見出し画像

連載小説『恋する白猫』第十九章・共謀者たち

『ねぇ!』
と、亜希子は囁くように小声で叫んだ。
 
『いいの?本当に、
本当はいけないんでしょ!?』

つられて光(みつる)もつい不必要な小声となってまるで密談でもしているような話し方になる、

『いいのよ!どうせこんな時間、
ここへ来て猫のトイレの掃除したり、
朝ごはんあげたり朝イチでお水取り替えたり、なんじゃかんじゃとするような奇特な人は私以外だぁれも居やしないんだから…こんなことやったって余分にお給料貰えるわけじゃないのにさ』

『でも…もし見つかったら…光が怒られるんでしょう??』

『そぉんなの大丈夫だから、
入って入って!
私だけなのよスイートハートの合鍵持ってる職員って、オーナー夫妻はこんな時間に来たりは絶対にないし、他の職員の娘(こ)たちもみんな今頃まだ寝てるか、モソモソ起き出して朝っぱらからカップラーメンにお湯注いだりしてるわよ、
きっと』

『でももうすぐ9時よ』

『9時だからよ、
スイートハートは開店が10時半ですもの、他の猫カフェにしちゃそれって早いほうよ』

『へぇぇそうなの?
私、スイートハート以外の猫カフェはほとんど知らないから…』

二重扉の狭間にある沓脱ぎ場でスリッパに履き替えながらふたりがそんな必要も無いはずなのについひそひそと話し合っているとその気配に勘づいた猫達が、猫部屋に通ずる内側の扉の傍へ口々にニャアニャア鳴きながら、かまびすしく集まってきた。
光が先立って扉を開けると例によってあの覇気のないドアベルがガラゴロンと鈍く低い音をたてて鳴った。

『みんなおはよう、
さあ!お水かえて朝ゴハンにしましょうね、お腹空いたでしょう?』
と光がそう言うとスイートハートでも明るく快活な猫たちの群れは、一斉に尻尾をピンとたて大きな声で鳴いて返事をしたり、光の淡いピンクのコーデュロイのパンツに包まれた両足の間を数字の8の字を描くようにうねうね回る子もいる、
嬉しくて落ち着きをすっかり失った猫たちはゴハンだゴハンだとまるで池の鯉のようにせわしなく床の上を泳ぎまわるようにすいすい回転している。

そんな中、天井に近い壁に取り付けられたステップ型の猫ベッドの中からその縁に顎を乗せ、むっつりとこちらを見ていた“隅っこスミ子”がふと亜希子に気づきその無愛想極まる顔をハッとしたように上げ、その眼は信じられないものを見るかのような今にもこぼれ落ちそうな瞠目と化している。

『リリー、大好きな可愛い私のリリー』

亜希子は隅っこスミコにそう言うとその場で膝まづいた。

『おはようリリー逢いたかったわ』

にゃあ…とスミコはまさか…というようにかすれた弱々しい声を出し、やがてその懐かしくも愛おしい声に気づいてタンタンタンッと大きな音をたてながら壁のステップを駆け下りて亜希子へと一目散に駆け寄った。

『リリー!』

亜希子の胸に矢のように飛び込んだ隅っこスミコはたちまち亜希子の胸の奥深くに包み込まれるように抱(いだ)かれて彼女はやがて隅っこスミコではなくなり、美しい白猫レディ・リリーとなった。

『ちぇ…なんだか妬けちゃう…
大好きな可愛い私の…だって… 
ふん、何さ…』
と小声で独りごちながらも光もまた床の上に膝まづき、既に他の猫たちにウジャウジャと取り囲まれている。
一匹一匹のそのさながら林檎を思わせる可憐な頭を撫でながら『可哀想に、昨夜のゴハンの時間の5時半からもう15時間30分も経ったのよ、
そりゃあ、お腹空くわよねぇ、
お腹空き過ぎて眠れなかった子も居たんじゃなぁい?』
と猫たちを見回してそう言った。
『そうなの?』
と、いかにも驚いた様子でリリーを抱いたまま亜希子は光を観た。

『そうなのよ』と、光はあふれる猫の渦(うず)の中に身を置いたまま亜希子を振り返ると深々と頷いた。

『本当はね、10時半開店だから10時にはお店に入って猫たちに朝ごはんを上げることになってるんだけど…
みんなその頃には待ち切れなくてお腹ぺこぺこなのよ、
いつも何日も食べられていない物凄く可哀想な猫みたいにガツガツ食べるの、
気が立って喧嘩になる時もよくあったわ』

