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項羽の「面子」

秦末の武将項羽は「面子」にこだわる男であった。

代々楚の将軍という由緒ある家系の出身であり、勇猛無敵の武将として一時は天下に覇を唱えた項羽は、人一倍自負心の強い男だった。

秦朝末期、秦王朝打倒の気運が高まると、項羽は兵を率いて秦の主力である章邯しょうかんの軍を鉅鹿きょろく(河北省)で破り、反乱軍の勝利を決定づける。
 
ところが、項羽が北で章邯と戦っている間に、劉邦が南から関中(陝西省)に入り、秦の都咸陽を攻め落とす。

先を越されて怒った項羽が劉邦を討とうとすると、それを知った劉邦が項羽の陣に謝罪に出向く。こうして催されたのが「鴻門の会」である。

「鴻門の会」の席次

ここで、劉邦は項羽に向かって丁重に謝罪し、二人は和解の杯を交わす。

しかし、実は、楚の懐王は、「最初に関中に入った者を王とする」と諸将に約束していた。これに従えば、劉邦の方が王座に就くべき立場にあり、そもそも項羽に謝罪する必要などまったくないのである。

ところが、項羽は圧倒的な軍事力を盾にして、この盟約を暗黙の内に反故にしてしまう。一方、劉邦は武力では勝ち目がないと見て、自分に危害が及ばないように、頭を下げて項羽の「面子」を立ててやったのである。

さて、宴に入ると、その席次に項羽の傲慢なまでの自尊心がまざまざと表れている。『史記』の「項羽本紀」では、次のように記されている。

項羽と項伯こうはく(項羽の叔父)が東向きに座り、亜父あほが南向きに座った。亜父とは范増はんぞう(項羽の軍師)のことである。沛公はいこう(劉邦)は北向きに座り、張良ちょうりょう(沛公の参謀)は西向きに侍して坐った。

中国では、誰がどこに座るかは、誰が上で誰が下かという力関係そのものである。

当時の礼儀作法では、

 西側(東向き): 主君や勝者の席
 北側(南向き): 年長者や軍師の席
 南側(北向き): 臣下の席
 東側(西向き): 陪席者の席

となっている。

項羽は、自分が東向きの最上位に座り、劉邦に臣下の席に座らせることによって、劉邦を臣下同然の格下として扱い、自らの優位を露骨に誇示したのである。

これは、単なる侮辱行為ではなく、劉邦の「面子」を潰すことによって彼が自分の軍門に降ったことを視覚的に知らしめる戦略的行為でもあった。

「故郷に錦を飾る」

こうして劉邦の手柄を横取りした項羽は、西へ軍を進め、秦の都咸陽を焼き払った。

「関中の地は地勢も良く肥沃なので、ここを拠点に天下を治めるべきだ」と進言する者がいたが、項羽はこれを退けて、関中に都を置かずに故郷に帰ろうとした。

秦の宮殿が焼け崩れるのを見ながら、項羽はこう言った。

成功して富貴になっても故郷に帰ってその姿を見せなければ、豪華な錦の服を着て真っ暗な夜道を歩くようなものだ。

天下を取っても、凱旋する勇姿を故郷の人々に披露しなければ、誰も自分の功績を知り得ないではないか、というわけだ。

「面子」というものは、人から評価されて初めて効力を持つ。どれだけ戦功を上げてもそれが人に知られなければ、まったく意味がないのである。

項羽にとっては、天下を治めるという実利よりも、故郷の人々に「あいつは偉くなった」と認められるという外からの評価、つまり「面子」の方が重要だったのである。

これを聞いた進言者が、「楚の人間(項羽のこと)は、猿に冠を被せたようなものだ」と嘲笑すると、項羽は激怒してその者を煮殺した。

こうして、項羽は懐王を「義帝」に擁立し、項羽自身は「西楚の覇王」と名乗り、彭城ほうじょう(江蘇省徐州市)を都とした。

「天がわしを滅ぼすのだ!」

項羽は、秦朝を倒すのに功績のあった諸将を王侯に任じ、劉邦には、巴・蜀・漢中を与えて漢王とした。

のち、劉邦は、有能な参謀や武将を配下に置いてしだいに力を増し、やがて項羽に対抗する軍勢の中心となる。そして、項羽が義帝を殺害すると、大義名分を得た劉邦は、諸将に項羽討伐を呼びかける。

