民主主義の臨界点――言葉が通じなくなることはなぜ起き、放置するとどうなるのか
民主主義の崩壊は3パターンあると考えています。まずは民主主義から合法的に独裁に移行する方法。2つ目は、格差の放置による破綻か、富を持つ側の影響力の行使。(産業革命期のイギリス型は資本主義の初期だから成長で対応出来たけど日本は成熟した資本主義だから出来ない・ニューディール政策型は大きな政府による再分配だから新自由主義との調整が難しい。どちらもせず放置すると、フランス革命型の劇的な破綻が予想出来る)
そして3つ目は分断だと思います。
分断に関して、私は本当に政治的な意見対立なのだろうかと疑問を持ちます。かつては信念が違っても、利害の調整が行えてきたことが、なぜ分断に至るのか意見の対立だけでは説明が難しいからです。一つは格差の対応の遅れ、または放置でしょう。陰謀論などは上述した「フランス革命型」の破綻の例かもしれない。民主主義は自分の不利益を無視すると絶望すれば、事実より何らかの「真実」(解釈)やお話(物語)を信じることは、自然な心の働きかもしれません。その仕組みを理解している人に、利用されることを見落としているのが悲劇です。
もう一つは、90年代から35年ほどかけてネット社会に移行した「弊害」の対応の遅れも予想出来ます。産業革命が起きる、都市に人が集中する、生活排水の汚染などから病気が起きる、公衆衛生で対応する。新しい技術などは、何らかの問題を伴い、その解決を必要とします。
事実確認の軽視
信じたいことを信じる
情報の裏をとるとか、複数の情報源を確認するとか、手間をかけます。
対して、検索エンジンで検索して上位数件に無ければ無いと考えるとか、AIに質問してその解答を情報源にする(大規模言語モデルの仕様で確率で間違えるし、トレーニングなどでバイアスも予想されるのに)ことはリスクがあると思います。
その方がどんな訓練を受けて、どうネットを利用されているのか、例えばスマホの通知を適宜オフにしているかなど分からない点があります。だから理由は分からないけれど、事実確認をせず(軽視し)、事実の解釈の一つであるその方が信じたいことを信じることが起きているようです。
これは、理想を信じたはずなのにテロに至った、学生運動と浅間山荘事件や、オウム真理教と地下鉄サリン事件のように、社会から切り離され(批判が届かなくなり)盲信し先鋭化することと似ています。
フランス革命型のなんらかの破綻の萌芽 x ネット社会の弊害 x 思想信条の取り扱いに関する歴史的な無知
という3つの要素の掛け算が起きている場合、規模が比較的少数なら浅間山荘事件や地下鉄サリン事件のようなテロに至るでしょうし、規模が大きくなると民主主義で事実の共有が出来ないので利害の調整が不可能になり詰むはずです。
私は、「公衆衛生」に相当することは、情報リテラシーや思想史や倫理(義務論・功利主義・ケア倫理)などを学ぶことだと思います。何を信じるか選べるようになるし、何を信じたとしても結論がテロやテロに準じる内容なら理想から飛躍したことを自覚出来ますから。
これは中高生に教えることは可能かもしれないけれど、すでに声が届かなくなった方はどうしたらいいのだろう。
本人が気がつくまで待つと、失うものが大きいです。何を失っても盲信する方もいるでしょう。本人の責任なのですが、社会の一部がこの状態であれば民主主義に影響があるはずです。
次世代に先送りしてはならない事態が起きているかもしれない、そう現状を総点検する段階に思えます。
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