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AIができない事は「型」で伝承される

武術では型を使った稽古が多いが「そんな型なんか実戦で使えるか」と、型の実用性を疑うような議論もある。そもそも実戦ってどのレベルなんだろう。


禅では因・縁・果と言うらしいが、行動すると結果が出る。人間の行動はパラメータが100も200もあるような複雑な関数。あるパラメータx1は相手の気持ちだったり、あるパラメータx2は自分の体調だったり。

  数学的に表現すると y = f(x1, x2, x3, x4,...)

    x … 因(種子)
    f … 縁(水や日照)
    y … 果(果実)

全てのxパラメータを変動させると、いま起きている事象の原因がどこにあるのか分からなくなる。だからパラメータを固定した状態を1つ作っておく。それが「型」

  型 y = f(0, 0, 0, ..... , 0, 0, ...)

日本文化になぜ「型」があるのかといえば、基本に戻って考える事のできるパターンを用意しておくため。コンピュータ・プログラムで言うところのテストコードに相当する。想定外のことが発生したら、そこに戻ってパラメータを1つずつ変えてみる。複数のパラメータを同時に変えると原因が分からなくなる。どのパラメータが影響してるのかを探り出し、修正して結果を変化させていく。


いくつものパラメータを同時に変化させても、それらしく動くこともあるが、それは偶然が作り出した虚像で、我流と呼ぶ。若い頃に組手が強くても歳をとって「体力」というパラメータが弱くなっていけば動きも変わってくる。我流だと修正方法が分からない。
日本文化では茶道や書道や剣術でも大昔からこの「型」システムを採用していて、空手のような新しい芸事でもこのシステムを利用して文化を継承することができている。

まず先人が用意してくれた型に自分をハメる。
すべてのパラメータ=ゼロの状態をカラダに叩き込む。これが守破離の守。とても窮屈な状態だ。

  守 y = f(0, 0, 0, ..... , 0, 0, ...)

次に最低限のパラメータを変えて、自分が動きやすい状態を探っていく。これが破。先人の知恵を存分に活用しながらも自分らしい動きができる。

  破 y = f(0, 3, 0, ..... , 5, 0, ...)

全てのパラメータを自由自在に変更しながら成果が出せるようになれば、離。
ここに至ると「技」というモノが無くなる。動けば技になるからイチイチ分類して名前を付ける事ができない。

  離 y = f(… 自由自在 ...)

守まで3年、破まで10年、離まで30年は最低かかると言われる。これだけ長期間にわたるのだから、型を楽しめないと続かない。

パラメータが少ない行動はマニュアル化できるが、多い行動は型で伝えるしかない。回転寿司の店員はマニュアル化できるが、客の体調まで気に掛けてもてなす寿司職人に修行が必要なのは、そのためだ。
型は師匠から盗むしかない。師匠の足の位置、肘の角度、視線の方向や表情までを真似る(=学ぶ)ことで、自分を型にはめていく。
師匠もかつては「守破離」を経験している。だから師匠の立ち振舞いに「型」が見えてくるのだ。

師匠からどれだけ多くのパラメータを盗めたかが、その人の実力になっていく。一方で師匠は行動を弟子に見せる事でパラメータを伝えていく。なぜならその行動の1つ1つに師匠が時間を掛けて見つけた必然的な意味があるから。直接は見ることのできない師匠の頭の中の「型」は、口伝や立ち振る舞いで伝えていく。感覚的なモノは触れる事で伝承される。武術ならば師匠に投げられた回数が多いほど師匠の皮膚感覚を盗むことができる。

内弟子制度というのは非効率に見えるが、濃度の高い文化を伝えるには最適の手法だ。師匠と同じ時間を長く過ごすことで、演繹的に分かってくる法則がある。そこから逆算することで見えてくるパラメータもある。なんというか、師匠との接触面積が広ければ広いほど、芸は伝わっていく。


遅かれ早かれ、ブルーカラーもホワイトカラーも人工知能に取って代わられる。AIがAI同士で勝手に会話を始めるようになると、こういった人間同士でしか伝承できない「検索できないモノ」が人間の特性として残っていくんだろう。

そういう文化資産を自分の中に持てるかどうかが人間独自の価値になってくる。そして、こういった手法を色濃く残しているのが武術も含めた日本文化である。

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