Les Misérablesの登場人物から学ぶ、実践的な倫理の役割
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何もかも捨てないと勝てないのだろうか?
倫理はカビ臭く我々を縛り付ける鎖なのだろうか?
コペルニクスやゴッホを我々は理解できる。このように科学や文化や社会は進歩し成長する。だから、現代から見て歴史は野蛮に感じられることが多い。つまり、長期的な視点で考えると、未来は現代をそう感じなければ、歴史の一貫性が保てない。
法に触れなければ何をしてもいいのだろうか?
子どもや孫やひ孫の世代から、強く軽蔑される可能性はある。
そんなことは構わないと、私は言えない。
恥ずかしいからだ。
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2-1
Les Misérablesのジャン・バルジャンは、ミリエル司教と出会えた。
ジャン・バルジャンを追い続けるジャベールは、教育を受け警部になれたのに、自滅した。
宿屋の主テナルディエは、革命前夜の混沌に過剰に適応し悪を楽しみ人を苦しめる。
2-2
著者ヴィクトル・ユーゴー(1802–1885)は、ジャン・バルジャンの改心のためにミリエル司教を生み出したかもしれない。銀の燭台のエピソードは、もちろんキリスト教の贖いを描いている。
けれど、プロテスタントのクリスチャンの私が言うのも不思議だけれど、むしろだからこそ、宗教を一度横に置き、再解釈したい。
2025年の現在、様々な価値観やスタンスの方がいるのだから、この物語の普遍的な知恵へアクセスしやすくする試みも意味がある。
2-3
ジャン・バルジャンはミリエル司教に、父のように庇われ、教師のように導かれている。おそらく、初めて人間扱いされたかもしれない。麻痺していた人間性が再び機能し始める。だから、「恩人になんてことをしたのか」と悔い改めることは、「恥じた」とも言える。
対照的にテナルディエは恥知らずだ。
そして、ジャベールは恥じる必要がない、彼の出自を恥じてしまった。
つまり、何を恥じるべきかを理解するための指針が必要だ。恥ずかしがり屋の意味ではなく、「恥を知れ」と指摘される意味での。
2-4
その指針が、倫理。学ぶことで、ジャン・バルジャンのように内面から湧き上がるようになるから、他者から指摘される必要がなくなる。自分で考えて行動できるようになる。
なぜだろう?
他人の立場を想像できるようになる。行動の結果をシュミレート出来るようになる。そして、自分が何をしているのか見ることが出来るようになる。つまり、この意味での「恥じること」は、客観視と関係がある。
2-5
抽象的な原理原則を理解すると、テナルディエになることも、ジャベールのように出自の問題に囚われることも回避出来る。
そして、ミリエル司教のような人物に出会えるとは限らないから、倫理を学ぶことは自分から師に会いに行くことと似ている。そのプロセスも含めて、「人の道」と呼びたい。
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あくまでも個人の意見だけど、「倫理は我々が具体的にどこまで自由なのかを考える際の基盤になるから、倫理って窮屈なものではなく、むしろ自由を最大化する」と、私には思える。
たとえば、良心と法と利益が衝突するなど、個別具体的なことを全て想定して暗記しなくても、原理原則から導き出すことができる。
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倫理を捨てると、こうしたことを行いにくくなる。なぜ、そんな不自由なことをするのだろう?
自律的な規範をインストールせずに、他者とお互いを尊重出来る方もいるのかもしれないけれど、倫理を学ぶ方が0から何かを構築するより合理的だ。
なぜならば倫理は手段であり目的ではないのだから。「手段」を作っている間に、倫理を手段として学ぶ方は、目的に早く着手できる。能力が同じなら、着手が早いことは極めて有利だ。能力が負けているのなら、なおのこと時間は欲しいし、能力が優っているのなら圧倒的に有利になる。
このように、倫理は人を自由にすると、私の目には映る。倫理はカビ臭く我々を縛り付ける鎖ではない。そう見えるとしたら、それは倫理の「官僚化」「手段の目的化」が起きている可能性がある。
では抽象的な倫理を、具体的な問題解決に使うには、何が必要だろうか?
Pexelsでのeberhard grossgasteigerによる写真:
https://www.pexels.com/ja-jp/photo/673020/
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