『…まぁ…可愛そうに』
と、それを聞いた亜希子は痛ましげに濃い眉をひそめるとまるで慈母のように思わずリリーを抱き寄せた。

『だからなの、
お腹空き過ぎてよっぽどイラついてたんでしょうね、普段大人しい長毛のおかゆが私の指に噛み付いたことがあって…
結構怪我したのよ、でもその後でおかゆはきっと私に悪いことをしたと思ったのね…
暫く私にくっついて何日も離れなかったの…顔を見ると本当に済まなさそうな情けない顔をしていたのよ、
‘’あんなことをしてしまってごめんなさい‘’みたいな…
もうかわいそうになっちゃって…』

亜希子が思わず困ったような笑いを漏らすと光はほんのりムキになってこう言った。

『あら可笑しくなんかないのよ、
私それ以来こうやって毎朝他の職員より早くここへ来るようになったの、この子たちが腹ペコで待ってると思ったら…』と光は猫部屋の奥の厨房へ向かうドアへと向かいながら亜希子を振り返りこう言った。

『そりゃあ来ちゃうわよ』

『雨の日も風の日も?』
と、亜希子がリリーを抱いたままいつものソファへ座って聞くと光はドアレバーに手を掛けたまま、頷くとこう言った。

『そうよ稀にある雪の日もね横浜のすぐに溶けて無くなる淡雪を踏みしめてね、私は東北の子ですもの、寒いのには都会っ子より何倍も強いのよ』

『優しいのね…』
亜希子は膝の上のリリーをゆったりと撫でながら何故か懐かしげな瞳をして囁くように言った。

『さすがは光だわ…』
そして急に茶目っ気のある表情を浮かべると肩を聳やかすようにしてこう言った。
『ねぇ、私ってオンナを見る目があると思わない?』

その後、スイートハートが開店になるまでの間の秘密の貸し切りカフェでのひとときは、猫たちにとってもそして光と亜希子のふたりにとっても、心安らぐ憩いの時間となった。猫たちも長年の常連である亜希子にはリリーでなくとも皆、心を開いており、リリーを抱いてカウチに座る亜希子の足元に猫たちは思い思いにうずくまり、そのスリッパの足の甲に顎を乗せて朝の惰眠を貪る茶トラのコロッケとトンカツ、最近入ってきた黒猫の醤油、黒猫だが額の一部に白が小さく点々とある牝のお米、
そして古株のセサミンは亜希子の座るカウチの背もたれに長々と横たわり、他の猫たちも次々と亜希子の傍を目指して寄ってくる。
いかに亜希子が人望ならぬ猫望があるかがよく判る図である、と光はそんな光景を見て心の中で密かに満足した。

今日は日曜日だ。
新規を含めて客人が多い日である。
オーバーツーリズムはこんな街外れの冴えない商店街の奥に在るスイートハートにまで波及していた。
光が客のオーダーを聞いてキッチンへ入り、ココアやミックスジュースやコーヒーフロートをどんどん作っていく。

ヨーロピアンとおぼしき訛りのある英語で話す親子連れの客のオーダーのバナナミルクとチョコレートのアイスクリーム添え、それにブラックの珈琲、
親子の娘がご所望のいちごミルクのチョコミントのアイスクリーム添えを作って猫部屋へとトレイ片手に出てきた光は思わずその場で佇立しそうになるのを耐えて、夫妻とその娘とにトレイの上の飲み物を差し出した。
フィンランドから来たという四十代くらいの夫婦とその娘とが、亜希子といかにも楽しそうに歓談していたからだ。

‘’何よ、日常会話に毛じゃなくて産毛が生えた程度のしょうもないものだと言っていたのに…随分ペラペラじゃない…”

それを見て光はふと亜希子がもしかしたら傍(はた)から見るより自尊心が低く自信が無いのを隠しているだけなのかもしれないと思った。
フィンランドの女性から『貴方は綺麗な英語を話すのねアクセントだけでなく普通、ネイティブでないと知らないような言い回しを知っていてそれを自然と話せるから驚くわ、どこかに住んでいたの?アメリカ?』と言われているのが光の耳でも部分的に理解出来た。
外国人観光客が、増えてからというものの仕事上彼女は少しは喋れるようにと英会話のアプリで毎日少しずつ勉強していたのだ。そのせいか?ハンナと名乗る亜希子と同世代くらいの四十路過ぎたか過ぎてないかくらいの女の会話が切れ切れに聴き取れた。
だが話せない、
光は英語のイントネーションは柔らかく軽やかで耳に心地良かったが会話するとなると怖気づいてどうにもならなかった。もともとストラクチャーが邪魔をすると思い込んでいる真面目で頭の固い彼女はいったいどう喋ってよいのか全てにおいての脈絡が解らない、

