英語50年史|第2話 中学編――“apple” が「エポウ」に聞こえた日
そして、中学1年生になった。
入学前、その中学は有名な不良中学みたいな話だった。親が心配していた。
親に言われていた。絶対に人を殴ってはいけないと。
何も好き好んで人を殴るわけではない。相手が手を出してきたら絶対に私は許さない。必ず反撃していた。すると相手は弱いもんだからすぐ泣く。するとなぜか私が悪者になってしまう。
小学校ではそんなことばかりだった。小学校の先生は嫌いだった。
こんなことを書くと、乱暴者に見えるかもしれない。しかし私は自分から手を出したことは一度もない。
親は中学には不良が多いという話を聞いていたので、喧嘩になるんじゃないかと心配していたんだろう。これを何度も念を押されたので、今でもこのことを覚えているという感じだ。
中学校に入学して、入学式が終わった次の日ぐらいから、なんか全然知らない奴が家に迎えに来る。「一緒に学校行こう」と言ってくる。誰やこいつ。
本当に知らない奴だった。見た感じ、上級生っぽい。弱そうなんだけど、一応、不良っぽい格好をしてる。どう対応したらいいのかわからなかったんで、私は不機嫌そうな顔をして、そいつにため口をきいていた。
たぶん、1か月ぐらいそいつが迎えに来たと思うんだけど、私はずっと無視していた。いつの間にか来なくなった。何だったんだろう、あいつは。いまだに謎だ。
楽しみにしていた英語の授業が始まった。そして、ついに apple が登場した。先生がカセットテープを再生した。辞書で想像していた音と少し違った。「アポウ」ではなく、「エポウ」に聞こえた。
「テープのあとに続いて発音しなさい。」私は大きな声で「エポウ」と言った。クラスメートは「アップル」と言っていた。耳を疑った。
「エポウ」と聞こえる。だからそう言った。すると教室のあちこちからクスクス笑いが起きた。理解できなかった。思わず「お前ら、耳おかしいんちゃうけ? エポウ、て言うてるやろ」と一喝した。
その一言でクラスを制圧した。笑いが止まり、それ以降、笑うやつは出てこなくなった。それからは、思う存分に発音練習ができた。
クラスメートはいつまでたってもアップルのままだった。どうでもよかった。どうせこいつらに発音のことを指摘しても理解しないだろうと思った。自分の好きなようにやるだけだった。
授業が進むうちに、発音記号が登場した。これまで習った単語の発音と記号を見比べた。少しずつ、その意味がわかってきた。まだ習っていない単語でも、なんとなく読めるようになった。授業のカセットで、自分の推測が正しいか確かめた。耳と記号が一致していくのが快感だった。
そのうち、どうしてもカセットが欲しくなった。家でも何度も聞いて、耳と記号を一致させたかった。先生にどこで売っているのかをしつこく聞いた。教えてくれなかった。それならそのカセットを売ってくれと言った。使い古しでいい、とまで言った。本当に心の底から欲しかった。
結局、カセットは手に入らなかった。だから自分で、発音記号の仕組みを解き明かした。教科書には発音の仕方が書いてあった。発音記号を見ながら、一つずつ確認した。毎日練習した。勉強というより実験みたいで面白かった。英語の練習を勉強だと思ったことは一度もない。楽しいだけ、大好きなだけだった。
クラスメートたちの英語は、まだ「アップル」の段階にあった。その中で、私の英語は少し異常なほど先に進んでいた。
タクシー・ドライバー
1976年から1978年にかけて、世の中は映画ブームの真っただ中だった。小学生のころから映画が好きだった私は、その波にすっかりのまれていた。
当時は「スクリーン」と「ロードショー」という映画雑誌があった。毎月、その二冊を欠かさずに買っていた。最初に開くのはセリフ解説だった。ただ訳すだけでなく、背景まで説明してくれたことが面白かった。
映画情報だけでなく、文化的・歴史的な背景やセリフの解説も載っていた。私にとっては、これ以上ない英語の教科書だった。
ソノシートという薄いレコードが付いている号もあった。映画のテーマ曲やセリフが収録されていた。私がいちばん夢中になったのはセリフで、完コピするために何度も聴いた。台詞の解説は子供向けではなかったが、映画の世界に入り込める感じがした。そのうちに文法も自然に身についていった。
