【世紀末キャンバス解剖学】なぜ象徴主義の絵画は、誰もこちらを見ないのか? ――画面に隠された「5つの暗号」と、画家たちの「狂気の神話愛」
象徴主義の絵画と聞いて、身構えた経験はないだろうか。
展覧会のキャプションを読む前に、こっそりスマホで検索してしまう。
ギリシャ神話の系図と聖書の逸話を頭に入れてからでないと、キャンバスの前に立つ資格さえもらえない気がする。
そんな敷居の高さを、どこかで刷り込まれてはいないだろうか。
はっきり言っておこう。
それは呪いである。
しかも、画家自身がかけた呪いではない。
彼らの死後、作品を分類し、解説を付け、教科書に収めてきた美術史という制度が、後から静かに上乗せした呪いなのだ。
誤解のないように言っておくと、モロー自身、古代の資料を読み込み、文学や神話の細部を緻密に絵の中に仕込んでいた。
画家が最初から「わかりやすい絵」を目指していたわけではない。
ただ、少なくとも、いま私たちが「象徴主義は難しい」と身構えてしまう理由の一つは、その意味を「解読すべき謎」として整理し、教科書に収めてきた、後世の制度の側にある。
モローも、クノップフも、教養を試す謎かけとして絵を描いたわけではない。
神話を、義務としてなぞったのでもない。
彼らが求めていたのは、もっと切実で、もっと個人に根ざした何かだった。
証拠は、画面のいたるところに転がっている。
たとえば視線。
この時代の絵の中で、誰かと目が合った経験を持つ人は、はたしているだろうか。
少なくとも、モローやクノップフ、ルドンらの代表的な作品を見ていくと、美女も神話の英雄も、こちらの存在にまるで気づいていないように見える。
多くの人物が、斜め下か、虚空か、自分の内側だけを見つめている。
たとえば装飾。
首を飾る宝石、髪に絡みつく金細工。
物語の進行にはまるで必要のない過剰さが、画面をびっしりと埋め尽くす。
これは知識の誇示ではない。
むしろ、逆である。
目に見えるものだけを信じる実証主義が学問を席巻し、退屈を大量生産するブルジョワの応接間が現実の標準になっていた時代、画家たちは絵筆一本でその現実を遮断する暗号を編み出した。
象徴主義とは、静かで、しかし相当しつこい反逆でもある。
視線を外すことは、その反逆の最初の一手にすぎない。
ラテン語辞典は、いったん閉じてしまってかまわない。
必要なのは、キャンバスを一ミリずつ解剖する目だけだ。

五つの暗号――キャンバスを解剖する
さっそく、質問から始めよう。
象徴主義の絵を一枚、頭に思い浮かべてほしい。
そこに描かれた人物と、あなたは一秒でも目が合っただろうか。
サロメが客席をひとつも見ない絵。
スフィンクスが虚空を睨む絵。
鏡の前に佇む女が、こちらには一瞥もくれない絵。
心当たりのある一枚が、もう頭に浮かんでいるかもしれない。
答えは、おそらくノーだ。
少なくとも、モローやクノップフ、ルドンといった、この記事で扱う画家たちの作品を見ていくと、観客と視線を正面から結びつけることは、しばしば意図的に避けられている。
人物同士でさえ、互いの目を見ないことが多い。
多くの人物が、斜め下か、虚空か、自分の内側にだけ意識を向けている。
彼らが見つめているのは、夢か、死か、あるいはその両方であるようにも見える。
なぜ、これほど徹底して目を逸らすのか。
理由は次の章で明かすとして、まずは画面を覆う「暗号」そのものを、一つずつ検分していこう。
● 鏡
クノップフやワッツが偏愛したモチーフである。
この鏡は、単なる外見の反射装置としてではなく、自己認識や二重性を示す装置として読むことができる。
ときに鏡像は、実際の人物とわずかに食い違って描かれているようにも見える。
その小さな齟齬は、自己との対話であり、あるいは死や永遠を告げる予告として読み解ける。
鏡は、しばしば二人の人物を同時に映しているようにも見える。
片方は本人で、もう片方はもう一人の自分、あるいは過去や未来の自分であるかのように。
水面に映った自分に恋をして溺れたナルキッソスの神話が、この時代にたびたび呼び出されるのも偶然ではない。