『アメリカに居たって分かる?』
と亜希子がハンナに訊ねる。

『ええ、解るわよさっき猫の爪が当たって傷を作った私に貴女自分のバックパックからこれを取り出してこう言ったもの、〝バンデェッジ〟要る?って』

『プラスターとは言わなかったもんね』と隣りに座るハンナの夫らしき男が加えてそう言った。

光は自分の耳が驚くほど英語に強くなっていることに驚きながら彼らの会話に耳を澄ませているとフィンランドの夫妻は日本を一周旅行をして今月で7か月目に入るのだという。
『半年を過ぎてそろそろ祖国が恋しくなってきたわ』と言いつつ『でも正直まだ帰りたくない気持ちもあるの、日本旅行はこれで2回目なのよ』と聴こえた会話も途中から亜希子の早口で未知の語彙を含んだ教科書にも載っていないのではないか?と疑いそうになる言い回しについてゆけず光は懸命のヒアリングを断念した。
“あんなに英語が話せるのに亜希子さんが自信が持てないのは何故かしら…
自分で自分を過小評価し過ぎよ”
と光は思った。
だが光にもその感覚はまるで後ろ暗い自分だけの秘密のように身に覚えがある。
家庭環境や育ったその経緯にもよるのだろうが、明らかに光は自信という自信が須(すべか)らく欠落していた。

「あんたはお姉ちゃんと違って本当に出来が悪いわ」
「瞬(まどか)は医者になれると言われたのよ、高校の先生から推薦状を書いて頂けそう」「お姉ちゃんはピアノもバレエも上手だった、器量良しでもあるし舞台映えもしてお母さんたち鼻が高くて」「それに比べてあんたときたら何にもないのね」「お姉ちゃんの爪の垢でも煎じて飲ませたいわ」「お姉ちゃんはバービー人形、あんたは目の細いこけしちゃん」「何よ、こけしだって可愛いじゃない、不満なの?充分でしょ」

光の頭を過去に嫌というほど聞かされた親たちからの言葉がぐるぐるとあの空高く舞う鳶(トビ)の群れのように回転する。
まるで嘴(くちばし)を中央に向かって揃えるようにして旋回しながら、一度も羽ばたくことなく空気の流れを味方につけてただ翼を拡げ、その翼と躰を静止させたまま、その言葉の数々は鳶の姿を借りて光の頭上に次々と矢のように振りかかり、襲いかかるかのようなその幻惑に、
光は悲しいというよりゾッとした。
そしてそんな昏い戦慄の底に彼女は消え失せてしまいたいほどの惨めさを人知れず噛み締めた。
“もしかしたら…”と光はそんな思いの中でふと思った。

“亜希子さんも私のように自分を卑下せずにはいられない“悪い癖”があるのかもしれない…”

光は、少しだけ抹茶オレの飲み残しのある蓋つきのホットタンブラーを片付けながらそう思った。
“それが自虐的で良くないことだってことは、山ほど知ってても無自覚のうちにそうなってしまうのだとしたら…”
と、光は卓上にグラスが作った円いコップの濡れた輪っかを拭きながら思った。

“きっと亜希子さんも人知れず苦しんでいるに違いない…”

厨房で増えてきた客のためにどんどん飲み物や簡単なデザートを作らないといけない光は、洗いものに加えてハードワークとなってゆき、やがてはヘトヘトとなった。
ドアベルが鳴るのに気づいて厨房から出た彼女は新規の韓国人らしき客の相手を拙い英語で店内での最低限守るべきルールールを簡単に説明すると、その横目でいつの間にか来店していた坂本瑞葉の存在に気づいてハッとした。

『いらっしゃってたんですか?』

と声をかけようとしたが、光はついその足を止めた。瑞葉は亜希子の座るカウチの傍の猫の爪研ぎでボロボロの安楽椅子に座り、二人は光に背を向けるかのように何かを話し合っていた。
光はそれを見て有栖が以前言っていた言葉をふと思い出した。

