クーシュ
その日は彼と映画に行こうと約束をしていた。ムビチケまで買って、来たる上映日を待ち望んでいた。
するとその約束の日に、ビールフェスティバルが開催されるという情報を手に入れてしまった。上映は午後4時からだから、お昼頃にちょっと飲みに行くのもいいかも。会場時間に合わせて芝公園に向かった。
ビールフェスには大体ステージが併設されている。全然知らないアイドルと、そこにバズーカみたいなカメラを構えて陣取る数人のオタクたちを眺めながら我々は黒ビールを飲んでいた。オニオンフライをおすすめしに座席まで来る店員の言葉を適当に受け流す。
アイドルが退場すると「乾杯の歌を歌いましょう!」とイベント公式軍団が出てきて、合言葉や振り付けが客に伝授される。血気盛んなステージの軍団と、たいして反応せず黙々とビールを飲む日本人客のコントラストが辛い。
乾杯の歌が始まった。
突如、酔っ払ったサングラスの男が3リットルの特大ビールグラスを持ちながら全席を回って握手を求める意味不明のイベントが発生していた。
その男をもってしても会場があまり盛り上がらないのがニッポンのビールフェスという感じだ。
サングラス男の手はこぼれたビールでびちょびちょだった。
正午を周り、人も増えてきたところで明らかにドイツ人らしいおじさんが我々の隣に座った。ビールがとても似合う。
話しかけられて乾杯をする流れになったのだが、私と彼のグラスはちょうど空っぽだった。空のグラスで乾杯する仕草をすると、そのおじさんは我々のグラスに自分のビールを分けて注いでくれた。
「センキュー」と言い、「カンパーイ」を教えた。
拙い英語でそのおじさんと色々な話をした。そのおじさんの名前は「クーシュ」という。もっと複雑な名前だった気もするけれど、「クーシュ」と呼ぶと反応してくれたのでそう呼ぶことにした。
「早めにリタイアをして、世界中を旅しているんだ。明日ドイツに帰るよ。」
「そうなんだ。何歳なの?」
「45歳だよ。息子が2人いるんだ。ほらここに。」
クーシュは徐にシャツのボタンを外し、胸元にある息子のタトゥーを見せてくれた。証明写真みたいに真面目な顔をした男性2人がクーシュのデコルテに並んでいた。
クーシュが光の早さでビールを飲み干して2杯目を買いに席を外したとき、そこに30代くらいの男女ふたり組が座った。「あ、そこはクーシュの席……」と思ったが別に言わなかった。
戻ってきたクーシュは「僕も座らせてくれ」と、我々とその男女の間に無理やり座り、「カンパーイ」と呼びかけた。クーシュの力により我々・クーシュ・30代男女の5人組が誕生した。
男性はヒロシさん。証券マンをやりながら民宿を運営しているらしい。そんなやり手には見えないくらい親しみやすい雰囲気を醸し出している。
女性はホシミさん。娘が少林寺拳法部に入ったため、自分も会社員をしながら少林寺拳法を習い始めたパワフルな人。ふたりは大学時代の友人とのこと。
「俺全然英語しゃべれないんだよー! お前ら頼む!」
と、クーシュと肩を組みながらひろしさんが言った。鮮やかなほどのプライドのなさがカッコいい。
さあ喋ろうという時に、我々のグラスがまたも空になってしまった。するとクーシュは自分の財布からカードを取り出し、彼に「これで買っておいで」と渡していた。
彼は遠慮したが、「いいから買ってこい」と一点張りのクーシュに負け、結局彼はそのカードだけを握りしめてビールを買いに行った。
しばらくしてカードだけを握りしめて彼が戻ってきた。使えなかったらしい。クーシュは「ワーオ」と驚き、1万円札を渡してくれた。我々はクーシュの奢りで3杯目のビールを獲得した。
さあ飲もうと思ったらひろしさんがいない。しばらくするとあの3リットルのグラスを抱えて戻ってきた。一同仰天。誰が買うんだと思っていたサイズのビールが目の前にそびえたっている。
言わずもがな、我々5人の大宴会が始まった。もう映画なんて諦めていた。ムビチケが紙切れになることよりも、この偶然でおかしな出会いを失う方もったいないという確信があった。
クーシュはゆっくりとわかりやすい英語で、色々なことを話してくれた。
「僕は戦争に行っていたんだ。軍人として戦っていた。」
「息子のことを何よりも愛しているんだ。」
「長い先のことを不安に思うよりも、今目の前の幸せを大事にした方がいい。何が起こるかわからないし、現に僕は今君たちとこうしてビールを飲めていることがとても幸せだよ。」