鏡というモチーフの重要な参照項の一つが、あの逸話にあるからだろう。
クノップフの場合、モデルの多くは妹マルグリットだったと伝えられている。
同じ顔立ちが作品を横断して繰り返し現れることで、鏡に映るのが現実の妹なのか、画家自身の理想が投影された分身なのか、判然としなくなる。
鏡が映すのは、もはや誰か一人の顔ではなく、画家の内側にある一つの型なのかもしれない。

この作品は、クリスティーナ・ロセッティの詩の一節から着想を得たと言われている。
鏡、花、眠りの神ヒュプノスの胸像といったモチーフは、思いつきで配置されたのではなく、詩や散文から出発した、かなり周到な構想のもとに組み上げられている。
「暗号」という言い方は、単なる比喩ではない。
画家自身が、テキストから絵を組み立てるという作業を、実際にやっていた痕跡でもある。
● 切られた首と、波打つ髪
モローの《出現》に描かれる、サロメの前に浮かぶヨカナーンの首。
あるいはルドンが繰り返し描いた、生首のモチーフを思い出してほしい。
モローの画面では、首が肉体から切り離されることで、処刑された身体の一部というより、肉体から離脱した精神のような存在へと変貌していく。
モローは生涯を通じて、同じサロメの主題を幾度となく描き直したと言われている。
その執着のなかで、ヨカナーンの首はしだいに、単なる処刑の証拠品ではなくなっていく。
肉を離れた頭部は、光を放つ聖遺物のように扱われ、サロメが見つめる先にあるのは、恐怖でも欲望でもない、ほとんど恍惚に近い何かへと変わっていくのだ。
モロー美術館は、この首を光輪をまとった幻想的な出現として説明し、モローが聖書のわずかなエピソードを、夢を描くための口実に近い絵画詩へと変換したと位置づけている。
興味深いのは、これらの首から、血がほとんど描かれない点である。
生々しい処刑の痕跡は徹底して省かれ、代わりに柔らかな光暈が首の周りを取り囲む。
髪もまた、同じ論理で描かれる。
私には、波打つ髪の一本一本が、精神の波長を捉えるアンテナのようにも見える。
● ジュエリー
サロメが身にまとう、現実離れした量の宝飾。
それは生々しい肉体を覆い隠し、朽ちることのない人工の美へと昇華させる装置である。
宝石の一粒一粒が、光を反射し、屈折させる小さな宇宙として、画面の中に組み込まれている。
モローがビザンティンのモザイクやインドの細密画から、装飾の語彙を大量に借りてきたことはよく知られている。
宝石と金細工が肌の上に幾重にも積み重なる様は、鎧というより、もう一枚の皮膚に近い。
モローには、《刺青のサロメ》と呼ばれる未完の一枚さえ残されている。
そこでは宝飾はもはや身にまとう装身具ではなく、肌そのものに直接刻み込まれた紋様として描かれる。
装身具はもはや身につけるものではなく、身体そのものを作り替える手段になっている。
● 花
とりわけユリと水仙。
太陽の下、屋外で咲き誇る印象派の花と、この文脈での「花」は、まったく別の生き物だと考えたほうがいい。
象徴主義の花は、閉ざされた室内や密室で咲く、退廃の花である。
ユイスマンスの小説『さかしま』を読んだことのある読者なら、主人公デゼッサントが温室に集めた、毒々しいまでに人工めいた花々を思い出すかもしれない。
象徴主義の花は、自然の恵みというより、人の手によって選び抜かれ、育てられた、いわば人工の自然に近い。
純潔と、死の冷たさを同時に抱え込む。
孤高に一輪だけ描かれる花は、たいてい画家自身の精神を映す鏡でもある。
ユリは純潔と受胎告知を連想させる花でありながら、この時代の絵では、死の匂いをまとって描かれることが多い。
水仙もまた、水面に映る自分に恋をしたナルキッソスの神話と切り離せない花である。
鏡の項で見た自己愛の主題が、ここでも静かに反復されている。モチーフ同士が、互いに反響し合っているのだ。
● 目と眼球
五つ目、目と眼球そのもの。
ルドンが繰り返し描いた、宙に浮かぶ眼球を思い出してほしい。
代表作の一つ《眼は奇妙な気球のように無限に向かう》について、ルドン自身、無限に向かって上昇していくイメージとして語ったと伝えられている。