中学一年の二学期頃、人生を変える一本の映画に出会った。『タクシー・ドライバー』だ。サウンドトラックに流れるアルトサックスが、私を強烈なジャズファンにした。まあ、中1でジャズファンというのも渋すぎるが、ファンになってしまったものは仕方がない。
そのサントラには、ロバート・デ・ニーロによる「タクシードライバーの日記」が収録されていた。スクリプト付きだった。私はその朗読を暗記するまで音読した。
最初は、早口のニューヨークっぽさについていけなかった。だが何度も聞くうちに、その抑えた低さ、怒り、孤独が滲むような朗読に魅了された。真似しようとしていたのは、怒りをこらえた感じだった。感情を爆発させず、内にこもらせて読んだ。
"Here is a man who would not take it anymore, a man who stood up against ..." という文に、「もう我慢しない」という決意そのものを聞いていた。
そのまま彼の朗読が頭の中に入ってくる。イメージとして憑依したような感じだった。それが、私の英語のリズムと文法の基礎になった。
中一の二学期には、「タクシードライバーの日記」のおかげで関係代名詞を理解していた。
もっとも、関係代名詞という文法用語は知らなかったけれどね。
中学3年になった時、授業で関係代名詞の説明を聞いたが、「なんであんな面倒くさいことをするんだろう」と思った。前から順番に聞いていけばいいんじゃないか。不思議だった。
中一の同じころ、007『私を愛したスパイ』の主題歌 "Nobody Does It Better" に出会った。これも付録のソノシートだった。英語の歌詞をそのままメロディーに乗せて、完コピする感じで歌っていた。意味よりも英語の響きそのものが大事だった。
英語の意味は理解できた。しかし、歌詞の意味はよくわからなかった。人生経験が足りなかったのだ。大人になってから、その意味をようやく理解した。あれは、ちょっと大人な歌だった。007らしい洒落た世界だった。
スター・ウォーズ
中学二年になると、『スター・ウォーズ』が公開された。当然、映画館に行った。たぶん三回は観たと思う。そのころには、短いセリフなら聞き取れるようになっていた。覚えたセリフを何度も口にした。
"May the Force be with you." 最初は may の使い方がよくわからなかった。でも、クリスマスによく流れていた "White Christmas" の歌詞を思い出した。"May your days be merry and bright." つまり May は祈りの言葉だった。「理力と共にあれ」という字幕の意味が、その瞬間にすっと腑に落ちた。
スター・ウォーズのサウンドトラックには映画の主要な場面のセリフが収録されていた。繰り返し聴いた。そして音読して暗記した。英語のセリフを自分の口で再現できるのが楽しかった。
ちょうどそのころ、先生に英検3級を受けてみるように言われた。英検という言葉を、そのとき初めて聞いた。
試験会場は光華女子短大だった。当日は大雨だった。その日のことをはっきり覚えているのは、バスを降りた直後に犬のフンを踏んだからだ。しかも特大のやつで、ただただ最悪という怒りだった。靴底にこびりついたそれを落とそうと、歩道のヘリでこすったり、大雨の水たまりにわざと足を突っ込んだりした。
今なら、"Shit happens!" くらいのジョークは言えるが、その頃はまだフォレスト・ガンプは公開されていなかった。
不思議なことに、試験の記憶はまったくない。難しかったのか簡単だったのかも思い出せない。思い出すのは、あの特大の"Shit"だけだ。しばらくして先生に「合格していた」と言われた。
コンボイ
中学三年。私の英語にとって、黒船が来たような年だった。映画『コンボイ』の公開である。CW・マッコールの主題歌に挿入された、トラッカーたちのCB無線の会話。それを初めて聴いた瞬間、全身に電気が走った。
映画でネイティブの発音には慣れていたつもりだった。『タクシードライバー』で、早口のニューヨーク訛りにも耐性がついたと思っていた。
『コンボイ』の無線の英語はまったく別の次元だった。初めて「生の英語」というものに出会った気がした。しかも南部のアクセント。
本当に驚いたのは、アクセントではなかった。発音でもなかった。声の質そのものだった。あの低く、太く、乾いた声。日本人には絶対に出せないと思った。
