見出し画像

英語は記憶のスイッチになる

声を出すことには、 人の中に眠っていた時間をそっと呼び戻す力がある。 特養で英語のクラスを開いたとき、 私はその瞬間をいくつも目にした。
英語は、ただの外国語ではなく、 その人の人生に触れる、小さな記憶のスイッチだった。

パタカラ体操が「パ・タ・カ・ラ」で
唇や舌の筋肉を目覚めさせるように、
英語もまた、 th や r、v、l といった音を出すたびに
舌の位置が変わり、息の流れが変わり、
身体の中の小さなスイッチが入る。

だから私は、特養で英語のクラスを作ってはどうかと提案した。
オーラルフレイルの予防にもなるし、 脳トレにもなる。
そして何より、
英語はその人の中に眠っている “昔の自分” に触れる言語だと思ったから。

「その年で英語やって何になるの」
「日本語もおぼつかないのに」
そんな声もあった。
老いの世界では、できないことのほうが どうしても目につきやすい。

それでも、毎回10人近くの人が集まってくれた。
みんな車いすで、歩くこともままならない。
言葉がゆっくりで、途切れる人もいた。
それでも、参加してくれる。
その姿は、私への小さなエールでもあった。

英語を口にすると、 その人の中の何かが、
そっと動き出す瞬間がある。
私は、その場面をいくつも見てきた。

車いすを押してきたヘルパーさんが、
「この人は昔ハワイにいて、Alice と呼ばれていたのよ」 と
小さな声で教えてくれた。

彼女はずっと下を向いていた。
英語のクラスが始まっても、顔を上げないまま。

「Hello, Alice」 と声をかけると、
その瞬間、ふっと顔を上げて、 笑顔がはじけた。

それだけだった。
彼女はまた下を向き、何も語らず、ただそこにいた。
けれど、その一瞬の表情が、 どれほど長い時間を越えて戻ってきたものなのか、 私には少しわかる気がした。

別の人は、クラスのあと、
「ボクは進駐軍の interpreter をしていたんだ」 と、若い頃の話を少しだけしてくれた。

自販機の前で、 「これ、うまいんだよ」 と言って、彼おすすめのコーヒーをごちそうしてくれた。

ゆっくりとキャップを開けて、 ひと口飲んだときの横顔は、
いつもの“施設の高齢者”ではなく、 別の顔だった。

英語は、記憶のスイッチになる。
その人の中の時間を、 そっと巻き戻すことがある。

英語のクラスで見た、あの人たちの表情を思い出すたびに、
ことばには、まだ知られていない力があるのだと思う。

声を出すこと。
ゆっくり舌を動かすこと。
昔の名前を呼ばれること。
それだけで、その人の時間が巻き戻る。

英語には、そんな瞬間を表す言葉がある。

second wind
ふっと力が戻るとき。
英語を口にした瞬間の、あの小さな変化に重なる。

muscle memory
身体が覚えている記憶。
若い頃の英語が、声に出した途端に戻ってくる。

Your voice matters.
声には意味がある。
老いの世界でも、静かに、確かに。

English brings back stories.
英語は、物語を呼び戻す。
ハワイでの名前も、進駐軍の記憶も、
ペットボトルのコーヒーの味も。

ことばは、ただの音ではなく、
その人の人生に触れる小さなスイッチなのだと思う。

英語は、記憶のスイッチになる。
そのことを、私は特養の小さなクラスで教えてもらった。

いいなと思ったら応援しよう!