猫はのんきに「成長なんて、しなくていい」と言った 〜がんばることに疲れた僕への、ネコ先輩の心理学講義
「成長」という階段を降りて、猫と日向ぼっこを始めた話
プロローグ:深夜二時、クレジットカードを握りしめて
「はぁ……ダメだ、完全に置いていかれてる」
週末の深夜二時。静まり返った部屋で、私はノートPCの眩しい光に目を細めながら、激しい焦燥感に震えていた。
きっかけは、ベッドに寝転びながら何気なく眺めていたSNSだった。
『同世代の仲間と起業しました!』という輝かしい集合写真。
『30代で市場価値を上げるための必須スキル5選』という、意識の高そうなインフルエンサーの投稿。
それに引き換え、自分はといえば、毎日遅くまで残業して、上司と顧客の板挟みになり、大した実績も残せないまま消耗している。
「もっと成長しなきゃ……。今月中に英語の資格と、あとデータ分析のオンライン講座も申し込もう。来年には『理想のキャリア』の軌道に乗せておかないと、マジで人生手遅れになる……」
涙目でクレジットカードを取り出し、講座の申し込み画面を進めようとしたその時だった。
「おいおい、夜中の二時にパソコンしばいて、えらい般若みたいな顔しとるな。お前、それ画面見とるんか? それとも自分の『呪い』見とるんか?」
こたつの中から、ぬっと灰色の片足だけを出して、盛大に伸びをしながら話しかけてくる影があった。
ネコ先輩だ。
いつの間にか私の部屋に居座っている、人間の言葉を話す謎のネコ。歴史上の心理学者たちのマニアで、基本はこたつで丸くなっているくせに、なぜか私のメンタルにだけは容赦なくエビデンスベースの突っ込みを入れてくる。
「呪いって人聞きが悪いな! 努力だよ、努力。ネコ先輩にはわからないかもしれないけど、人間には『理想の自分』ってものがあるの。そこに近づくためにがんばらなきゃ、自分がどんどん嫌いになっちゃうんだよ」
私がむきになって反論すると、ネコ先輩はこたつからモゾモゾと這い出てきた。 Bradley(ブラッドレイ)のようなどっしりとした足取りで歩いてくると、私のノートPCのキーボードの上に、何食わぬ顔でどさりと座り込んだ。
「ちょ、画面見えない! どいて!」
「どきまへん。おい、その『理想の自分』っちゅーのは、一体どこのどいつや? 年収一千万で、英語ペラペラで、週三でジム通って、休日は丁寧な暮らしをしとるような、SNSのタイムラインを煮凝りにしたような化け物のことか?」
「化け物って……。でも、そういう風になりたいって思うのは、向上心があって良いことじゃないか」
「アホ。ちょっと頭冷やせ」
ネコ先輩は、ひんやりとした肉球を私の眉間のシワにピタッと押し当てた。
「つめっ! 何するのさ」
「ええか、お前が今がんばろうとすればするほど、自分のことが大気が大嫌いになって、メンタルがボロボロになっとる理由を教えてやるわ。その『理想』な、お前が心から望んどるもんやない。他人の価値観を脳みそに直輸入させられただけの『偽物』や。そして、その偽物の理想が、今のお前を殴りにきとるんやで」
第1章:なぜ「がんばる」ほど、自分が嫌いになるのか?
1. 心の中で殴り合う「三人の自分」
「偽物……? 私が自分で決めた目標なのに?」
「そうや。心理学の世界ではな、その『理想』のせいで人間がバグるメカニズムが、とっくの昔に証明されとんのや。お前、E・T・ヒギンズっていう偉い心理学者の名前、聞いたことあるか?」
ネコ先輩はキーボードの上からようやく退くと、私の机の上にあったノートとペンを器用に前足で手繰り寄せた。そして、丸っこい文字で三つの言葉を書き殴った。
現実的自己(今の自分)
理想的自己(こうなりたい自分)
義務的自己(こうあるべき自分)
「いいか、ヒギンズというおっさんが提唱したのが『自己不一致理論』や。人間にはな、心の中にこの『三人の自分』がおる。そして、この三人同士の仲が悪いと、人間のメンタルは面白いように崩壊していくんや」
ネコ先輩は「現実的自己」と「理想的自己」の間を、バツ印で激しく繋いだ。
「まず、①『今の自分』と、②『こうなりたい理想の自分』にギャップがある状態。これを【現実と理想の不一致】と言う。これが起きると、人間は『自分はなんてダメなんだ』と落胆し、無力感を覚えて【抑うつ(落ち込み)】の感情が湧いてくる。お前がSNSを見て『みんなに比べて自分は……』としょげとるのはこれや」
「う……まさにそれだよ。理想に届いてない自分が情けなくなるんだ」
「話はまだ終わらんぞ。タチが悪いのは次や」