肉体から切り離された眼が、身体からも重力からも自由になって上昇していくとき、見るという行為そのものが、精神的な探索へと変わってしまう。
見る芸術から、感じる芸術への転換が、この一つのモチーフに凝縮されている。
ルドン自身、木炭や版画といった、色を持たない静かな技法を好んだ時期が長い。
色のない、いわば夢の中の色調で描かれた眼球は、見る側の網膜にではなく、見る側の想像に直接語りかけてくる。
目に見えるものを、目に見えないものの奉仕に差し出したい。
そんな逸話が、彼については語り継がれている。
目に見えないものへの関心は、絵画の外にも広がっていた。
この時代のパリでは、催眠術や心霊現象、交霊術など、目に見えないものへの関心が社会の中にも静かに広がっていた。
宙に浮かぶ眼球は、そうした空気を吸い込んだ末に生まれたモチーフとも言えるだろう。
「既読」も「未読」もつかない沈黙を、画家自身が実践していたと言えば、いまの感覚にも馴染むだろうか。

興味深いのは、これら五つの暗号が、たいてい一枚の画面のなかで折り重なるように共存している点だ。
鏡の前で祈るように佇む女の首元には宝石が光り、傍らには一輪の花が置かれ、その視線は誰も見ていない。
暗号は単体で機能するのではなく、幾重にも重なることで、ようやく一つの密室を完成させる。
五つの暗号を並べてみて、気づくことがある。
どれも一様に、外側ではなく、内側へ内側へと沈んでいく方向を持つ。
では、なぜここまで執拗に、外界から目を逸らす必要があったのか。答えは、次の章にある。
なぜ「暗号ひとつ」が、宇宙とつながるのか
なぜ、これほどまでに目を逸らし、画面を暗号で埋め尽くす必要があったのか。
目が合うと、観客は「見られている」という現実に引き戻されてしまう。
目を外すからこそ、観客は絵の内側へ、するりと滑り込むことができる。
いわば、覗き見る側にそっと回されるのだ。
聖画や仏画を思い出してほしい。あれらは鑑賞者と世間話をしない。目を合わせないという、たったそれだけのことが、絵をサロンの商品から、祈りの壇へと変えてしまう。
もし完全に観客を拒みたいなら、そもそも発表も展示もしなければいい。
視線を外すという行為は、暗号を解ける者だけへ差し出された、静かな挑戦状でもある。
人物同士が目を合わせないからこそ、劇のオチは一つに固定されない。
沈黙こそが、この絵画における言語なのだ。
付け加えるなら、目を合わせないことは、鑑賞という行為そのものの位置を変えてしまう。
西洋絵画の伝統では、人物の視線が観客に向くことで、両者のあいだに一種の契約が生まれる。
象徴主義は、その契約を最初から結ばない。
観客は招かれざる客のまま、盗み見るようにして画面へ近づくしかなくなる。
目を合わせないという選択は、拒絶であると同時に、選び抜かれた者だけへの招待でもあるという逆説だ。
これは、現代の私たちにも、案外身に覚えがあるのではないか。
SNSのプロフィール写真に、誰も気づかないようなアニメの元ネタを忍ばせる。
アイコンの片隅に、好きなバンドの歌詞を一行だけ仕込む。
フォロー欄を見た人にしか伝わらない、内輪の合言葉を選ぶ。
鍵をかけた裏アカウントを、限られた人にだけ教える。
わかる人にだけわかればいい。
わからない人は、素通りしてくれてかまわない。
そうやって、参入の壁を自分の手で作る行為に、心当たりはないだろうか。
視線を外すことは、外界への拒絶である。
鏡やジュエリーは、内側、つまり夢への招待状である。
象徴主義の画家たちが本当に求めていたのは、絵を解読できる観客、いわば共犯者だけだったのかもしれない。
狂気の神話愛と、三次創作としての再構築
美術史の教科書は、長らくこう説明してきた。
神話画とは教養としての義務であり、パトロンからの注文に応えて描かれたものだ、と。
だが、モローに関して言えば、この説明はかなり怪しい。
彼は依頼されて渋々ギリシャ神話を描いたのではない。
古代の資料を貪るように読み漁り、スケッチブックを何冊も埋め尽くすほど、神話そのものに取り憑かれていた。
