連載小説『恋する白猫』第弐拾五章・アンクレット
グランパレスから出て瞬(まどか)は駅へ向かわず、駅付近のネットカフェに泊まることにした。田舎で娯楽が少ないのであろう、近くに隣接するカラオケ同様、比較的大きくまだ新しい雑居ビルの上層にそれは在りちょっとしたビジネスホテル並みの明るくクリーンな内装で、いかにもまだ建って間がないという感じだった。
この街の若者は恐らくこういった駅の周辺界隈にしか乏しいプレイゾーンを見いだすことは出来ないのであろう、
瞬は鍵つきの完全防音個室を選び、そこで一晩明かすことにした。
だがまだ身体の震えが止まらない、
あんな奴に逢いに来たんだはるばると…
あれほど麻美が止めたにも関わらずどうしても父の顔を見てみたかった。
どんな人間かこの目で見たかった、と瞬は思った。麻美が執拗に父のもとへ行くのを止めた理由が今なら解り過ぎるほど解る。
姉を傷つけるだけでは足りなかったとでもいうのだろうか?
『…あのバケモノ!』
瞬はそう独りごちると胸と背中を痙攣的に波打たせてまるで嘔吐する時のように目の前のパソコンのキーボードに両手と顔を伏せると防音個室ということも忘れて声を殺して忍び泣いた。
誰かに抱いて欲しいと彼女は思った。
誰だっていいのだ、とても苦しい、
この逃げられない苦しみから逃げ出したい、苦しんでいるこの肉体を要らなくなった服のように脱ぎ捨ててどこか遠くへ鳥のように天高く飛んでゆきたい、
そして地上の人間たちから見てさながら豆粒のように遠く小さくなり、
そのまま燃え尽きて消滅するのだ
その運命(さだめ)が来た名もなき星のように…
瞬は泣きながらリクライニングチェアを倒してそこへ横向きになり、まるで椅子にしがみつくようにして浅い不安な眠りの中を沈んだり浮き上がったり夢の水面(みなも)を浮き草のように半分意識があり半分ない状態で漂った。
そしてその夢の中で彼女はかつての現実の中へとタイムスリップしていた。
いつもは車で通り過ぎるその駅近い高架下を、その日彼女は妹が実家に置いていった原付きバイクを飛ばして母親の買ってきて欲しいものリストの袋と共にその帰途を急いでいた。
運転しながら彼女は何か影と共に鳥のようなものが上から降ってくる気がして思わずバイクを急停止した。
たとえば車なら鳥が自らフロントガラスにぶつかってくる、あの超常現象的な予感と、胸騒ぎとに釘付けにされ、思わず心の中で佇立するように瞬はハンドルを強く握り締めた。
やがてそれははっきりとした重みをはらんだ湿度ある固体物の影として大きく放物線を描くように降ってきた。
だが停車したままフルメット越しにそれを見上げる瞬にはそれは何故かスローモーションで弧を描くかのような奇妙であり得ないスピードに感じられた。
にも関わらず、それは彼女の視界の直ぐ傍まで入った途端、急に現実的な重力と湿り気を持ってグシャッという音と共に目の前のアスファルトの上へ崩れ落ちた。
そしてそれは明らかにマネキンの足だった。白いマネキンの足首が何故かは解らぬが上から瞬の目の前めがけて降ってきたのだ。
マネキンの足ではあるが、彼女は慄然としてバイクにまたがりエンジン音を低く唸らせたままその足を凝視した。
『うわ、またどっかに引っかかってたのが落ちてきましたよ、もうこれで終わりだと思ってたのに高架の防音壁を越えたり、その隙間からもあっちにもこっちに飛び散ってる』
という男の悲鳴とも怒号ともつかぬ、
やり切れないといったような声がして、瞬は思わず声のするほうを振り返った。
『まだ降ってくんのかなぁ…
凄い勢いで吹き飛ばされたら女の身体なんて軽いから切れ切れになってあっちこっちに飛び散ることがあるんですよ、
…まったく迷惑な話だ!』
そう言った年輩の男は駅の職員の制服を着ている。高架下では駅員ふたりに警官たちが六名くらい立っていてその背後では赤いパトライトがあの回転灯特有の不穏さを辺りに発散させながら規則正しく回っていた。
