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智を以て世を制す・李斯(のちの世で法家に分類された人々④)

戦国時代も末期をむかえようとしていた頃。
南に位置する楚の国で、ある若い男が小役人として働いておりました。
その男の名は李斯。
のちに、秦の国の丞相として始皇帝に仕えることになる李斯の登場です。

ある日、李斯は自分の働いている役所の便所に鼠がいるのを見かけました。
その鼠は痩せており、便所の糞を食べ、人や犬が近づこうものなら驚き恐れてこそこそ逃げ出しておりました。

また別の日。
李斯は役所の倉に入った時に、別の鼠を見かけました。
この鼠は倉の中に蓄えてある穀物を食べ、まるまると太っています。人も滅多に近寄らず、犬も入ってこないので、何の心配もいらず、悠々自適に過ごしています。

この様子を見て李斯は思いました。
「人の優劣、幸不幸なんてものは、例えるならこの鼠のようなものだ。自分の身を置くところによって決まってしまうのだ。こんな役所で頑張ってみても、所詮は便所の鼠にしかなれない」

意を決した李斯は、役所の職を辞し、楚の国を出ました。
そして、当時最も名声の高かった荀卿(荀子)に師事し、帝王学について学びはじめました。

ちなみに、この頃、李斯はひときわ異彩を放つ、ある人物に出会います。そうです。先にご紹介した、韓非です。

やがて学業を終えた李斯は、仕官先を探すようになります。
今で言うと、学校を卒業して、就職活動をするのと似ていますね。

どこに仕えようか。
李斯は考えを巡らせます。
故郷の楚はどうだろう。
いや、今の楚王は仕えるに値しない。
では他の国はどうだろう。
どこの国もみな力が弱く、功績をたてようにも、たてられるような状況ではあるまい。
唯一、あの国を除いては。
西に位置する秦だ。
あの国は力も強く、私の能力も充分に発揮できる環境にあるのではないか。

そこまで考えが至った李斯は、荀卿に暇乞いをします。
「私は『時機が到来したら、怠ることなく事を行え』という言葉を聞いたことがあります。今、世は乱れ、群雄割拠している時代です。そして遊説者が列国の国事を司っております。
秦王は今、天下を併呑し、帝として治めようとしております。このような大事業に於いてこそ、私のような遊説者にとって、世に出る絶好の機会なのです」

そう言い残して李斯は秦へと向かうのでした。

李斯は無事に秦へとたどり着きます。

ちょうど李斯が秦に入ったこの時期に、荘襄王が亡くなりました。
荘襄王とは、いわゆる始皇帝の父親にあたる人です。

そこで李斯は、秦で宰相の位にあった呂不韋のもとを訪れ、
その家臣となりました。
呂不韋は李斯が賢人であることを認め、秦王(政、のちの始皇帝)に推薦しました。
このため、李斯は秦王に謁見し、論を説くことができるようになったのです。

ある時、李斯は秦王にむかってこう進言しました。
「相手の隙に乗ぜずに、ただ待っているだけでは時機を失ってしまいます。大業を成すには、相手の隙につけこみ、かまわず攻めることです。かつて、秦の穆公が覇を唱えながらも天下を平定できなかったのは何故でしょうか。
まだ群雄が多く、周王室の力がまだ衰えていなかったからです。
その後、秦の孝公以降は、周王室は衰え、群雄は潰しあい、ついに六国になりました。
今こそが、天下統一を果たす絶好の機会です。今を逃せば再び諸侯は力を蓄え、反秦連合を組んで対抗してくるに違いありません。そうなってからでは手遅れです」

秦王は、その進言を聞きいれ、計略をもちいて諸侯の君臣関係に楔を打ち込み、すぐさま武力で圧力をかけました。
これを機に攻めること二十数年。
秦王はとうとう天下統一を成し遂げたのです。
これにより、秦王は「始皇帝」を名乗るようになります。

