能楽散文 「彼方より彼方へ」
花巻かおり
かがり火に照らされた
行方知れず 狭間に私は溶けてしまう
呼吸は緩やかに
舞は痛みを溶かしてゆく
凪に委ねて
静けさが知らぬ間(ま)に 手を差しだす
扇を絵巻のように開く
私は同時に あなたの扉を開きはじめている
赤い炎が 黒い波間を照らして
橋がかりを作っているのが分かる
迷いは失われた 風が生きている
彼方に衣の破片を縫い合わせた
呼吸を同じくしてちょうだい
そう ゆっくり近づいてゆく
私たちは重り逢う 私はあなた あなたは私
あなたへの はなむけに 私はあなたの手に合わせるわ
天上から透明な衣が届いたかしら
ためらわず受け取って
ひとつになるの
ええ 波間に 夕日が落ち始めて
とうとう あなたの手を取った
あなたは なんて 温かいの
なんて 静かなの
絹のような手触りね
私の呼吸も次第に深くなる
深海に 沈み込んでゆく
舞は天上に昇ってゆくのに
何も苦しくない
知っていたのね
出逢うことを 分かっていたのね
いえ 見えているのね
私は どこまでも手を伸ばしても
あなたには届かないけれど
その必要のないことが重要だわ
いまはもう ひとつだから
つかの間 ひととき あなたを感じている
風や海や羽衣は 役割を果たした
かがり火は無限を与えた
穢れなき 魂よ
波間の橋がかりを頼りに
ともに歩みだしましょう
さあ 刻(とき)が来くるわ
瞳に互いの景色が映り込む 安堵に色が滲む
私はあなた あなたは私
どこまでも静寂なる場所へ
聖なる刻(とき)へ 手を絡ませていく
絹のほどけるまで 愛の随(まにま)に
(了)
ー能「羽衣」に深く魅了され、その舞台である三保の松原を夢見ながら35歳の若さでこの世を去ったフランス人舞踏家エレーヌ・ジュグラリスを想ってー

☆本作品は「シズオカxカンヌウィーク2023」オープニングセレモニー上演にあたり創作させていただいたものを再構成したものです。
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