男たちは無表情に話し合い、その足元にはくすんだ銀色のアルミバケツがあった。遠目にもバケツの中には灰色と淀んだ白っぽい薄緑いろに見える粘土細工の人形のあらゆるパーツが溢れているのが見える。
ひとりの駅職員は警官から職務質問に答えている様子で、もうひとりの若い三十代くらいの駅員はあちらこちらから路面に飛散したマネキンの身体の一部を空き缶を拾うようにトングで摘まんではアルミバケツの中へ集めていた。
茫然とする瞬の前で彼らの話し声が否応なく聞こえてくる。
警官がピーガーと鳴る無線をそのままに、年輩の白髪の駅員に言う。
『上はもっと惨状だろうね』
『ええまぁそうなんですけど…
下のほうまでこんなになるとは…
参ったなぁ…まったく』
白髪の駅員はそう言って舌打ちをした。
『あんまり人に見られないうちに早く拾い集めちゃって』
警官からそう言われつつ年輩の駅員から一人でこき使われている様子の若い駅員が手首だの、いったい何か判断のつかないものを次々トングて摘まみ上げてはせっせとバケツへの中へ入れてゆく。
やがて彼は瞬の目の前に在る足首に気がつき『あっ!』と言って一目散に駆け寄ってきた。
『すみません、いやなものを見せてしまって』と、彼は蒼白となっている瞬に向かって帽子を脱ぐとその頭を深々と下げてこう言った。
『おねえさん大丈夫ですか?』
『………これ…なんですか?』
『事故があったんです、飛び込みです
ちょうどこの真上の駅の線路で…』
『………』
『本当にまれなんですけど、こんなふうに上の線路から下にまで飛び散ってくることがあるんです、ご遺体の一部が』
『ご遺体…の一部…』
息をつめたまま瞬はその足首を見つめた。足首は靴を履いていなかったが足首で折る白いソックスを履いていた。
そのソックスは奇跡的なまでに純白で、断面が瞬のほうを向いていないせいもあり、その足首は小さくまるでそこに小動物が居るかのように可憐ですらあった。
『今すぐ撤去しますので』そう言いながらも疲弊が色濃くその顔貌に現れた駅員はその蒼白いこめかみにじっとり脂汗を浮かべつつ、ほんの数秒、震えながら足首に向かって手を合わせるとトングを使ってそれを掴み取ろうとした。
するとソックスだけがトングの先に引っかかり、中の足首が素足となって瞬のすぐ足元までごろりと転がり落ちた。
瞬はその白墨のように白い足首をただ見た。
酷く無感情に見た。
その小さく尖った形の良いくるぶしにある藍いろの「星」を見て瞬の中で時が止まったような気がした。
どこかこの付近の遮断器の音が鳴るような気がしたが、それは幻聴だったのかもしれない、
瞬の脳裏に最後の日に逢った麻祐子の声がたった今目の前にいるかのように蘇った。
『瞬(しゅん)ちゃんを愛しているわ!
それは嘘じゃない!』
そう言うと麻祐子は麻祐子の命令のとおり口髭をつけ男装をしたままベッドに座って頭を抱え、項垂れている瞬(まどか)をドレッサーの前で烈しく振り返った。
麻祐子は荒々しく髪を梳かしながら、
『でもこのまま私たちずっとこんなんでいられる?』
麻祐子は母親から譲り受けた彫り込み細工も美しい重い銀の背のブラシで、その艶のある豊かな髪を梳かしていたが、急にそのお気に入りのブラシを鏡台の机の上へ投げつけた。
天板の上に林立していた化粧水や乳液の瓶がいくつか横倒しとなったが、それには頓着せず麻祐子は淡い檸檬いろのベビードール姿で瞬のもとへと駆け寄った。
『そんな顔しないで、瞬(まどか)!
まるで私が虐めてるみたいじゃない、
そんなことないでしょう?あなたもけっこう楽しんだはずよ?』
『楽しんだ?』瞬は自分の隣りに座る麻祐子を涙ぐんだ瞳で睨みつけると震える声でこう言った。
『よくもそんな酷いことが言えるわね?私は本気だったのよ!
じゃなければ何が嬉しくてこんな格好してあげてると思ってるの?