パリのアトリエに引きこもり、同じサロメという主題を、生涯にわたって幾度となく描き直し続けたとさえ言われている。
モローは晩年、パリの自宅兼アトリエを、自作を展示する美術館として国に遺すことを決めている。
生涯かけて描き続けた神話の数々を、死後もなお一つ屋根の下に留め置きたいという執念が、そこには表れている。
これはもう、教養というより、偏愛と呼んだほうが正確である。
たとえるなら、特定の作品を極限まで愛でるファンに近い。
設定資料集を隅々まで暗記し、行間から新しい解釈を汲み取り、自分だけの二次創作を生み出してしまう、あの熱量だ。
モローたちがしていたことも、規模と技術こそ桁違いだが、構造としてはよく似ている。
ここで、同時代のアカデミックな歴史画と比べてみよう。
アカデミックな歴史画では、文学や聖書、古代史などのテキストを、歴史的・考証的な細部を備えた「もっともらしい場面」として構成することが重視された。
衣装も、建物も、時代考証が重んじられた。
同時代の画家でいえば、ジェロームのような画家は、衣装や建築の考証に驚くほどの労力を注ぎ込んだ。

モローが目指したのは、その正反対である。
正確さを競うのではなく、正確さという物差しそのものを画面の外に放り出すことだった。
神話というテキストを土台にしながら、そこに自分の美学と装飾の知識を大量に注ぎ込み、まったく新しい像へと組み直してしまう。
愛が深すぎて、原作をそのまま写すだけでは、どうにも満足できなかったのだろう。
《サロメ》や《スフィンクス》に施された、過剰なまでの細部。あれは知識をひけらかすための飾りではない。
愛が結晶化した結果、ああなってしまっただけなのだ。

では、その再構築には、どんな計算が働いていたのか。
ここでは三つのパターンに絞って見ていこう。
○ 異文化のコラージュ
インド風の冠、ペルシャ風の刺繍、ビザンティン風の建築。
モローの画面には、これらがまるで節操なく混ぜ合わされている。
おかげで、描かれた場面がいつの時代のどこなのか、特定することがほぼ不可能になる。
歴史画が命がけで守ってきた時代考証を、真正面から裏返した発想だと言っていい。
エジプトの柱とインドの宝冠が同じ画面に同居していても、モローにとっては何の矛盾でもない。
むしろ、特定の時代や場所に縛られないことこそが、神話を永遠の物語として扱うための条件だったのだろう。
同時代の批評家のなかには、モローの仕事ぶりを金細工師にたとえた者もいたという。
宝石商が石を一つ一つ吟味して台座に組み込むように、モローは異なる文化の断片を、絵筆で丹念に組み上げていったのだ。
○ 平面と立体の衝突
繊細に陰影をつけた肉体のすぐ隣に、真っ平らな金細工が唐突に置かれる。
この組み合わせが遠近感を狂わせ、絵画全体を一枚の織物、まるでタペストリーのような質感へと変えてしまう。
奥行きよりも表面の輝きを優先するこの選択そのものが、目に見える世界の物理法則を、あえて無視する意志の表れである。
こうした平面性への関心は、19世紀後半のフランスで広がった日本美術への関心とも、広い意味では響き合っている。
奥行きよりも、輪郭と色面の並びで画面を構成しようとする発想は、西洋の伝統的な遠近法とは異なる論理を持つ版画から、多くの画家たちが学び取ったものでもあった。
○ 光を放つモチーフの集中配置
画面の大部分を占める闇の中に、宝石だけが点々と光を放つ。
観客の視線は、その光を追って、あちらこちらへ跳ねることになる。
これはもう、鑑賞というより、巡礼に近い体験だ。
一枚の絵の前に立つだけで、暗闇の礼拝堂を歩き回っているような感覚に襲われる。
闇の中に光る点だけを置くという手法は、教会のステンドグラスが果たしてきた役割とも重なる。
暗い聖堂の中で、光だけが物語を語りかけてくる、あの経験の絵画版と言ってもいい。
構図そのものにも、計算は行き届いている。
建築が作り出す垂直と水平の線が、画面全体をフリーズ、つまり静止した帯のように固定する。
時間の流れを、そこで完全に止めてしまうのだ。