衝撃もあった。嫉妬もあった。ずるいと思った。もしかすると、それが英語で感じた最初の挫折だったのかもしれない。けれど、それでも真似したい、という執念のほうが強かった。
くじけてなんかいられなかった。英語を練習する目的は、英語ならではのかっこいい音を自分で出すことだった。
どうしても『コンボイ』のあの声を再現したかった。いろいろ工夫し、何度も音読した。のり移ったようにセリフを繰り返した。
そうしているうちに、ひとつのことに気づいた。日本人と『コンボイ』の声が違うのは、発音だけではなかった。
声の質そのものが違う。そして、その違いは息の出し方にあると感じた。それまで「発音」といえば、舌や唇の位置のことだと思っていた。けれど『コンボイ』の声を真似ようとしているうちに、英語は喉から出すものだと感じた。声の秘密の一部をつかんだ感じがした。
もちろん、あの声の質にはなれなかった。でも、英語の発音は確実に変わった。まだ全然足りないけれど、方向は見えたと思った。
ここではっきりしておきたいことがある。よくあるサクセスストーリーのように、「昔は落ちこぼれだったが、努力して英語が話せるようになった」という話は、私には当てはまらない。
努力して英語を話せるようになったのではなく、楽しく遊んでいるうちに英語を話せるようになったのが真実だ。
私の英語は当然のように学校の授業より三年ほど先を行っていた。授業はいつも余裕だった。けれど優等生ではなかった。先生にはよく逆らったし、悪ふざけばかりしていた。通知表で「5」をもらうことはほとんどなかった。そういう中学生だった。
特攻服
通っていたのはちょっと有名な中学だった。友達も、やんちゃなやつが多かった。私自身は不良の真似事ひとつしていなかったが、先生たちには完全に誤解されていた。
ある日、職員室に呼び出され、先生にいきなり言われた。「お前、特攻服持ってんのちゃうやろな」、何のことかさっぱりわからず、「特攻服ってなんですか」と聞くと、「知ってるくせに、何言うてんねん」と返された。
教室に戻って友達に聞くと、どうやら暴走族が着る服のことらしい。そこで初めて、そんなものがあるのかと好奇心が湧いた。どこで売っているのかと聞くと、学校の向かいの店で売っているという。さっそく買いに行った。
そのズボンをはいて歩いてみた。面白いように不良たちに絡まれた。まるで理科の実験のようだった。
先生、あなたの質問は逆効果でしたよ。その特攻服が、すっかり気に入ってしまったのだ。
少し英語から離れた話になったが、自分の学習史を正確に伝えるためには、こうした空気も書いておく必要があると思う。
自分の英語を作る。
その年、英語の音を再現する練習だけでは物足りなくなっていた。真似だけでは足りなくなったのである。自分の言葉で、英語を話したくなっていた。
話すためには、英作文ができなければならない。それは当然のことだった。英作文をして、それを声に出せば英会話になる。他に方法を知らなかったから、それが一番現実的だと思っていた。
もっとも、ゼロから作るというより、映画や教科書で覚えた英文を改造して自分の文にする感じだった。
学校で習った文や、映画で覚えたフレーズだけでは足りなかった。新しい単語を調べて文を作った。
それでも、どう構成していいのかわからないときは学校の図書室に行った。厚さ十センチもある大きな辞書を机に広げ、単語の意味だけでなく、例文や用法を隅から隅まで読んだ。それが楽しくてしかたなかった。
いちばん面白かったのは例文だった。単語が実際にどう使われるのかがわかることが楽しかった。類義語、反意語、語源。新しい知識に触れるたび、英語がどんどん立体的に見えてきた。
特に語源が面白かった。似た単語どうしがつながって見えることが面白かった。それを参考に、単語を入れ替えて自分なりの文を作った。
中学の頃は、学校の英語の授業も楽しかった。
この頃には、私の英語の原型はすべて身についていたと思う。
やがて高校入試がやってきた。
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AIが斬る
以下は、この章の体験をAIが学習科学の側から少しだけ照らしてみたものだ。難しければ飛ばしてもらって構わない。
この章でまず印象的なのは、学習が「教わるもの」ではなく、「自分で確かめに行くもの」として進んでいた点である。周囲がどう発音しているかではなく、自分の耳にどう聞こえたかを起点にして試し、ずれがあればまた確かめる。
