氷が溶けるまで
グラスの中で、氷が触れ合う音がした。
乾いた、短い音だった。
それだけで、あの時のことが鮮明に思い出せる気がした。
カウンターは静かで、
低く落とされた照明が、
グラスの輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせている。
隣の席との距離は近いのに、
会話はどこにも落ちていない。
音はあるのに、言葉は残らない夜。
指先でグラスを持ち上げると、
薄くついた水滴が、すぐに手の温度に溶けていく。
冷たいはずなのに、
どこかやわらかい。
その感触に、少しだけ覚えがあった。
「ライム、強めでいいですか」
そう言われたとき、
一度だけ、相手の方を見る。
前にも、同じことを聞かれた気がした。
あの時、頷いたのかどうかは覚えていない。
ただ、次の瞬間。
小さく潰される音と一緒に、
あの香りが立ち上がった。
少し青くて、
わずかに苦くて、
それでもどこか軽い。
鼻に抜けるというより、
空気の中に広がるような匂いだった。
ああ、これだ、と思う。
けれど、何がそう思わせたのかまでは、言葉にできない。
「よく来るんですか」
そう聞かれて、少しだけ間があく。
答えを探しているわけじゃない。
どう答えるのが自然なのかを、
一瞬だけ測っている。
グラスに視線を落とす。
氷が、また小さく鳴る。
その音が、やけに響き渡った気もした。
「たまに、くらいです」
そう答えたあとで、
それが本当だったのかどうか、少しだけ曖昧になる。
隣にいるはずなのに、
距離ははっきりしない。
近いとも、遠いとも言えないまま、
ただ同じ時間の中にいる。
グラスの中では、少しずつ氷が角を失っていく。
最初はくっきりしていた輪郭が、
ゆっくりと丸くなっていく。
その変化を、
二人とも同じように見ていた気がする。
言葉にはしないまま。
何かを確かめるほどでもなく、
何もなかったことにするには、少しだけ残る。
そんな時間だった。
あの夜、
何を話したのかは覚えていない。
どんな顔をしていたのかも、
どんな服を着ていたのかも、思い出せない。
それでも。
ライムを潰した瞬間の、
あの香りだけは、はっきりと残っている。
たぶん覚えているのは、
会話じゃない。
温度と、
距離と、
ほんの少しの沈黙と。
そして、
ゆっくりと氷が溶けていく時間。
グラスの中の透明は、
少しずつやわらいでいく。
それでも最後まで、
形は崩れなかった。
あの夜も、きっと同じだった。
何かが始まったわけでも、
何かが終わったわけでもない。
ただ、氷が溶けるあいだだけ、
そこにあった関係。
グラスの底に残った一口を飲み干す。
香りはもう、ほとんど残っていない。
代わりに、
少しだけ温度の上がった液体が、
静かに落ちていく。
たぶん。
あの夜のことも、
同じように消えていく。
形を失って、
言葉にならないまま、
どこかに溶けていく。
それでも。
ふとした瞬間に、
あのライムの香りだけが、先に戻ってくる。
氷が溶ける音と一緒に。
名前をつけなかった関係だけが、
少し遅れて、思い出されるのだ。
