『十翼』を読む
曾根毅さんの第二句集『十翼』を読んだ。十翼とは、易経の解釈書のことらしい。
あとがきにもあるが、作者・曾根さんは俳句表現のことを突き詰めて、最深度まで考え抜き、既存の価値観を越えようとし、結果この句集が成った、ということに敬意を持ちたいと思いつつ読んだ。易を題材にして編まれた連作・神異賦など、難解な句群もあるが、わからへん→おもんない、という既存の挫折を回避すれば、見えてくる景色は確実にあるはずである。
句集より
花器という奈落に花の重さあり
花器は奈落(地獄)との見立てに、意表を突かれる。花にとって花器は最終の居宅なので、道理は通っている。だが、ならば奈落は何と日常に在ることだろう。そして奈落には「花の重さ」がある。この重さだけを抽出して言語として顕示する手つきにも、ただならなさがある。この重さには、花の命は含まれているのだろうか。
花ミモザテニスコートの前の家
ミモザの花は、テニスコートの前の家の庭に咲いているのか。ぼくは花ミモザが、テニスコートの前の家を観ている景を想像した。これは、語順にナチュラルに誘導されての読み方かもしれないが…ではミモザは「家」に対してどの位置にあるかは、判然としない。想像をたくましくするに、ミモザはこの世ではない域にあるのではなかろうか。それはあの、小さい黄の花に、現実離れした怖さを覚えるからだ。ぼくだけかもしれないが、花を見て怖いと感じるのは、唯一ミモザだけである。テニスコートが即物的、現実的なモチーフである反動もあって、幻想めいた魅力を感じる句だ。
花は葉に牛は徘徊していたり
花と牛はあまり多く見ない取り合わせだが、異質な美しさをもって、知らない色の景が立ち上がってくる。桜が散り、葉桜になるまでの時間、牛の徘徊する時間が一句の中でコネクトしてることに奇妙さがある。徘徊していたり、といわれると毎日の習慣的なことではなく、今まさに、この瞬間、牛は此の地をさまよっているのだと受け取ってしまう。クレバーな俳人なら「花は葉に、で、初句で一旦切れてる」と解釈するかもしれない。そう読めば論理的に破綻はない。でもその模範解答では、自分が感じた一句の中の時空のいびつさは雲散霧消してしまう。牛の超現実感が、この句の妖しい魅力だと思うのだが…他の読者の方は、あなたなら、この句をどう見るだろう。