麻祐子がそうして欲しいと言ったからよ!』
『ねぇ怒らないでそんなに怒らないで』落涙する瞬がその横顔を背けた瞬間、
麻祐子はその顎をつかんで自分の前へ引き戻すとその涙に濡れた唇に口づけた。
『ねぇどうか解って、私たちもうこれで終わりなの、そうしたほうがいいのよ!だってママが私に結婚して欲しいって言っているし、私もママやパパを早く安心させてあげたいの』
次々沸いてくる情けなくて恥ずかしい涙を抑えきれずに瞬は常識人で薄情な恋人を振り払うように立ち上がった。
麻祐子はそんな瞬の手を掴むと、
『瞬(しゅん)ちゃんだって解るでしょう?私たち十代からずっと愛し合ってきたけれど…』と麻祐子は急に涙声になると叫ぶようにこう言った。
『もうふたりとも三十代なのよ、四十路だってもう遠くはないわ!』
『だから?』と掴まれた手を振り切ると瞬(まどか)は冷たく言い放った。
『だから何?』そう言いつつも彼女の頬をやるせない泪が止めどなく伝う。
『泣かないで、貴女が泣くと私も苦しくなる…』と麻祐子は顔を歪めると、
『いいわ最後に私のこと好きにして頂戴、でも解って、私たちこれで終わりなの』と言って彼女は薄いシフォンが何層にも重なったベビードールの裾がはだけるままにまかせてベッドの上へさも自堕落げに横たわった。
その引き締まった小さな足首にキスの雨を降らせながら瞬はふと麻祐子の胡桃のように可愛らしいくるぶしの骨を取り囲むアンクレットを模したオリオン座の三つ星のようなそれを見た。
二十歳の時、瞬が止めたにも関わらず親にも内緒で入れたタトゥーの星のアンクレットだ。その星に口づけし、冷たいペディキュアの爪先に奴隷のように頬ずりするうち瞬は息も絶え絶えとなってやがてその場に泣き崩れた。
その瞬の髪を優しく撫でながら麻祐子の声も濡れたように震えている。
『私も嫌なの…結婚なんて本当は…
彼のことも好きなんかじゃないわ、
貴女だって知ってるでしょう?私が好きなのは瞬(しゅん)ちゃんだけ』そう言うと麻祐子は両耳を押さえながら立ち上がり悲鳴のような声を上げた。
『ああ、どうしたらいいの』そう言って麻祐子は天井を振り仰いだかと思うと鏡台の机の上へ突っ伏した。
『どうしたらいいのか解らない、
私だって本当は貴女と離れてなんか生きていけない!結婚したってきっと思い出すのは毎日貴女のことだけ』
肩を震わせてすすり泣く麻祐子に瞬は言った。
『…逃げようふたりで、どこか遠くへ』『無理だよそんなの』
『逃げられるって麻祐子のためなら私すべてを捨てられる!』
『すべてを?じゃあ…光(みつる)ちゃんは?』
と、麻祐子は瞬を振り返ってそう言った。
『………』
急に言葉につまり、視線を落とした恋人に麻祐子は更にこう言いつのった。
『妹のこと本当に捨てられる??』
『……』何も言えない瞬から顔をそむけ、麻祐子は鏡台の上のティッシュペーパーを一枚引き抜いて鼻をかむと急に低い声で艶消したようにこう言った。
『もうすぐママが帰ってくるわ、
瞬(まどか)一度家へ帰って、
こんなとこ見られたら大変よ私たち』
『……今夜まゆに電話する、
絶対出て!いいわね?ふたりで明日私の車でこの街を出るのよ、
ここではないどこか遠い見知らぬとこへ行くの!その為に今夜電話でこれからのことを話し合うのよいいわね?
