あえて言語化しないという方針
言語化ブームが数年前から続いてるが、俺はむしろ節操なく言語化しすぎることの方がずっと危険だと思っているので、最近はあんまり内心を言語化し過ぎないように努めている。結局のところ、外向的な言語化はどこまで行っても迎合でしかなく、また内省的な言語化は認知の歪みを増大させるだけだと思う。大抵の重要なことは言語化するまでもなく解っている事実であることが殆どで、ときに言語化はそういう事実をひん曲げて余計な装飾を施し、しょうもない感傷を呼び起こす。
若干、話が変わるが、小説家を言語化代行サービスだと思っている層が割と存在していて、正直に言うとそういうのに露骨にコミットしてる村田沙耶香とか朝井リョウとかの小説があんまり好きじゃない。朝井リョウはそもそも文章と構成が上手いのでつい感心して最後まで読んでしまうが、村田氏の本で最後まで読めたのはコンビニ人間だけで、特に世界99は読んでて腹が立ってきたって理由で断念した数少ない小説の1つである。胸糞悪くて挫折ってわけじゃなくて、こう言っちゃなんだが説教臭さにイラッと来たのである。ステレオタイプの舞台装置を用いたお人形遊びっつうか。コンビニ人間も割とそんな感じだけど。
なんだろう。作者が怒ってるのは解るが、しかしこういう怒り方をされると、作者の怒りに加担したくないこちらとしましては、キレ返すしかないというか……要するにSNS的なのだ。作者と一部の読者にとっての『敵』と『敵の敵』しか存在を許さないような、ひどく時代に迎合した文芸なのである。
そんな感じで小説はこれからどんどんSNS的になって行く気がする。売れるし。小説じゃなくてマンガだけどアレもアニメ化されるし。そもそもどうあがいてもこのインターネッツ空間からは逃れられない訳で。
多分だけど、きっとそこから逃れる上で必要になってくるのはマジックリアリズムで、つまるところ不思議でオカルティックなもので、それはSFとかホラーとかジャンル分け可能なものに留まらず、突飛なものというか、良い/悪いの言語化を超えた神話(みたいなもの)を、クリエイターは描くべきじゃね?って思う。
という、言語化なのだが、要するに言語化なんて実のところ大層なものではなく、節度のない言語化はときに誇張とか歪みを起こすし、それはSNS的な対立と紙一重だよねってことを言いたかったんだ。すまない三宅香帆。村田沙耶香センセイもディスってしまい申し訳ない。朝井リョウは本当はむしろ結構好きで4冊くらい読んでる。