ネコ先輩は今度は、「現実的自己」と「義務的自己」の間にバツ印を引いた。
「もう一つが、①『今の自分』と、③『こうあるべきという義務の自分』のギャップ。これを【現実と義務の不一致】と言う。周りから置いていかれたらアカン、市場価値を高めなあかん、30代ならこれくらい持ってなきゃハジかれる……。こういう『〜すべき』という義務に追われとる時、人間には落ち込みではなく、激しい【不安や焦燥感】が襲ってくる。失敗したらどうしよう、手遅れになったらどうしよう、ってな」
私はノートに書かれたバツ印を凝視した。
落ち込みと、焦り。
「お前は今、夜中に目を血走らせて『理想と義務』の両方からダブルパンチを食らっとる状態や。脳みそが『今の自分じゃ存在価値がない!』ってアラートを出し続けとる。そんな状態で勉強したって、頭に入るわけないやろ。お前がやっとるのは努力やない、ただの『不安の自傷行為』や」
ネコ先輩の言葉が、痛いほど胸に突き刺さる。
がんばろうとしていた。でもそれは、何かに向かって進みたいからではなく、ただ「今の自分」という存在が恐怖で耐えられなかったから。その恐怖から逃げるために、資格の申し込みボタンを押そうとしていたのだ。
2. なぜ私たちは「上」ばかり見て絶望するのか
「のんびり生きていければいいやって、昔は思っていたはずなのに。なんで私はそんな、自分を苦しめるような『偽物の理想』や『義務』を抱え込んじゃったんだろう」
「それはな、お前がアホやからやなくて、人間の脳にそういう『バグのプログラム』が最初から組み込まれとるからや。これを発見したのが、レオン・フェスティンガーっちゅー心理学者や。彼はこれを『社会的比較理論』と名付けた」
ネコ先輩は、ノートの端に簡単なピラミッドの絵を描いた。
「人間っちゅーのはな、自分の正しさや能力を測る絶対的な物差しを持っとらん。だから、どうしても『他人と自分を比べる』ことでしか、自分の立ち位置を確認できん生き物なんや。そしてな、比較の方向には二種類ある」
ネコ先輩はピラミッドの上に向かって矢印を描いた。
「自分より優秀なやつ、上におるやつと比べることを『上方比較(じょうほうひかく)』と言う。これな、適切なレベルでやれば『よし、ワイもがんばるぞ!』というモチベーションになる。やが、今のネット社会はこれが完全にバグっとる」
「ネット社会がバグってる?」
「そうや。一昔前ならな、比べる対象はせいぜい『地元の同級生』とか『同じ会社の同期』くらいやった。身近な、ドングリの背比べレベルの相手や。ところが今はどうや? スマホを開けば、日本中、いや世界中の『上位0.1%のバケモノ』みたいな成功例が、24時間いつでもタイムラインに流れてくる。年収、キャリア、容姿、幸福な家庭……。そんなもんを日常的に見せつけられたら、脳は勘違いするわ。『周りのみんなはあんなに上におるのに、なんで自分はこんなに下なんや?』ってな」
ネコ先輩は私のスマホを前足で小突き、画面を暗転させた。
「四六時中、強制的に『上方比較』をさせられ続けとるんやから、脳みそは常に『敗北感』を感じとる。つまりお前が感じとる焦りは、お前が無能だからやない。スマホを通じて、世界中のエリートと自分を24時間体制で比べさせられとる『環境のバグ』なんや。お前の理想の自分は、お前の心から湧き出た願いやない。タイムラインに転がっとる他人の自慢話をツギハギして作った、フランケンシュタインみたいな化け物なんやで」
部屋に、沈黙が流れた。
窓の外では、遠くでトラックが走る微かな音が聞こえる。
「環境の、バグ……」
私はもう一度、暗くなったスマホの画面を見た。そこに映っていたのは、疲れ果てて、目の下に酷いクマを作った自分の顔だった。
私は「自分の能力が足りないから、もっと成長しなければならない」と頑なに信じ込んでいた。けれど、ネコ先輩の言う通り、私が追いかけていたのは、SNSが作り出した幻影であり、自分でない誰かの価値観だったのかもしれない。
「……なぁ、ネコ先輩。私、本当にバグってたのかもしれない。これを申し込んでも、また次の資格、次のスキルって、一生追いかけ回されるだけだった気がする」
「気づくのが早くて結構。人間、マグロじゃあるまいし、止まったら死ぬわけでも、毎年勝手に大きくなる必要もないんや。まずはその『成長強迫観念』をへし折れ。話はそれからや」
私は、開いていたMacBookを静かに、パタンと閉じた。
不思議なことに、それだけで、胸を締め付けていた重苦しい塊が、少しだけ軽くなったような気がした。
第2章:「ありのまま」って、ぶっちゃけどういう状態?