“あのふたりはまるで共謀者”

光は、床を猫に無害の床拭き用スプレーを吹き付けそこいらを拭き掃除するふりをしつつ顔を寄せ合いひそひそと密談するかのようなふたりへと膝行(しっこう)しながら近づいていった。

『本当に弁護士なのかしらね』
と瑞葉が言う。
更に彼女はまるで囁くようにこう言い足した。
『ちょっと疑わしいわ』と言うといつの間にか有栖が淹れたのであろうミルクティーをひとくち飲むと彼女はこう言った。
『せいぜい行政書士とかあるいは…』
だが、周りの猫の鳴き声やお客の笑い声に紛れてそのあとは聴こえなかった。
再び聴こえた声はやはり瑞葉である。
『その事務所は本当に彼女の事務所なの?』亜希子が無言でがっくりと項垂れるように頷くのが椅子と椅子の間から見える。
『名刺も渡さないなんて…』
と瑞葉。
『それ…いったい何年間…』
そして再度壁にあるテレビから笑い声が響いて瑞葉の声はかき消された。
再び聴こえた声はこう呟くように言っていた。
『やり過ぎね、それは虐めよ』
瑞葉はそう言ってミルクティーを飲み終えたその口元を取り出したポケットティシューで軽く拭うとこう言った。
『完全に違法だわ』
その声はまるであの平素おっとりとして少し気の抜けた炭酸のように甘ったるい声と調子で話す彼女とは似ても似つかぬ別人のようだった。
『貴女に解らないと思って…』
その後の声がまた聞こえなくなり、また聴こえた声はこう言っていた。
『家裁が意外といい加減なことは有名なのよ、だからここへ電話をかけて』
ふたりは一層身を寄せ合い、声を潜めた為、光はふたりに気づかれぬよう、
いざり寄るように瑞葉の座る安楽椅子の大きな影の際の際までフローリングの拭き掃除に余念が無いふりをして接近した。
『一番いいのは直接行って…』
途切れ途切れに瑞葉の声が言う。
『多分送られてくるわ本当のことがね』その後、瑞葉はむしろ明朗な声になるとこう言い放った。
『私の勘がもし当たっていたらその人は家裁からクビになるか、
いずれにしても自分から辞めざるを得なくなる…』
クビという不穏な言葉にハッとした光は思わず低くしていた身を上げそうになったが、次いで亜希子の声が聴こえて彼女はその耳を思わずそばだてた。
『でもきっと次の人が…』
然し亜希子が話したのは僅かそれだけだった。
瑞葉は悔やしげにそれに答えた。
『それは私にもどうしようも…
一度つけると後見…』そこから先が聴こえなくなった。
同じ場所ばかり拭き掃除をする不自然さに他の客が気づかないかと光はひやひやしながらも、胸疼(うず)く好奇に勝てず彼女はさもその場に取れないシミがあるかのように雑巾で膝もとの床を執拗に擦(こす)り続けた。
ふと厨房でなく店内に有栖がいることに気づいた光は一瞬彼女に視線を放ったが有栖は、不満げなイタリア青年のガーくんをそっちのけにドイツからの若い男性観光客との会話に妙に盛り上がっていた。
そのせいか、今は有栖の好奇の目に晒されなくてすむ、と光は小さな胸で姑息に安堵した。
そんな光の耳に疲弊を色濃く感じる亜希子の暗鬱な声が力無く響いた。
『せめて補佐か補助なら…』
すると瑞葉がそれに同情した声を出しながらも『無理だわだってお母様はアルツハイマー…』再び聞こえづらくなったふたりの談話が長く続いた為、とうとう光は諦めてその場を立ち去ろうとしたが、その耳に最後に隙間風のようにふいに飛び込んできた瑞葉の声がこう言った。

『とにかくここへ、いいわね?
この電番号を貴女に…』

そう言った彼女の声が酷く怜悧に聴こえて光は物陰から思わず平素、よく見ることなどない瑞葉の横顔を盗み見た。
その全てのラインに優しい円味(まろみ)を微かにたたえた女らしい横顔は、まるで大仰ではなくさながら女神のように優しげに見える。
その優美でふくよかな唇の右端を一瞬わずかに吊り上げて彼女はクッ…と嗤った。それに連動するかのように彼女の座る周りに何故か黒っぽい空気が急に生まれ、その中で不思議なほど艶然とした声を出すと瑞葉はきっぱりとこう言った。
そしてその声は光には理解出来ぬもののどうしようもない高らかな愉悦に満ち満ちていた。