8時に電話するから必ず出て!」
『大丈夫ですか?』
心配そうな駅員の声に瞬は急に現実に引き戻され、咄嗟に酷く明るく微笑んでしまった。
『ええ大丈夫です…』そう言うと未だ鳴り続けるアイドリングの中、彼女は遠くのバケツの中に積み重なるまるで今の自分の顔のように蒼白い肉の欠片を見つめながら駅員にこう訊いた。
『今日の何時ごろ…その…飛び込み事故は起きたんですか』
『…まだ我々のほうもはっきりとは』
そう答えながら青年も色蒼醒めたその額ににじむ汗を白い手袋を嵌めた指先で軽く拭うと『でも…泣きながらホームを行ったり来たりしている女性がいるからと僕らのほうにもお客様からお声をいただいて…急いで様子を見に行ったんですが…間に合わなかったようで』
その後の沈痛な沈黙を急につん裂くような渇いて傷つかない防水布のように堅牢な警官の声が飛んできた。
『ちょっと君!そんなとこでそんなもの持ったまま立ち話してんじゃないよ、
早く戻って!サッサと仏さん全部片づけちゃって』
『あっ…はいすみません』
そう言い返すと彼は瞬を振り返り、こう小声で囁いた。
『もうこのことは忘れて…早くうちへ帰っておうちの人と何か温かいものでも飲んで…テレビ見たりして』
彼はまるで瞬を憐れむようにこう言い足した。
『忘れられないでしょうけど…なんとかこのことはもう忘れて』
『田中くぅん!早くこっち来て』先輩の駅員からも叫ぶように呼ばれて彼は制帽を被り直すと『じゃあ僕はこれで、運転気をつけて!』
汗みずくとなって瞬はリクライニングチェアの上で引き攣ったように目が覚めた。
身を起こして座ると彼女は顔を覆って再びむせび泣いた。
『ああまゆ…ごめんなさい…!
どうか私を赦して…あの夜の電話で私は貴女を脅したわ、結婚の決意が変わらない貴女のことが憎かった…
愛しているのに憎かったの、
結婚式に行って何もかもぶちまけてやるって…
ふたりの仲を滅茶苦茶にしてやるって…でも怖かったのは貴女だけじゃない、
私も貴女を失うのが怖かった、
貴女を失うくらいならたとえ刺し違えてでも貴女を私だけのものにしたかった!』
ひとしきりキーボードのある机の上で泣いたあと彼女はそっと百均で買ったビニールの小袋ふたつに入った二種類の毛髪をコートのポケットから取り出して眺めた。
これを明日にでも東京へ送ってDNA検査をしてもらえばいい、
ああでも…と瞬は思った。
あの寝室、あの…と彼女はその顔を長い指で覆って泣き伏した。
間違いない、あの怪物は間違いなく私の父だ!何もかもがまるでわたしの部屋だった、
そして彼は私で私は彼でもあった。
苦しい、我慢出来ない、こんな不安と恐怖の只中から私はあの忌まわしい血の流れる肉体というこの牢獄に縛られて苦しみから抜け出すことすら叶わない、
彼女は外廊下に出てウォーターサーバーから氷とペリエをなみなみとつぐとふと何やら視線を感じて振り向いた。
自分よりやや離れたところに年下の若い男が立っていた。
特に目立つとこのない特徴という印象をすべからく拭い去ったかのような平凡な男だ。彼はじっと紙コップを片手に立ち尽くしていたが、瞬と目があうと臆病風に吹かれたかのようにその目をそらした。
そのくせ、再び彼女のことを物珍しげに見つめると卑屈な陰を滲ませるその口元にまるで河口に泡立つあの水の濁りのような笑みを浮かべた。
苦し紛れに瞬は微笑むとペリエをゆっくりと飲み干した。
そして濡れた唇を猫のようにそっと薔薇いろでやや尖った舌先で舐めると「ついてこい」と言わんばかりの腰つきで身をよじり、男に背(そびら)を向けた。
男は一瞬迷いを見せたが瞬がゾッとするほど凄艶な笑みを浮かべてもう一度肩越しに振り返ったのを見て、彼は手にした紙コップを傍の卓上へ起き、意を決しながらもどこか臆病な犬のように彼女のあとを尾いていった。
瞬の部屋の扉が幽かなカードキーの音をたてて開いた。ふたりは同時にぶつかり合い互いの身体をまさぐり合いながら生臭い口腔を舐め回しあった。
瞬は机の上からキーボードを床に払い落とし、男はそれを合図に彼女の腰を掴んで持ち上げ座らせた。男は最初怯えたように震えていたがだんだん呼び覚まされたように一挙手一投足が烈しさを増してゆく。ふたりは摩擦で火がつきそうなほどの荒々しい動作で互いの服を慌ただしく脱がせあった。