1. 嫌な感情は「そのままそこに置いておく」
MacBookを閉じ、夜中にネコ先輩へちゅ〜るを献上してから数日。私はあの夜の教えを守り、少しだけSNSを見る時間を減らしていた。
しかし、真面目すぎる私の脳みそは、新たな「モヤモヤ」を生み出していた。土曜日の昼下がり、キャットタワーのてっぺんで優雅に毛並みを整えているネコ先輩を見上げながら、私はついにその疑問をぶつけた。
「ねえ、ネコ先輩。前は『成長なんかやめとけ』って言ってくれたし、確かにあの夜はラクになったよ。でもさ……ぶっちゃけ、本当にこのままでいいの?」
ネコ先輩はピクッと耳を動かし、毛づくろいを止めて私をじろりと見下ろした。
「なんや、お前。また脳みその裏側が痒(かゆ)うなってきたんか?」
「だって、『ありのままの自分を受け入れる』って、聞こえはいいけどさ。それって要するに『今のダメな自分のままで、何もがんばらずに、一生ダラダラ寝てろ』ってことじゃないの? そんなことしてたら、ただの『自堕落な怠け者』になって、本当に人生が詰んじゃう気がするんだよ」
そう、これこそが私の最大の恐怖だった。「ありのまま」を都合のいい言い訳にして努力を放棄したら、自分はただの「動けないクズ」になってしまうのではないか。
ネコ先輩は、深いため息をつきながらキャットタワーから音もなく飛び降りた。そして、私の目の前まで歩いてくると、あきれたように鼻を鳴らした。
「アホか。お前は極端から極端に走る天才やな。がんばるのをやめたら、次は一生寝とくのか? ゼロかヒャクしか選択肢がないんか。世間の自己啓発本が言う『ありのままで素晴らしい〜♪』みたいなフワッとしたポエムと一緒にすな。ワシが言うとる『ありのままを認める』っちゅーのはな、そんな甘っちょろい現実逃避やない。もっとゴリゴリの科学であり、最先端の心理療法なんや」
ネコ先輩はこたつの上に飛び乗ると、また私のノートを前足で叩いた。
「お前、『ありのまま』の反対って何やと思う?」
「え? 『自分を偽る』とか?」
「違う。心理学的に言うなら、それは【経験の回避】や。自分の中にある『不安』『焦り』『無能感』といった嫌な感情や欠点を、コントロールしようとしたり、無かったことにしようと抵抗したりすることやな」
ネコ先輩は、私の部屋の隅にあるゴミ箱を指差した。
「お前はな、自分の中の『英語ができない』『仕事が遅い』っていうダメな部分を、部屋のゴミみたいに必死で隠したり、無理やりポジティブな努力で塗り潰そうとしとる。やけどな、抵抗すればするほど、その嫌な感情は脳内で巨大化していくんや。これを治療するための最新の心理療法が、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)や」
「アクト……?」
「そう。ACTの根底にある『アクセプタンス(受容)』っちゅーのはな、自分のダメな部分を『これでいいんだ!』と無理に好きになることやない。『あ、自分の中に今、焦りがあるな』『英語ができなくて劣等感を感じとるな』という事実を、ただの【データ】として、そのままそこに置いておくことや」
ネコ先輩は、手近にあった消しゴムを私の前にポンと置いた。
「例えば、この消しゴムがお前の『欠点』やとする。お前は今まで、この消しゴムを視界から消したくて、必死に机の奥に押し込んだり、上から教科書を被せたりしとった。そんなことしとる間、ずっと消しゴムのことが気になって仕事に集中できんやろ?」
「確かに……。隠そうとすればするほど、自分のダメなところに意識が向いちゃうね」
「せやろ? だから、アクセプタンスっていうのは、その消しゴムを『ただ机の端っこに置いとく』だけや。『あ、ここに消しゴム(欠点)があるな。まあ、あるもんはしゃーない。このままにしといて、ワイはワイのやりたいことをやろか』とするスタンスや。欠点と戦うのをやめること。これが、科学的な『ありのまま』の第一歩や」
2. 自分を「大親友」のように労わる科学
「戦うのを、やめる……」
確かに、自分のダメな部分を敵視して「叩き潰さなきゃ!」と思っている時が、一番メンタルが削られていた。
「実を言うとさ、脳の初期設定って『ビビり王』なんだよね。不安になるのは性格のせいじゃなくて、生存確率を上げるための『ネガティブバイアス』っていう脳のバグらしいんだ。だから、嫌な感情が湧くのは当たり前なんだよ」
「ほう、ええ勉強しとるやないけ」とネコ先輩が目を細める。
「でも先輩、自分の欠点をそのまま置いといたら、やっぱりモチベーションが下がって、成長しなくなるんじゃ……」