『自称弁護士はそれで一巻の終わりよ』

ふたりでの帰り道、光は思いきって坂本瑞葉のことを亜希子に聞いてみたくなったが、自分でも何故だかよく解らないままそれを訊くことが躊躇われた。
‘’聞くともなしにこんなこと聞こえちゃったんだけど…‘’
と質問をさりげなくぶつけてみてもいいかもしれないと思う反面、亜希子の当惑し切った顔が目に浮かぶような気がしてとてもじゃないが勇気が湧かなかった。

“弁護士?…後見人ってどういうこと?
亜希子さんについているってこと?”

その考えに独りで頭(かぶり)を振ると光は思った。
“いいえ多分違うわ、確か母親がアルツハイマーだからどうのこうのって瑞葉さんが言ってたもの…”

『光…?何考えてるの?』電車の中で吊り革につかまりながら亜希子は目の前でやけに沈み込んだ面持ちで座る光にそう訊ねた。

『えっ?ああ…』と光は虚ろな眼を上げると垂れ落ちてきた長い髪を冷たい指先で救(すく)い上げ、何故か真っ赤に染まっているであろういやに熱い耳にそれを掛けると思わずこう彼女はうそぶいた。  

『今夜のおかず何にしようかなって』

亜希子が入浴中、光は不器用な亜希子の為に彼女が持ってきたシャツやパジャマの釦(ボタン)付けをベッドの上でした。
アイロンがけが苦手でしょうがないからしたことがないという彼女にアイロンを当ててほしいものがあれば持ってきてと言っていた光は、亜希子の好む襟の大きめのシャツ類の襟や首周り、シワのよりやすい背中の辺りを重点的にアイロンをかけ、それが終わると釦が項垂(うなだ)れたように糸を引きぶら下がっているそのシャツに向かった。
チェック柄のもの、デニム地のダンガリーシャツと、浮き浮きしながらその草臥れた釦の糸を鋏で切ると針にしつけ糸を滑るように通し、彼女は得意の針仕事を次々と魔法のようにやっつけていった。
今夜は亜希子がカリフォルニアで覚えたというメキシコ料理を夕食に作ってくれた為、キッチンでほとんど暇だった光は食卓の上に置き忘れた携帯が鳴る無音の音にようやく針仕事を終えたタイミングで気がついた。
釦をつけ終わったネルのシャツをベッドに伏せるとキッチンへ飛んでいった光は携帯に姉の瞬(まどか)の名前を認めて思わずその顔がほころんだ。
『お姉ちゃん?』

『光?』

『お姉ちゃん今どこ?京都でしょう?』

『うんそう京都』

『ねぇ京都どう?お母さんがねえ凄く羨ましがってた、私も一緒に行きたかったのにって』

『さほど期待してなかったのに…
京都は凄くいいとこよ、ちょっと底冷えがキツいのが難だけど』

『京都寒いの?でも私たちは寒さには慣れてるじゃない関西の寒さなんて大したことじゃないでしょう』

『それがそうでもないのよ、驚いたわ』と姉は東北は雪が降るからかえって寒さに麻痺的な円みがあるのだと語った。
こっちのほうが寒気に尖りがあるから芯まで冷えるような気がする、もう春なのにねと姉は言った。

『それでもね桜吹雪舞う晩春の京都を独りで旅してると…お姉ちゃんこの古い街が日本だけでなく世界中の人々を魅了するのが…何でなのか…
なんとなく解った気がする…』
そう言ってひと呼吸置いたあと瞬は言った。
『今度は秋に来たいな…
春より秋のほうがより京都らしいって聞いたから』

『誰に?』無自覚に思わずただ聞いてしまった光だったが、瞬はそれには答えず、一瞬予期せぬ変な沈黙が流れた。
その後、沈黙となってしまった場の空気を取り繕うかのように姉はこう言った。