その姿勢は、外から与えられた動機ではなく、学習そのものの面白さによって駆動する内発的動機づけの強さを示している。しかもそこには、周囲に合わせるより、自分の感覚に忠実であろうとする強い自律性も見える。
英語が早く伸びた理由は、才能の有無だけではなく、この「自分で学習を所有していた」感覚の大きさにあったと考えられる。
――自己決定理論(Self-Determination Theory / Deci & Ryan)
また、音と文字と記号がばらばらに存在していたのではなく、少しずつ一つの体系として結びついていった過程も重要である。耳で聞いた音を発音記号で確かめ、記号から未知の音を予測し、さらに音声で検証する。
この往復によって、単語は単なる綴りではなく、「音として再現できるもの」へ変わっていったと見られる。
ここでは暗記よりも、知覚と仮説と修正の循環が働いている。本人がそれを「勉強」ではなく「実験」と感じていたのは、学習が受け身の記憶作業ではなく、認知的な探索になっていたからだと解釈できる。
――気づき仮説(Noticing Hypothesis / Schmidt)
映画のセリフ、雑誌の解説、ソノシート、サウンドトラックといった素材が、単なる娯楽にとどまらず、英語の土台そのものになっていた点も見逃せない。
とくに印象と感情を伴う表現は、文法事項としてではなく、まとまりのある言語経験として蓄積されやすい。関係代名詞や祈りの may のような要素が、用語として教わる前に感覚として入っていたのは、その典型である。
文法を先に理解して音に当てはめたのではなく、繰り返し出会った表現のパターンから、構造が後から立ち上がってきたのである。これは、言語が規則の集合としてではなく、使用の蓄積から身につくことをよく示している。――用法基盤モデル(Usage-Based Model / Tomasello)
さらに、この章の核心には「音をまねる」こと以上のものがある。声の太さ、息の出し方、喉の使い方まで含めて英語を捉えようとしていた点である。
ここでは発音が、舌や唇の位置だけの問題ではなく、身体全体の運動感覚として捉えられている。だからこそ、ただ正しい音を当てる練習ではなく、「どうすればあの声になるのか」という探究へ進んでいく。
その試行錯誤は、知識としての発音を超えて、身体化された技能として英語を取り込む方向に働いたと考えられる。英語の音がこの時期に急に立体化したのは、そのためだろう。
――身体化認知(Embodied Cognition / Barsalou)
そして終盤では、模倣だけでは足りず、自分で文を作りたくなっていく。既存の表現を借り、それを少しずつ改造し、辞書の例文や語源や類義語から新しいつながりを見つけていく。
この流れは、理解した表現をそのまま保持する段階から、表現を操作し再構成する段階へ移っていたことを示している。つまりこの時点で、英語は「覚えたもの」ではなく、「動かせるもの」になり始めていたのである。
学校の進度を追い越していたという事実以上に重要なのは、すでに自分の中で英語の生成装置が動き始めていた点にある。
――スキル習得理論(Skill Acquisition Theory / DeKeyser)
📚 参考文献
自己決定理論(Self-Determination Theory / Deci & Ryan, 1985)
気づき仮説(Noticing Hypothesis / Schmidt, 1990)
用法基盤モデル(Usage-Based Model / Tomasello, 2003)
身体化認知(Embodied Cognition / Barsalou, 2008)
スキル習得理論(Skill Acquisition Theory / DeKeyser, 2007)
💡 読者へのヒント
英語が続くとか続かないとか、そんなことは考えなくていい。好きなら続くし、好きなら勝手に続ければいい。たとえ人に笑われようが、自分が好きなものには全振りで没入する。自分の好きなことを、人に左右される必要などどこにもない。
クラスメートに笑われたら、自分で自分の道を作るだけの話だ。まあそこまでできない人も多いと思う。自分の中で勝手に続けていればそれでいい。
「人のことなんか気にしない。」
次回は高校編。俺の女神