「それがな、逆なんや。人間の脳はな、自分を責め立てるよりも、労わった方が圧倒的にパフォーマンスが上がるようにできとんのや。ここで登場するのが、クリスティン・ネフっちゅー心理学者が提唱した『セルフ・コンパッション(自分への慈悲)』や」
ネコ先輩は、ふいにつぶらな瞳で私をじっと見つめた。
「お前な、もしお前の大親友が、仕事で大失敗して『自分はもうダメだ、市場価値がない』って夜中に泣きついきてたら、なんて声をかける?」
「え? ……そりゃあ、『そんなことないよ、毎日遅くまでがんばってたじゃん。今回は運が悪かっただけだよ。ちょっと休んで、また次考えようよ』って言うかな」
「せやろ? 間間違っても『お前は本当に無能やな! 今すぐ寝ずにデータ分析の資格でも取れやクズ!』とは言わんやろ。もしそんなこと言うやつがおったら、そいつは親友やなくてただのサイコパスや」
「当たり前だよ。そんなひどいこと言えない」
「やのに、お前は自分自身に対して、そのサイコパスの言葉を24時間浴びせ続けとるんやで」
ネコ先輩の言葉に、ハッと息を呑んだ。
そうだ。私は失敗するたびに、焦るたびに、自分の中で「お前はダメだ」「もっとやれ」「置いていかれるぞ」と、自分を罵倒し続けていた。大親友には絶対に言わないような残酷な言葉を、自分には平気で浴びせていたのだ。
「セルフ・コンパッションっちゅーのはな、『大切な親友に接するように、自分の失敗や弱さを優しく労わる技術』や。これな、『自分への甘やかし』に見えるやろ? でも、膨大な実験データで証明されとる。自分を責める人間は、失敗を恐れて新しい挑戦ができんくなる。逆に、セルフ・コンパッションが高い人間の方が、失敗から立ち直るのが早くて、結果的にモチベーションも行動力も高くなるんや」
3. 怠け者と「自己受容」の決定的な違い
「なるほど……」
私は深く納得すると同時に、一番知りたかった疑問をもう一度ぶつけてみた。
「じゃあ、ネコ先輩。ただの『怠け者』と、科学的な『自己受容』の違いって、結局何なの?」
ネコ先輩は、こたつから降りて私の足元にすり寄り、誇らしげに胸を張った。
状態心の内実行動の特徴ただの怠け者焦りや罪悪感でドロドロ嫌な感情から逃げるために行動を麻痺させている科学的自己受容欠点があることを認めている嫌な感情を抱えたまま、自分が本当に望む行動にエネルギーを使う
「簡単や。ただの怠け者はな、【嫌な感情から逃げるために、行動を麻痺させている状態】や。スマホをダラダラ見たり、現実逃避して寝転んどる時、心の中は『焦り』や『罪悪感』でドロドロのままや。一方で、科学的な自己受容(アクセプタンス)はな、【嫌な感情(消しゴム)があることを認めた上で、自分が本当に望む行動にエネルギーを使っとる状態】や」
ネコ先輩は、私の顔を見上げた。
「お前は、英語の資格を取りたいんか? それとも、ただ『無能だと思われたくない』から勉強しようとしとるんか?」
「後者……かな。本当は、英語なんて別にやりたくない。ただ、安心したかっただけなんだ」
「やったら、その『安心するための偽物の努力』は今すぐやめちまえ。それよりも、まずは『あ〜、ワイは今、周りと比べて焦っとるな』って自分を抱きしめて、あったかい風呂でも入る。心が本当に満たされたらな、人間は寝てろって言われても、勝手に自分のやりたいことで動き出すようにできとんのや」
私は、自分の胸のあたりに手を当ててみた。まだそこには「焦り」の消しゴムが確かにある。でも、それを無理に消そうと必死にならなくていいのだと思うと、驚くほど心が静かになっていくのを感じた。
「ネコ先輩。私、今日は資格の勉強じゃなくて、ずっと読みたかった小説を読むことにするよ」
「おお、ええやんけ。それこそが、お前の人生の主導権を『焦り』から取り戻した証拠や」
第3章:モチベーションのパラドックス
1. 「〜すべき(Should)」を捨てると、勝手に動き出す
「あかん、このままやと、本当にちゅ〜るの破産が先に来てまうな……」
日曜日。リビングの床に寝転がり、ちゅ〜るの空き袋を前にして、ネコ先輩がもっともらしい顔で呟いていた。
あの「焦りの消しゴム」を受け入れてからというもの、私の心は驚くほど穏やかだった。週末に無理やり資格の勉強を詰め込むのをやめ、読書をしたり、ゆっくりお風呂に入ったりして、自分を労わる時間を増やしていた。
けれど、数日が経つと、私の脳裏に新たな「黒い霧」が湧き上がってきた。
「ねえ、ネコ先輩。自分を労わるようになって、確かに体も心もラクになったよ。でもさ……正直、めちゃくちゃ怖いんだ」
「何が怖いんや? ワシのちゅ〜るの消費量か?」