『…京都のお土産、光に買って帰るから…楽しみにしてて』

『お姉ちゃんあと何日くらい京都に滞在するの?今、ホテル?』

『うん…ホテル』
だがその声はどことは無しに元気が無い、そう感じるのは考え過ぎだろうか?と光は思った。

『まだ京都を旅行したいけど…
他にも足を伸ばしたいとこがあるから…
まだ帰るのは少しだけ遅くなりそう』

『足を?どこへ?』光はついつい質問攻めとなってしまう自分を抑えようが無かった。
『大阪とか…神戸とか?』“そうだよ”と姉に言ってほしい何故だか不安な自分が居ることに光は気づきながらも、きっとそうだと決めつけようとする自分も同時に光の胸の中に居た。
だが姉の答えはそんな光に意味不明の落胆を与える、まるで嵐の前の鎮けさのような不穏さに満ちていた。

『…いつかこの事については、話せる時が来たら光にはちゃんと話すね…でもこのことはお母さんたちには内緒よ、
お姉ちゃんは京都へ旅行に来ただけってことにしておいて、
お父さんやお母さん達によけいな心配をかけたくないの…』

『お姉ちゃん…やっぱり京都だけが目的じゃなかったのね』そう言ったあと、瞬が何か言ってくれることを願って暫く光は黙ったが、続く沈黙に耐えきれずに彼女はまるで絞り出すような声でこう訊ねた。

『ねぇ!教えてどこへ行くの??』

『あのね光、京都へはお姉ちゃん本当に来たくて来たのよそれは本当だから…
それに京都へ来てよかったと思っている、ここへ来ないまま一生いたなら…
きっとお姉ちゃん後悔したと思う』

『…何があったの?京都で…』
私は考え過ぎなんだろうか?と光は思いつつもいくら指で抑え込んでもその隙間から否応なく汚水のように滲み、溢れ出る灰色の疑惑に彼女はヒリヒリする思いを昂ぶらせていった。

『何も…
京都はそれだけ魅力のあるいいとこだっていう意味よ、他意なんて無いよ』

『お姉ちゃん…』
光は遅れて感じる鈍麻された痛みの如く今更自分に追いすがってきた悲しみに囚われたような孤独な気持ちとなり、
こう言わずにはいられなかった。

『お姉ちゃんも同じね…誰も私に本当のことを言ってくれないのね私はもう…』
と光は今にも溢れ出そうな涙に拮抗しながら無理矢理冷静な声を出すとこう言いつのった。

『愛する人に何か打ち明けられたって目茶苦茶になるような…そんな子供じゃないのよ』
姉は何かを言いかけてやめたのが電話口でもその息づかいで解った。

『だから本当のこと言ってほしいのお姉ちゃんはいったい…』
すると「ここに置いておくね」という誰かの声が電話越しにも遠く聴こえた。
すると瞬が一瞬、電話に手をかざしたのであろう、突然音声が何も聴こえなくなった。

『お姉ちゃん?』

『ああ、ごめん、光また電話するから』

『お姉ちゃん今誰かと一緒にいるの?』そう訊いた勢いで沸いてきた疑惑に光は思わずこう口をすべらせた。

『そこ…本当にホテルの部屋?』

するとさっきの見知らぬ女の声が再び微か遠くに残像の如く聴こえた。

「誰?妹さん?」

『お姉ちゃん!?』とその声に呼応するかのように光が思わず声を上げると瞬はこう言って電話を切った。

『誰もいないよ、テレビの音じゃない?
じゃあお姉ちゃん疲れててもう寝るからまたね』
不安でたまらなくなった光は、亜希子が早く入浴を終えて出てこないかと気が急(せ)いたが、そんな彼女の脳裡をあるひとつの言葉が蘇り、やがてそれは鳥の飛翔のように再び光の真上をかすめると、光の心に濃い影を落とし見知らぬ遠い空へと横切っていった。
それは有栖の言葉だった。

〝ふたりはまるで共謀者〟

その言葉は光の中にまるでぞんざいな投石による波紋のようにいついつまでも鎮まらなかった。
その波紋に軽い目眩と酔いを感じつつ光は思った。 
『亜希子さんにも“それ”は居て…
お姉ちゃんにも“それ”は居る…
“それ”はきっと…』
と光は急に途轍も無く深過ぎる孤独に四方八方、まるで壁のように取り囲まれる思いに襲われた。
光はそんな自分の躰をそっと自分で抱きしめたが、その無意識の挙措は決して彼女を慰めることはなかった。
そして何故そんな言葉を口走ってしまったのかその理由(わけ)も解らぬまま彼女はいつの間にかこう独りごちていた。

『…優しい共謀者たち……』






to be continued to episode-20th


いいなと思ったら応援しよう!