人物は動きの途中ではなく、永遠にその一瞬に閉じ込められたかのように描かれる。
この静止という選択は、当時のフランス絵画に広く見られた、壁画風の構図の流行とも無縁ではない。
動きを描くのではなく、永遠に続く一場面として神話を提示する。
そうした発想が、世紀末の画家たちのあいだで静かに共有されていた。
この静止した舞台の上で、神話の役割は、しばしば逆転させられる。
たとえばオイディプスとスフィンクス。
本来は英雄が怪物を退治する物語のはずが、モローの画面では、スフィンクスのほうが、オイディプスの精神ごと侵食していくように見える。
加害と被害の立場が、いつのまにか入れ替わっているのだ。

サロメも、同じ扱いを受ける。
原典である新約聖書には、実は「サロメ」という名前そのものは登場しない。
ヘロディアの娘とだけ記されたその人物が、のちの資料によってサロメと同定されてきた。
原典の彼女は、洗礼者ヨハネの処刑を自ら企てたわけではなく、母ヘロディアに促され、踊りの褒賞としてヨハネの首を所望する役回りにすぎない。
ところが、モローの絵の中では、死と美を同時に司る巫女へと格上げされる。
彼女が手にする首は、もはや戦利品ではない。
生と死のあいだを取り持つ存在へと、彼女自身が昇格させられているのだ。
踊りという一瞬の行為が、永遠に続く儀式へとすり替えられている。
さらに大胆なのが、性の境界を溶かす描き方だ。
オルフェウスやアポロンのような英雄は、本来は筋骨隆々の勇士として描かれてきた。
ところが、象徴主義の画家たちの手にかかると、彼らは驚くほど華奢で、中性に近い青年へと生まれ変わる。
「盛れる」加工が今の私たちにとって当たり前になったように、ありのままの姿より、人の手で整えた姿を選び取る発想は、実はそう新しいものではないのかもしれない。
クノップフの《愛撫》に描かれた、スフィンクスと青年の姿を見れば、その徹底ぶりが分かるはずだ。
この作品では、筋肉の隆起も、髭の剛毛も削ぎ落とされ、残るのは滑らかな曲線だけである。
こうした青年像は、力強さよりも、脆さや曖昧さのほうに価値を見出す、当時のもう一つの美意識を映してもいる。
強さの象徴だったはずの神々の身体が、これほどまでに作り替えられたことにこそ、画家たちの意志の強さが表れている。

神話を再現するのではなく、原典を一度自分の中に取り込み、まったく別の形で吐き出し、自分だけの物語として組み立て直す。
象徴主義の画家たちがやっていたのは、いわば、神話を素材にした「三次創作」だったのである。
誰もが人工の楽園を求めている
ここまでの話を、一度まとめてみよう。
一章で見た「呪い」。
二章で見た、幾重にも折り重なる暗号と、目を合わせない視線。
三章で見た、神話の作り替え。
この三つは、実はすべて同じ根から伸びている。
その根とは、ありのままの現実への、激しい拒絶である。
少し立ち止まって考えてみたい。
なぜ、これほどまでに現実を拒む必要があったのか。
十九世紀後半のフランスは、産業と科学が急速に生活を塗り替えていった時代である。
鉄道が距離を奪い、工場が空を煤で染め、統計と実験室が、世界のあらゆる現象を数値へと還元していった。
目に見えるものを測り尽くせば、世界のすべてが分かる。そう信じる空気が、社会の隅々にまで行き渡っていた。
自然は、いずれ枯れる。
肉体は、いずれ朽ちる。
実証主義がどれほど精緻に世界を計測したところで、その先に待っているのは、変わらず色褪せていく現実でしかない。
象徴主義の画家たちは、この前提そのものを認めなかった。
ありのままの自然も、ありのままの歴史も、所詮は未完成の素材にすぎない。
人間の知性と意志で丹念に組み直した人工物によってのみ、人はその不完全な現実から抜け出すことができる。
それが、彼らの美学だった。
面白いのは、実証主義も象徴主義も、同じ道具、つまり人間の知性を使っている点だ。
ただし、その使い道がまるで違う。
実証主義は知性を使って、現実をありのままに写し取ろうとした。
象徴主義は同じ知性を使って、現実を書き換えようとした。