「違うよ。このまま『がんばらなくていいんだ』って自分を甘やかし続けたら、本当に何もしないまま、あっという間に40代、50代になっちゃうんじゃないかって。人間、ある程度の『義務感』とか『危機感』がないと、ダラダラして終わっちゃうでしょ? 成長を目標にするのをやめたら、僕のモチベーションは完全に消えちゃう気がするんだ」
そう、これこそが私の中に残る最後の、そして最も深い呪縛だった。「〜しなければならない(Should)」というムチで自分を叩くのをやめてしまったら、自分を動かすエンジンそのものが失われてしまうのではないか、という恐怖だ。
ネコ先輩は、床に寝転がったまま首だけをくいっと私に向け、ニヤリと不敵に笑った。
「お前、本当に人間の脳みそをナメとるな。ええか、人間っちゅーのはな、『〜すべき(Should)』という義務感で動いとる時が、一番脳が疲弊して、パフォーマンスが最低になるんや。逆に、成長を目標にするのをやめた瞬間、人間が本来持っとる『純粋な好奇心(Want)』の最強スイッチが入る。これが【モチベーションのパラドックス】や」
2. 人間は「やりたいこと」しか長続きしない
ネコ先輩は起き上がると、私の足元までトコトコと歩いてきて、前足で私の膝をぽんぽんと叩いた。
「おい、お前。ワシが毎日、お前にちゅ〜るをおねだりしたり、キャットタワーを全力で駆け上ったりしとるのを見て、『市場価値を高めるためにやっとる』と思うか?」
「いや、どう見ても『今、食べたいから』『今、動きたいから』だよね」
「せやろ。ワシは『ネコとして成長せねばプロ失格や』なんて義務感は1ミリも持っとらん。ただ『やりたい(Want)』から動いとる。外発的な動機じゃなくて、内側から湧き出るエネルギーや。心理学者のエドワード・デシとリチャード・ライアンが提唱した『自己決定理論』っちゅーのがある」
ネコ先輩は、私が持っていたノートに素早く三つの丸を描いた。
「この理論によると、人間のモチベーションには『質の良し悪し』がある。お前がこれまでやってきた『周りに置いていかれるから(Should)』という動機は、一番質が悪い【外発的動機づけ】や。義務感や恐怖で動くエンジンは、燃費が最悪で、すぐに脳がオーバーヒートして燃え尽きる。逆に、一番質が良くて最強のエンジンが【内発的動機づけ】——つまり、『なんか知らんけど、これがやりたくてたまらん(Want)』という純粋な好奇心や」
「でも、私には今、そんな『やりたいこと』なんてないよ? 毎日仕事に追われて、やりたいことなんて枯れ果てちゃったよ」
「枯れ果てとるんやない。脳のエネルギーが、Shouldのせいで『空っぽ』になっとるだけや。自己決定理論ではな、人間には次の『三つの欲求』が生まれつき備わっとると言われとる」
【人間に備わる三つの基本的欲求】
「お前はこれまで、SNSのせいで『自律性(自分で決める自由)』を奪われ、『お前はダメだ(有能感の否定)』と脅されとった。だからエンジンが止まったんや。まずがんばるのをやめて、脳のエネルギーが回復してくれば、人間は【この三つの欲求を満たすために、勝手に動き出す】ように脳ができとんのや。心配せんでも、お前は廃人にはなれん」
3. 「成長」を忘れた瞬間、最高の成果が出る
「勝手に、動き出す……?」
にわかには信じられなかった。けれど確かに、Shouldを手放してからのこの数日間、あんなに億劫だった「本を読むこと」が、驚くほどスムーズにできている。資格のためではなく、「ただ面白いから」という理由でページをめくる時間は、純粋に楽しかった。
「まだ信じられんそうな顔しとるな。じゃあ、もう一つ、とっておきの魔法の言葉を教えてやるわ。ミハイ・チクセントミハイっちゅー、名前がめちゃくちゃ呼びにくい心理学者がおる。彼が発見したのが、今やビジネスやスポーツの世界でも常識になっとる『フロー理論』や。お前も人生の中で、時間を忘れて何かにめちゃくちゃ没頭して、気づいたら夕方になっとった、みたいな経験ないか?」
「あるよ。子どもの頃、夢中でプラモデルを作ってた時とか、最近なら、仕事でたまたま自分の得意な資料作成に没頭して、ゾーンに入ってた時とか……」
「それや! その、完全にその瞬間に溶け込んどる状態を【フロー(ゾーン)】と言う。チクセントミハイの研究によると、人間が最も幸福を感じ、かつ最も高い成果を叩き出すのは、このフロー状態の時なんや。そしてな、フローに入るための最大の条件が何か知っとるか?」
ネコ先輩は、私の目をじっと見つめた。
「それはな、『結果や成長のことを、完全に忘れとる時』や」
「えっ……? 成長を忘れている時?」
