この構造において、適応コストの高い人間は最初から「不良品」として扱われる。


排除するより、隔離して現金を渡す方が安い

では、国家はこの問題をどう処理しているか。

社会に適応しにくい人々を受け入れるために職場環境を根本から変えることは、企業にとっても行政にとっても、多大なコストを伴う。バリアフリー化、個別対応、多様な雇用形態の整備。こうした施策を本気で進めれば、それなりの財源と制度設計が必要になる。

しかし、生活保護や障害年金を支給して「脇に置いておく」コストは、それよりずっと安い。

これは皮肉でも比喩でもなく、行政の現実的な計算だ。完全に社会参加できなくても死なない程度に現金を配り、問題が表面化しないよう管理する。そうすることで、社会構造を変えるという面倒な作業を先送りにできる。

結果として生まれるのは、「生かしてはいるが、社会の中には入れない」という状態だ。憲法第25条は「健康で文化的な最低限度の生活」を国民に保障している。だが、餓死しない程度の給付金と四畳半のアパートが「文化的な生活」と言えるだろうか。働く機会も、社会とのつながりも、自己実現の手段も持てない状態を放置することは、同じ憲法が定める「個人の尊重」(第13条)や「教育の機会均等」(第26条)の精神と、どう折り合いをつけるのか。

国家は答えを出していない。ただ、問いを先送りにしているだけだ。


「やってる感」という欺瞞の技術

もちろん、国は何もしていないわけではない。ひきこもり支援センターが設置され、就労移行支援の制度があり、不登校の子どもへの対応として「教育支援センター(適応指導教室)」が全国に置かれている。

しかし、これらの施策の多くは、「本人を社会の規格に合わせて送り返す」ことを目標としている。なぜ学校に来られないのかを社会の側から問い直すのではなく、来られない子どもを「適応できるよう訓練する」施設がある。就労支援も、働きやすい職場環境を作る義務を企業に課すより、当事者に「一般就労できるスキル」を身につけさせる方向に傾いている。

制度はあるが、根本的な問いには触れない。社会の規格そのものを変えるコストは払わず、「支援している」という実績だけを積み上げる。

これは政策の失敗ではなく、意図された設計だと言えるかもしれない。問題の原因に手をつけずに、問題の症状だけを管理する。そうすることで、構造を変えなくて済む。


「建前と本音の二重帳簿」が政治腐敗を産む

ここで視点を広げると、ひきこもり問題は日本の政治構造そのものの縮図に見えてくる。

憲法という最高規範が存在するが、その理念を本気で実現しようとすれば莫大なコストがかかる。だから国家は「憲法の精神を守っています」という建前を維持しながら、実態は都合のよい解釈で回避し続ける。

この「建前と本音を使い分ける」技術こそが、日本の官僚システムと政治文化の基礎を形成してきた。

そして、最高規範の運用において嘘をつくことが「合理的な選択」として制度化されると、同じ論理が政治全体に波及する。2017年に発覚した森友・加計学園問題では、財務省が公文書を改ざんし、行政の意思決定プロセスが意図的に隠蔽された。2020年の「桜を見る会」問題では、首相の公式行事に関する招待者名簿が廃棄された。いずれも「都合の悪い事実を隠す」ことへの官僚・政治家の躊躇のなさを示している。

こうした事態は、突然変異的に起きたのではない。「本来払うべきコストを誰かに押し付け、自分たちの利害を守る」という行動原理が、社会の底辺から頂点まで一貫して流れているのだ。

弱者への適応コストの外部化(自己責任論)と、権力者による責任の回避(公文書改ざん)は、同じ論理の上下の表れである。


社会が撒いた種は、社会に返ってくる

人間は本来、多様だ。感覚の鋭さ、集団への適応力、時間感覚、対人関係のスタイル。これらはスペクトラム状に分布しており、「普通」という一点に全員が集中することはありえない。

にもかかわらず、社会のシステムが極度に均質化・効率化を追求すれば、必然的に「はみ出す人間」が生まれる。そしてその人たちを排除するコストは、最終的に社会全体で負担することになる。ひきこもりの長期化は、医療費・生活保護費の増大、労働力の損失、家族介護の負担として社会に跳ね返る。

これは因果応報でも比喩でもなく、単なる算術だ。

多様な人間を包摂できる社会設計に投資しなかった分のツケは、別の形で必ず請求書が届く。しかしその請求書が届く頃には、設計上の欠陥を見逃した責任者はとっくに現場を去っている。だから誰も責任を取らない。


問われているのは、「誰が人間のコストを払うか」だ

この問題の核心は、シンプルな問いに集約される。

「社会の多様性に対応するコストを、誰が、どのように負担するのか」

現状の答えは明白だ。適応コストの高い個人と、その家族が払う。社会と国家は払わない。

これを変えるためには、制度の小手先の修正では足りない。学校や職場の「あるべき姿」についての根本的な問い直しが必要だ。画一的な評価基準の解体、多様な働き方への実質的な対応、そして「普通じゃない人を正常化しようとすること」をやめること。

それは単に「弱者への優しさ」ではない。社会が自分自身の持続可能性を守るための、合理的な投資だ。


おわりに:腐敗の起点を見る

ひきこもりや不登校を「個人の問題」として処理し続ける国家は、最高規範である憲法を日常的に骨抜きにしながら、それを「仕方のないこと」として制度化している。

「仕方のないこと」として放置することに慣れた統治機構が、公文書の改ざんや政治的な嘘に対しても「仕方のないこと」として機能していくのは、論理的な必然だ。腐敗は突然始まるのではない。小さな「見て見ぬふり」の積み重ねが、やがて大きな欺瞞を支える土台になる。

146万人のひきこもりは、統計上の数字ではない。社会の設計が誰かに対して機能していないという、繰り返し届けられる警告だ。

その警告を「個人の弱さ」に変換して処理し続ける限り、この社会は問題の原因を直視することなく、ただ症状の管理だけを続けていくだろう。

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