こうして、項羽と劉邦が覇を競う「楚漢戦争」が始まり、一進一退の攻防を繰り広げる。初めは優勢だった項羽の楚軍は、兵糧不足から疲弊し、劉邦の漢軍が形勢を逆転して優位に立つようになる。

そして、漢軍に韓信・彭越らの軍が合流した連合軍が、ついに項羽を垓下がいか(安徽省霊壁県)に追い詰める。

「四面楚歌」の状況に置かれた項羽は、陣幕の中で酒杯を手にし、虞美人を前にしてこう歌った。

力拔山兮気蓋世  力は山をも抜き 気概は世を覆う
時不利兮騅不逝  時運に利無く すいは進もうとしない

ここで項羽は、敗北の原因を「時に利あらず」、つまり時運が自分に味方しなかったからだと歌っている。

戦略の誤りを認めることは、彼の「面子」が許さなかった。「自分の実力は誰にも負けないが、時運という抗えない力のせいで負けたのだ」と責任転嫁し、覇王としての「面子」を守ったのである。

さて、絶体絶命に陥った項羽は、夜陰に乗じて800余騎を率いて包囲網を突破した。漢軍がこれを追撃し、淮水を渡る時には、項羽の手勢は100 余騎にまで減っていた。

敗走するうちに味方がわずか 28 騎になると、項羽は、騎兵たちに向かってこう言った。

わしは兵を起こして8年、自ら出陣して 70 余回戦ったが、一度も敗れたことがない。ところが今、ついにこうして追い詰められている。これは、天がわしを滅ぼそうとしているのであって、戦い方が悪かったわけではない。

敗北は自分の力不足や戦略ミスのせいではなく、天が味方をしなかったためだ、と自らの運命を歎く。

「此れ天の我をほろぼすなり、戦いの罪に非ざるなり」と訴え、ここでもまた項羽は不可抗力を理由に自己弁護をしている。

「時の運」「天の命」であるから致し方ないとすれば、自分の「面子」は保たれる。しかし、戦い方が悪くて負けたとなれば、武将として、英雄としての「面子」が丸潰れになるのである。

「江東の父兄に面目が立たない!」

敗走する項羽は、手勢の騎兵を4隊に分け、漢軍の将兵を次々に討ち取りながら東へ向かい、烏江うこう(安徽省和県)に辿り着いた。そこには、亭長(宿場の長)が舟を出す用意をして待っていた。項羽に向かって、

「江東は小さいとは言え、土地は千里、人口は数十万。王となるには十分の大きさです。大王殿、急いでお渡りください」

と舟に乗って逃げるよう進言するが、項羽は笑ってこう言った。

天がわしを滅ぼそうとしているのだ。どうして渡ることができようか。しかも、わしは江東の子弟 8,000 人と共に江を渡って西へ進み、今一人の帰る者もない。たとえ江東の父兄がわしを憐れんで王にしたとしても、何の面目があって彼らに会うことができようか。

項羽には逃げ延びるチャンスが与えられていた。烏江に辿り着いた時、天はまだ項羽を見限ってはいなかった。

ところが、項羽は、「我何の面目ありてか之にまみえん」と見栄を切って、舟に乗って逃げ延びることを潔しとしなかった。命よりも「面子」を優先したのである。

そして最後は、追っ手の漢軍と肉薄戦の末に、自ら首を刎ねた。

江東に戻り体勢を立て直して再び決起すれば、捲土重来の望みは持てた状況であった。しかし、項羽の「面子」がそれを許さなかった。

項羽を滅ぼしたのは、項羽自身の「面子」だったのである。

「面子」は、項羽にとっては、覇王にまで登りつめた原動力であると同時に、彼を自滅させた致命傷でもあった。

項羽のエピソードは、「面子」が、時には為政者を奮起させる起爆剤として機能し、時には国家の滅亡を招く致命的な弱点になることを、巨大な歴史的スケールで物語っているのである。


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