「そうや。『これをやったら評価されるか』とか『成長できるか』なんて不純物(Should)が頭にあるうちは、脳に余計なノイズが走ってフローには入れん。成長や未来の結果という執着を完全に手放し、『今、目の前のこれがおもろいからやっとる』という瞬間、人間は最も高いパフォーマンスを発揮する。つまりな、成長したければ、『成長しなきゃ』と考えるのをやめるのが一番の近道なんや。これを【フローの逆説】と言う」
ネコ先輩の言葉が、すとんと腑に落ちた。
私がこれまで「成長しよう」と血眼になっていた時、私の視線はいつも「まだ見ぬ未来の、完璧な自分」に向けられていた。だから、目の前の作業そのものを楽しむ余裕なんて1ミリもなかった。楽しめないから長続きしない。長続きしないから、また自分を責める。そんな悪循環に陥っていたのだ。
「……そっか。私、順番を完全に間違えてたんだね」
「そうや。義務感で自分を殴るのをやめて、心が『安心』で満たされたら、脳は自然と『次は何かおもろいことないかな?』って探し始める。それが人間本来の、一番強くてしなやかなモチベーションなんや」
私はノートを閉じ、深く息を吐き出した。「がんばるのをやめる」というのは、人生をあきらめて停滞することではない。むしろ、他人に乗っ取られていた自分のエンジンのコントロール権を、自分の手に取り戻すための、神聖な「リセット」なのだ。
その時、私の視線が、部屋の片隅に埃を被っていたアコースティックギターに留まった。
大学生の頃、ただ楽しくて、指から血が出るほど夢中で弾いていたギター。社会人になってからは「こんなことやっても、1円の得にもならない」と、クローゼットの奥に押し込んでいたものだ。
「……ねえ、ネコ先輩。私、ちょっと久しぶりに、あのギター弾いてみてもいいかな? スキルアップには1ミリも関係ないんだけどさ」
ネコ先輩は、待ってましたと言わんばかりに、髭をピクピクと揺らして喉を鳴らした。
「ええやんけ! それや、それ。その『1円の得にもんやけど、なんかやりたい』こそが、お前の内発的動機づけ(Want)が産声を上げた音や。ワイのちゅ〜るの催促ソングでも作曲して、極上のフロー状態に入ってみせえ」
「あはは、何それ。じゃあ、下手くそだけど聴いててよ」
私は立ち上がり、久しぶりにギターケースのチャックを開けた。未来の不安のためではなく、今この瞬間を楽しむために。私の新しいモチベーションのエンジンが、静かに、けれど確かに回り始めた。
第4章:不完全なままで、他者とつながる
1. 完璧の鎧を脱ぐ勇気
「ふぃ〜、人間関係っちゅーのは、相変わらずめんどくさいシステムやな……」
平日の夜。私がソファーになだれ込みながらため息をつくと、ネコ先輩が私のお腹の上にドサリと飛び乗ってきた。ずっしりとした重みと温かさが心地いい。
自分の「Want(やりたいこと)」を大切にし始めてから、プライベートは劇的に充実してきた。けれど、一歩外に出て「会社」という組織に足を踏み入れると、どうしても元の古い思考が顔を出してしまう。
「ねえ、ネコ先輩。自分のダメな部分を認める(自己受容する)のは、自分の部屋の中だけならできるようになったよ。職場の人間関係だと、やっぱりそうはいかないんだ。職場で自分の弱みを見せたり、不完全なところを出したりしたら、周りの優秀な人たちに置いていかれちゃうよ。『使えない奴』って思われて、嫌われて、自分の居場所がなくなっちゃうのが怖いんだ。やっぱり社会で生きていくためには、完璧を目指して、強く見せておかないと他者とつながれないんじゃないかな」
私は同僚たちの優秀な姿や、上司からの鋭い視線を思い出して、身をすくめた。組織の中で「不完全」でいることは、あまりにもリスクが高いように思えたのだ。
ネコ先輩はお腹の上で丸くなり、喉をゴロゴロと鳴らしながら、私の顔をじっと見上げた。
「お前な、ちょっと聞くけど。お前はワシのことが好きか?」
「え? そりゃあ、もちろん大好きだけど」
「じゃあ、ワシが何か人間の役に立つ資格を持っとるか? 毎月きっちり稼いでくるか? 部屋の掃除をするか? ワシ、毎日寝てちゅ〜る食うて、たまに部屋の壁で爪研いで怒られとるだけやぞ。欠点だらけの毛玉やんけ。なんでそんなワシを愛せるんや?」
「それは……ネコだからっていうのもあるけど、完璧じゃないからだよ。ちょっと抜けてて、ワガママで、でもたまにこうやって寄り添ってくれるから、愛おしいんじゃないか」
「せやろ」
ネコ先輩は、自慢げに髭をピンと張った。
「人間だって全く一緒や。完璧な人間なんて、他人は誰も愛されへん。抜けてるからこそ、人は他者を愛せるし、つながれるんや。お前がやっとる『完璧を装うこと』はな、他者との間に分厚い壁を作っとるだけやで」
ネコ先輩は私のお腹の上から床へ降りると、またノートを前足で指差した。