両者は敵対しているようでいて、実は同じ時代が生んだ、双子のような衝動なのかもしれない。
これは、当時のフランスに漂っていた気分と、決して無関係ではない。
ボードレールが夢見た人工の楽園、ユイスマンスがデゼッサントに与えた、俗世からひたすら遠ざかろうとする屋敷。
象徴主義の画家たちがキャンバスの上でやろうとしていたことも、根っこは同じだったのではないか。
文学が言葉で築いた密室を、絵画は色彩と構図で築き直した。
目に見える世界がどうしようもなく味気ないなら、目に見えない世界を、自分の手で作ってしまえばいい。
だからこそ、彼らは祈りの壇を作った。
だからこそ、視線を外し、現実を画面の外へ締め出した。
だからこそ、誰よりも愛した神話を、自分だけの手で書き換えた。
祈りの壇を作る者。
視線を外し、現実を遮断する者。
愛する物語を、自分だけの芸術へと書き換える者。
この三つの像は、突き詰めれば、同一人物の三つの側面にすぎない。
向かう先はいつも同じ、現実の外に、自分だけの楽園を築くことだ。
呪いだと思っていたものの正体は、実のところ、画家たちが命がけで守ろうとした、たった一つの意志だったのかもしれない。
象徴主義の画家たちは、神話を再現したのではない。
自分だけの神話を、キャンバスの上に再構築したのである。
一四〇年前の部屋と、私たちの部屋
SNSのアカウントを、好きなものの気配だけで満たしたことはないだろうか。
部屋のインテリアを、誰も気づかないくらい細かいこだわりで統一したことは。
着る服の、ボタン一つの選び方にまで、譲れない基準を持ち込んだことは。
プレイリストのジャケット画像を、あえて誰も知らないマイナー曲のものに変えたことは。
読んでいる本のカバーを、外出先ではそっと外したことは。
誰かに理由を尋ねられても、うまく説明できない、けれど譲れないこだわりが、私たちの生活のあちこちに転がっている。
嫌な現実や、噛み合わない人間関係から自分を遠ざけ、自分だけの空間を作りたい。この欲求は、決して特殊なものではない。
むしろ、誰の中にも眠っている。
SNSの時代になって急に芽生えた欲求ではない。
おそらく、ずっと昔から、形を変えながら人の中に存在し続けてきたのだろう。
画面のモチーフや構図を一ミリ単位で調整し、アイコンやプロフィールという境界線を、自分の手で丁寧に整えようとする私たち。
それは、百四十年前の画家たちがキャンバスの上でやっていたことと、驚くほどよく似ているのではないだろうか。
パリの片隅、ランプの灯りだけが照らす部屋で、誰とも目を合わせず、ひたすら自分の内側だけを見つめていた画家たち。
呆れる気持ちと、うらやむ気持ちが、同時に湧いてくる。
目を逸らしたのは、あの人たちだけではない。
気づけば、私たちも、同じ方向を向いている。
誰とも目を合わせず、たった一人でキャンバスに向かっていた画家たちの孤独は、思っていたよりずっと近い場所にある。
もしかしたら、あなたの部屋にも、あなたのSNSにも、すでに小さな祭壇が一つ、静かに出来上がっているのかもしれない。
参考文献 [ ☽ ]
高階秀爾(監修)・千足伸行(編)『世界美術大全集 西洋編24 世紀末と象徴主義』小学館、1996年
千足伸行『もっと知りたい世紀末ウィーンの美術』東京美術、2009年
中村隆夫『象徴主義と世紀末世界』 国立西洋美術館(編)『ギュスターヴ・モロー展』図録、NHK・NHKプロモーション、1995年
大岡信『ギュスターヴ・モロー 夢のとりで』 木島俊介(監修)『フェルナン・クノップフ展』図録、Bunkamuraザ・ミュージアム
Philippe Jullian, Dreamers of Decadence: Symbolist Painters of the 1890s Michael Gibson, Symbolism(Taschen)
Rodolphe Rapetti, Symbolism(Flammarion)
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