舌を絡め合い、やがてその舌と唇とが瞬の首筋と肩へと這いずり回る、
電流のような虫唾が走るのを感じて瞬は思わず声を上げた。男の髪を荒々しく撫で回しながら瞬は麻祐子の髪の匂いを思い出して狂いそうになった。
乳房を揉みしだかれ瞬は悲鳴を噛み殺すような喘ぎを上げた。
それを聴いた男は思わず顔を上げ、ごめんよと囁くと今度は優しく乳首を吸い、何度も舌先で転がすような愛撫をした。互いの乱れた吐息でいっぱいになるその蒸れた小さな室(へや)で瞬はいきなり男の髪を掴んでその顔を自分に向けさせると優しく脅すようにこう囁いた。
『いいの、私今…やりたいの、めちゃくちゃになりたいの』
『いいよ、せっかくのリクエストだ、
君の言う通り滅茶苦茶にしてやる』
青年はそう言うとまだ震える手で不必要に音をたてながらベルトを慌ただしく外し始めた。
すると瞬がそれを嘲笑うような声を出し男は思わず彼女を見た。
すると瞬は憐れむようにこう言った。
『でも…私病気持ってるの』
『えっ…病気?』ベルトを両手で持ったまま男はしばらく茫然自失と立ち尽くしていたが、やがて気を取り直したようにその悪い夢の中からこう女に試問した。
『…本当に…病気持ってるの?』
『そうよ怖い?今流行ってるでしょう?』と瞬は敢えてにっこりと微笑んだ。
『淋病なの私』
『そんな…嘘だろう…ここまで誘っておいて…』
青年は猛烈な怒りがまるで吐き気のようにこみあげるのを感じたが目の前で急に自慰を始める瞬のあられもない姿を見て彼の怒りは塩を打たれたナメクジのように見る見るどんどん小さくなっていった。彼は独り盛大に喘ぐ女を前に何も出来ずにただ固唾を飲んでその姿を切ないような淋しいような気持ちで凝視するよりなかった。
豊かな濃蜜が健やかな襞の狭間から、まるで喜んで仔犬が水を飲む時のようなあのぺちゃぺちゃというまるで無垢みたいな可愛らしい音をたてる。
男の目から決して照準という正確な視線を外さない彼女は「私が髭をつけたらこの男はいったいどんな顔をするだろう」と思った。
その間も瞬は徐々に行きたいところへ近づいてゆく、
階段を駆け登り、一気呵成に高みへと登りつめそうだ。まるでピアノのトリルを奏でるようにこれ以上指が動かないほど煌めきを極みへと突き詰める。
両脇の壁に音をたてて脚を突くと彼女は不敵に、そしてどこまでも艶冶に男を置き去りにした。
やがて彼女は黒い液晶パネルを背にまるで投げ槍な様子で独り果てた。
『…どうしたの?』と瞬は小首を傾げ、わざと可愛らしい声を作るとこう言った。
『しなかったのね、
病気なんて移るも八卦、移らないも八卦なのに…セックスなんて占いと同じよ』
男の股間は明らかに布地とファスナーを窮屈に押し上げていてとても辛そうだ。
彼は悔しまぎれに『淋病なんか移されたらたまったもんじゃないよ!』と言いながらベルトを締め直したかと思うと、
その身を翻(ひるがえ)し出ていきそうになったその振り返りざま、瞬の頬に狭い空間に反響する音と共に強烈な張り手を食らわせた。
机の上へ壊れた機械の残骸のように横倒しになった瞬は傷む躰でゆっくりと起き直り、切れた唇から滲み出る血を指先で拭いつつこう言った。
『この部屋って録画されてるって知ってた?』
『…嘘だ、嘘に決まってる』
『だってここの店長私の兄貴だもん』
独りになった瞬は毛布に包まりながらパソコン机の上に座ったまま、まるで笑い袋のように嗤い続けた。
同時に涙が止まらない
‘’ああ、麻祐子!
あのタトゥーのアンクレット…
可愛かったあの足首、
あのまま拾ってフルスロットルで逃げ去ってしまえばよかった、
そしたら私のベッドの下で貴女の足首はゆっくり安心したように朽ち果てていっただろうに…‘’
その日の夜、何故か瞬は久しぶりに夢も見ずに深くぐっすりと眠ることが出来た。
眠りに落ちるその瞬間、ふと誰かの冷たい唇がそっと瞬の閉じた瞼に触れたような気がした。
そしてよく夢に見るあの深い湖の底で彼女は毛布に包まれた今の姿のまま眠っていた。
しかしその夢の中で彼女は独りじゃないと感じた。
そして水を揺らし瞬の中に波紋のように響くその声を彼女は喜びの泪を浮かべながらただひたすらに聴いた。
『おやすみなさい…私の貴女…
私だけの貴女…愛しているわ、
…もう誰にも渡さない』