「お前みたいな『嫌われたくない、完璧でいなきゃ』という呪縛をブチ壊すために、うってつけのおっさんがおる。アルフレッド・アドラーや。アドラーはな、人間が幸せに生きるためのゴールは【共同体感覚】——つまり『他者を仲間だと信じ、自分には居場所があると感じられること』やと言った。そして、その共同体感覚を持つために不可欠なのが、『不完全である勇気』や」
ネコ先輩はノートに二人の人間の絵を描き、その間に横一本の「平らな線」を引いた。
「お前はな、職場の人たちを『自分を評価する敵』か『競争相手』として見とる。だから『なめられたらアカン』『完璧でいなきゃハジかれる』と怯える。これをアドラー心理学では【縦の関係】と言う。上下の上下関係やな。やけど、不完全である勇気を持つというのはな、『ワイは英語もできんし、ミスもする。引け目を感じる必要はない、これが等身大のワイや』と、自分の弱さを開き直ることや。自分の不完全さを認めると、不思議と他人の欠点も許せるようになる。相手を『敵』ではなく、同じように不完全なままがんばっとる【横の関係(対等な仲間)】として見られるようになるんや」
「他人を敵じゃなくて、仲間として見る……」
「そうや。自分が完璧の鎧を脱ぐからこそ、相手も鎧を脱いでくれる。アドラーの言う『仲間とつながる』っちゅーのは、強がり合う関係やない。お互いの不完全さを認め合って、初めて生まれる温かい関係のことなんや」
2. 「心理的安全性」という最大の貢献
「アドラーの言うことはわかるよ。でも、個人のメンタルは良くても、実際の仕事の現場で『私、これできません』なんて弱みを見せたら、チームの足引っ張りになっちゃわない?」
「それがな、逆なんや。最新のビジネス科学でも、とっくに証明されとる。エドモンドソンっちゅー偉い学者が提唱した『心理的安全性(サイコロジカル・セーフティ)』の話、聞いたことあるやろ?」
「あ、Googleの調査とかで有名になったやつだっけ?」
「せや。世界最高の成果を出すチームの共通点を調べたら、リーダーが優秀だとか、メンバーが全員エリートだとかは関係なかった。一番大事だったのは『心理的安全性』——つまり、【メンバーが誰も、自分の弱みや失敗をさらけ出すことを恐れていない状態】やたんや」
ネコ先輩は、私の会社のデスクを模したような四角い絵を描いた。
「お前みたいな『完璧を装わなきゃいけない職場』を想像してみぃ。誰かがミスをしても、怒られるのが怖いから隠す。わからないことがあっても、無能だと思われるのが怖いから質問せんと知ったかぶりする。そんなチーム、絶対にどっかで大爆発してプロジェクトが崩壊するやろ?」
「……確かに。私も『これ、どうやるんですか』って聞けなくて、一人で抱え込んで締め切り直前にパニックになったこと、何回もあるよ。他人の目が気になって、LINEやチャットの返信が遅いだけで『嫌われたかも』って不安になったり、上司のため息ひとつで『自分が原因だ』って脳内反省会を開いたりしてた。これって、脳の認知の歪み、つまりバグだったんだね」
「そうや、主語を盛りすぎる『過度な一般化』や、悪い出来事を全部自分に結びつける『自分への関連付け』っちゅーやつやな。そんなバグを抱えて強がっとるより、メンバーが『すまん、ワイここ苦手やから手伝って!』『あ、ミスってもうた、誰か助けて!』って言えるチームの方がどうや? すぐに情報が共有されて、みんなでカバーし合えるから、圧倒的にミスが少なくて生産性が高くなる。つまりな、職場で弱みを見せる(自己開示する)ことは、チームの足を引っ張るどころか、【チーム全体の生産性を高めるための、最大の貢献】なんやで」
「私が弱さを見せることが、チームへの貢献になる……」
目から鱗が落ちるような感覚だった。私は今まで、自分の価値を証明するために、必死に「優秀な自分」の鎧を着込んで、一人で戦おうとしていた。けれど、その鎧のせいで周囲に壁を作り、自分を孤立させ、結果的に仕事の効率を下げていたのだ。
「ネコ先輩。私、明日会社に行ったら、ずっと一人で抱え込んでたあの案件、同僚の佐藤くんに『ここがどうしても苦手だから、アドバイスをくれないか』って、正直に頼んでみるよ」
「お、ええやんけ。佐藤くんもな、完璧ぶっとるお前より、『助けて』って頼ってくれるお前の方が、100倍可愛いし信頼してくれるわ。不完全万歳、や。ネコを見習え。ワシらは1万年前から、人間に何のメリットも与えんまま、不完全な可愛さだけで養われ続けとる『心理的安全性のプロ』やからな」
「ははは、確かに先輩を見てると、完璧を目指すのがバカバカしくなるよ」