今こうやって書くとなんてことない言葉だけれど、我々は3リットルのビールを飲み干さんとしているわけで、感情の機微が何倍にも膨れ上がっている状態だった。だから、すごく、クーシュの言葉が響いて沁みて仕方がなかった。
「私も、今日あなたに会えたことがとても嬉しいし、誇りに思うよ。」
と伝えると、クーシュはにっこりして、まっすぐ目を見て、両手で私の頬を包んで撫でてくれた。おじさんにそんなことされたら気持ち悪いのだが、クーシュだから素直に嬉しかった。
しばらくするとクーシュが「SMOKING KILL」と印字されているドイツ製赤マルの箱を取り出し、喫煙所に行こうと言った。「タバコが俺を殺すんじゃない、俺がタバコを殺すんだ。」と殺気だった目で語っていた。
酔ってグデグデになっているヒロシさんとまだまだ行けそうなホシミさんを置いて、クーシュに誘われた彼と私は喫煙所に向かった。
彼はずっとクーシュに伝えたい言葉を練っているようだった。
しばらくすると、ドイツ語に翻訳されたスマホの画面をクーシュに見せていた。
「人間は、民族も肌の色も言語も文化も、生まれた国にある資源によっても異なります。それを引き金に戦争が生まれるけれど、深く辿れば人間は元々一つ。だから、平等にみんながみんなに与えることができたら、世界は本当は平和なんだと思います。」
クーシュはそれをじっくり読んで画面から目を離すと、温かい目で何度も頷き、返答を入力してまた翻訳画面を見せてくれた。
「言葉ではうまく伝わらないこともありますが、一番大切なのは、人同士の間に生まれるエネルギーです。これは私にとって、とても良いことです。」
外はあっという間に暗くなり、観るはずだった映画もとっくに終わったころにおひらきとなった。
「お前ら、いいなあ! 大好きだよ!」とずっと叫んでいたヒロシさん。
「離れたくない、帰りたくない!」と強い腕力で抱きしめてくれたほしみさん。
いつの間にか無くなっていた3リットルのビールと引き換えにでっかくてかけがえのない思い出ができた。
「Water is Beer , Beer is Water. 」と豪語していたクーシュが我々を2次会に誘い、一緒に地下鉄で移動することにした。
「これに乗るのは初めてだ!」と言っていた。クレジットカードをさらりと渡したり、世界中を旅したり、電車を知らなかったり、クーシュはとんでもなくリッチな人なのではないかということに今更気がづいた。
聞くとやはり、何か事業をやっている社長のようだった。
「水の工場を日本に作りたいんだけどどこがいいかな。」
と事業計画について相談を持ちかけられ、相手を間違えていますよと思ったが彼の地元の宮崎県をおすすめしておいた。
クーシュが「エダマメが食べたい」というので池袋の居酒屋に入った。
依然「俺がタバコを殺すんだ」と言いながらバカスカタバコを吸っていたクーシュが煙を燻らせながら、
「I have cancer.」
と言った。
私と彼は言葉を失った。そして次に、いやいやこんなWaterみたいにBeerを飲んでいてはダメですよ、そのタバコもやめた方が……と心配になり、それを伝えた。すると、
「もうガンであることは変えられない。先のことを心配してそのために苦しい思いをするより、一日一日がハッピーであるように生きていきたいんだ。だから僕は世界中を旅しているし、こうやって君たちとここにいることが何よりも嬉しいよ。」
と言った。
今さっき出会った、大好きなクーシュがガンであることの衝撃と悲しさと酔いで涙が出てきてしまった。タバコを持っていない方の手で、私の涙を優しく拭ってくれた。
「悲しむのはだめ。それは僕にとってもすごく悲しいこと。今一緒にいることを楽しんで嬉しく思ってくれるのが、僕は一番幸せだよ。」
脳天からつま先までビールが回っていたけれど、その言葉だけはずしりと重く染み渡って、忘れることができなかった。教訓というものはいくらでも言えるけれど、自分の哲学があってそれを体現しながら生きていくことはきっととても難しい。難しさとか、やるせなさとかを経てきた人の言葉は、言語の壁を越えて、抱えきれない質量で響く。
私はもう一度、あなたに会えて本当に幸せで、それを誇りに思います、と伝えた。
最後に、強く長いハグをしてくれた。今でも夢だったのかと思うほど不思議な一日だった。映画を観るよりも映画を観たみたいだった。
宮崎県に水の工場ができていたら、それはクーシュの工場かもしれない。

