手を洗うときに~ショートストーリー【シロクマ文芸部】
(1180字)
手を洗う、石鹸をつけて。
帰宅したらまず手を洗う。もちろん食事の前にも。トイレから出たら必ず。手の指もていねいに。手首もきちんと洗うこと。
数年前、ウイルス禍の時に、予防のための手洗いが推奨された。
わたしは子どもの頃から「家に帰ってきたら手洗い・うがい」と言われて育ったので、習慣になっており、面倒ではなかった。
しかし、会社でも街でもどこでも石鹸を使って手を洗うとなると、左の薬指と結婚指輪の間に石鹸液が残ってしまうらしく、時々かゆくなる。
会社の洗面台で指輪を外して手を洗ってみたが、何度か置き忘れてあわてて戻ったりしたので、これは危険だと思った。
一応プラチナだから、悪い人に持ち出されたら簡単に換金される。
それで、指輪を外して会社に行くことにした。
いつもジュエリーを置いているウエッジウッドの小皿に、結婚指輪が置かれたままになっているのを見て、夫はいぶかしげな顔をした。
「指輪しないのか?」
わたしは少し赤く腫れた薬指を見せた。
「石鹸でかぶれちゃうのよ」
「洗う時、はずせばいいじゃないか」
「何度か置き忘れそうになったから心配で」
「結婚指輪忘れるなんて、冷たいやつだな」
夫は吐き捨てるように言った。
自分は、恥ずかしいからと結婚指輪をしていないくせに。
そこから、なんだか歯車がかみあわなくなっていった。
わたしは週一回出社日があったが、出勤の仕度をしていると、リビングでリモートワークをする夫が「楽しそうだな、どうせリッチなランチでも食べるんだろ」「出かけるのに指輪はしないのか」としつこく言うので無言で玄関を出る。
かぶれるから無理だってば。
夫のZOOM会議が脱線して雑談が盛り上がり、若い女性社員たちの嬌声が上がり、別室で月末締めの仕事を抱えていた私は頭にきてリビングに行き、テレビのスイッチを入れ、聞こえるように大音量にしたこともあった。
いま振り返ると、夫は若い子たちに独身だと思われたくて、もてたいから結婚指輪をしないのではないか?とわたしは疑っていた。
夫のほうは、わたしが結婚指輪を外したら遊び歩き、他に彼氏でも作るのではないか、と疑っていたのだろう。
そう、お互いに疑っていたのだ。ウイルス禍の中でのいらだちもあったかもしれない。でも、それでは生活は続けられない――
結婚生活を解消した。
あれから三年。
縁あってわたしは再婚することになった。メーカーの研究所に勤める彼も再婚だった。彼は入籍前に言った。
「結婚指輪はつけられないんだ。手をしょっちゅう洗うし、研究機器を傷つけないようにと禁止されている。以前はそれを嫌がられたんだけど、大丈夫かな?」
「大丈夫」わたしは彼を見上げて微笑んだ。
「そうか、よかった」
彼も指輪で苦労したのね。
小さな指輪に振り回されたわたしたちだけど、きっと大丈夫。
今度はお互いを信じて暮らしていきたい。
さあ、帰ったら手を洗おうね。
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#シロクマ文芸部 に参加しました。
あの手洗い奨励の頃、うちの場合は夫婦同時期に結婚指輪周りがかぶれて、二人して「じゃ外そうか」ということになりました。
よかったです。
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【今日の画像】みんなのフォトギャラリーから。
「指輪」で検索。
使い込まれた木のテーブルがいい雰囲気です。
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