私はネコ先輩の首回りを優しく撫でた。明日からの会社が、少しだけ、いや、劇的にラクになる予感がしていた。完璧なサイボーグにならなくていい。不完全な人間のままで、明日はあの重い鎧を脱いで、会社へ行こう。
エピローグ:今日から、堂々と「足踏み」をしよう
1. 成長の階段を降りる
チュンチュンと、窓の外からスズメの鳴き声が聞こえる。カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝の光が、私の部屋を優しく照らしていた。
月曜日の朝。いつもなら「また地獄の一週間が始まる」「今週こそもっと成果を出して、周りに追いつかなきゃ」と、目覚めた瞬間から心臓が嫌な音を立てていたはずだった。
けれど、今朝の私は違っていた。ゆっくりと深呼吸をすると、驚くほど胸の奥まで新鮮な空気が入っていく。
「あー……よく寝た」
ベッドから起き上がると、足元には灰色の毛玉が転がっていた。私の気配に気づいたネコ先輩が、うーんと前足を伸ばして大きなあくびをし、眠そうな目で私を見上げた。
「お、起きたんか。心なしか、今日の顔は般若やなくて、ただのトボけた人間の顔になっとるな」
「ひどいな。でも、本当に頭がスッキリしてるんだ。なんだか、ずいぶんと長い間、重い荷物を背負して全力疾走していたような気がするよ」
私はキッチンへ向かい、自分の分のコーヒーを淹れ、ネコ先輩の器においしいキャットフードを盛り付けた。カリカリと小気味よい音を立てて食べ始めるネコ先輩の後ろ姿を見ながら、私はここ数日間の出来事を振り返っていた。
思い返せば、私は「成長」という名の、終わりのない階段を血を吐きながら上り続けていた。上を見れば、SNSに溢れる「完璧な誰か」がいて、追いつけない自分に落胆し、スマホを開けば24時間体制で強制的に他人と比較させられ、焦燥感に駆られていた。
「〜すべき(Should)」というムチで自分を叩いて動かそうとしては燃え尽き、自分の弱さや不完全さを隠すために、職場でもガチガチの鎧を着込んで孤立していたのだ。
「ネコ先輩」
コーヒーのマグカップを両手で包み込みながら、私は声をかけた。
「なんや、まだワシに聞きたいことがあるんか? 講義料のちゅ〜るなら、いつでも受け付けるで」
「いや、お礼を言いたくてさ。私さ、ずっと『今のままの自分じゃダメだ。もっと何者かにならなきゃ、生きている意味がない』って本気で思ってたんだ。でも、先輩がその呪いをへし折ってくれた」
ネコ先輩はキャットフードを食べ終えると、座り直して優雅に口の周りをペロペロと舐めた。
「ワシは何も大したことは言うとらん。ただの心理学の歴史の受け売りや。やけどな、お前が気づけて良かったわ。人間はな、一歩一歩『前に進むこと』ばかりが美徳やと思っとる。やけど、そんな人生、息が詰まるやろ。ええか、今日からお前は、堂々と【足踏み】をしたらええんや」
「足踏み……? 進まないってこと?」
「そうや。階段を上るのをやめて、今おるその場所で、しっかりと足を踏み鳴らすんや。『あぁ、今、ワイはここに生きとるな』『コーヒーが美味いな』『ネコがモフモフしとるな』ってな。未来の『理想の自分』という幻影を追いかけるために今を犠牲にするのをやめて、今の自分をじっくり味わう。それが、本当の意味での生きる喜びちゅーもんや」
2. 今、ここにある温もりを噛み締めて
「今の自分を、じっくり味わう……」
私は窓の外を眺めた。青い空がどこまでも広がっている。私の市場価値が上がろうが下がろうが、英語の資格を取ろうが取るまいが、この世界は最初から私を受け入れてくれていたのだ。完璧にならなくたって、私には私の居場所がある。
「よし、会社に行く準備をしよう。今日は、等身大の自分のままで、同僚たちとたくさん話してこようっと」
私がスーツに着替えようと立ち上がると、窓辺のネコ先輩はすでに目を半分閉じ、気持ちよさそうに日向ぼっこを始めていた。
「さて、お前は会社でボチボチやってきぃ。ワシは今日も一歩も進まんと、ここで日向ぼっこでもするかのう。一歩も進まへんけど、ワイの心は満たされとるからな」
ネコ先輩は幸せそうに喉を鳴らし、そのままスースーと寝息を立て始めた。
「本当に、のんきなネコだな」
私は苦笑しながら、けれど心からの愛おしさを込めて、その丸い頭を一度だけそっと撫でた。
部屋を出て、玄関のドアを開ける。外の空気は少し冷たかったけれど、私の胸には温かい灯がともっていた。がんばることに疲れた私への、心理学ネコの講義はこれでおしまい。
さあ、これからは私の足で、私のペースで、この「ありのままの人生」を歩んでいこう。階段を上るのをやめた私の足取りは、驚くほど軽かった。