功績を評価された李斯は、丞相となりました。

若き頃に抱いた世に出て自分の能力を存分に活かしたいという夢。
その夢を実現させてしまいました。
秦という国に目を付け、ここでと決めたら二十数年ずっと挑戦し続ける。
最後まで諦めなかった李斯は、最後まで諦めなかった秦王と共に、
天下統一を果たしてしまうのでした。

ついに臣としての最高位まで昇りつめた李斯。
月は満ちれば、あとは欠けるのみ。
これもまた、英雄の定めなり。

始皇帝のもとで天下統一に大きな功績をあげた李斯。
丞相となって秦の安定の為に尽力しました。
徹底した中央集権。

郡県の城壁を破壊し、武器を溶かして再び使用できないようにしました。
豊臣政権の頃の、石田三成による刀狩りに似ているかもしれませんね。

また、皇帝の子弟を王に立てたり、功臣を諸侯に封じたりしませんでした。
これは、後世において内乱が起こるのを防ごうとしたのです。

あるとき、都で酒宴が催されました。
周囲の臣下が始皇帝の威徳を褒め称えるなか、淳于越という者が進み出て始皇帝を諌めました。
「わたしは『殷・周の王朝が千年以上にわたって存続したのは、子弟や功臣を各地に封じて王室の支えとしたからだ』と聞き及んでおります。いま、陛下は海内を保有しておりますが、陛下のご子弟は庶民です。もし突如、国を簒奪しようとする者があらわれた時に、助け合うべき仲間がいないではないですか。
何事におかれましても、古代を手本とせずに長久たり得たものはございません」

始皇帝はこの意見を丞相の李斯に検討させました。
すると李斯は、この淳于越の説は謬りだとして、始皇帝に上書しました。
「昔、天下は混乱しており、それを統一しうる者がおりませんでした。その為に諸侯は並びたちました。
当時の言説はと言いますと、すべて太古の理想的状況を言いたて、その当時の現状をけなし、言辞を飾り立てて実情を乱しました。人々は、それぞれが私的に学んだことのみを善として、ときの政府が打ち出す政策をことごとく誹謗中傷したのです。
ところが、今、陛下は天下を統一し、物事の白黒をしっかりと定めたのです。
それにも関わらず、私的に学ぶ輩は、それぞれに法律文教の制度を誹謗します。何か政令が下ると、おのおのがその私的に学んだところを以って議論し、主上を謗ることを名誉とし、異を唱えることが高尚だとし、徒党を組んで誹謗するのです。
このようなものは、禁圧すべきです。
さもないと、主上の権勢は下降し、下々の者は徒党を組んで反乱を起こすでしょう。

故に、私的な学問を禁止すべきです。
文学、詩経、書経、百家の書物を所有している者には、それらを捨て去らせましょう。
命令を受けてから三十日を経過しても捨てない者は、厳しく罰します。
ただし、全ての書物を捨て去るのではなく、医薬、卜筮、農事に関するものは捨てなくて構いません。
もし何かを学びたい、という者がいるなら、役人を師として学ばせましょう」

始皇帝はこの考えをいれ、人々の書物を捨てさせました。万民から過去の叡智を奪い、天下のだれひとりとして古代に照らして現代を誹謗することができないようにしました。
そのかわりに、法律を明確にし、文字や度量衡を統一し、天下の至る所に離宮や別館を築造しました。
その翌年、始皇帝は天下を巡幸し、威厳を示しつつ四方の蛮族を征討しました。
李斯は、これら全てに深く関与し、その能力を存分に発揮したのでした。

さて。悪名高い焚書。
こういった経緯があったのですね。
ときの政府に対して常に批判する。そうすることで、自分自身の知恵をひけらかし、世間の注目を浴びる。舌先三寸で世の中を煽り立てる。いつの時代にもいるんですね、こういう人が。

それに対して、国がどう対処したか。
秦の場合はこうであった、というだけで、これが正しい訳ではありません。また、この李斯の考え方には、韓非の学説の影響が大きいようです。韓非の本来の説を過大に歪曲して利用した感はありますが、法家らしい考え方ですね。

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