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政治不信ではなく、“議員不信”を正しく記録する──ある地方議員とのSNSでの違和感

投票率の低さを“放棄”と決めつけた投稿に違和感。対話を掲げるなら、意見にも向き合ってほしい。


とある地方都市の議員がSNSでこんな投稿をしていました。

「今、国民の60%が投票に行っていない。ということは、どんなに生活が苦しくても、税金が上がっても“お好きにどうぞ”ということなんでしょうか?」

この投稿を読んだとき、胸の奥がざわつきました。
選挙に行かない人への失望や怒りは分からなくもありません。ですが、発信者は市民に選ばれた立場の“公人”。その責任ある立場から、「お好きにどうぞ」と突き放すような表現を使うことに、強い違和感を覚えました。

私は冷静に意見を返しました。

「その発言には、市民を見放すような冷たさを感じます。私自身は選挙に行き、社会課題について考え、発信もしています。傍観者でいるつもりはありません。ただ、“どうぞお好きに”という物言いには違和感がありました。」

他にも数人の市民が丁寧な言葉で返信をしていました。
ところが——。
議員からの反応は一切なし。数時間後には、その投稿自体が削除されていたのです。

「質問です」と言っていたにもかかわらず、コメントに返答もなく、まるで“なかったこと”にするかのような対応。
私は思いました。
これは、対話でしょうか?

その後、「noteに一連のやり取りを書いてもよいか」と丁寧に確認したところ、「お断りします」とだけ返信がありました。そこに理由は書かれていませんでした。

この出来事を通じて、改めて感じたのは、議員という存在の「質の劣化」です。

もちろん、すべての地方議員がこうだと言うつもりはありません。
実際、私は他の市で地域の課題を話し合う場に参加した際、住民の声にじっくり耳を傾け、対話の必要性を強調する議員にも出会いました。

しかし、今回のように「対話を掲げながら、異論や批判からは目を逸らす」議員が存在するのも事実です。
それも、SNSという最も“市民の声”がダイレクトに届く場で。
選ばれた立場にある人が、反応を一切せずに投稿を削除する。
意見表明を求められても、「お断りします」の一言だけで終わらせる。
果たしてそれが、「公人としての矜持」と言えるでしょうか?

【議員数は本当に必要か?】

私は以前から、国会議員・地方議員ともに「数が多すぎる」と感じています。
・何かあれば「会派で決まったことなので」と個人の判断を回避。
・本来は地域に根ざすべき地方議員が、SNSでの情報発信すらおざなり。
・市民の声に耳を貸す時間より、自己保身や無難な対応に費やす時間のほうが多い。

議員が多ければ多いほど、市民との距離が縮まるわけではない。むしろ責任の所在が曖昧になり、「誰に期待しても変わらない」という空気だけが広がっていくのではないでしょうか。

議員の定数削減と報酬見直し、そして定期的な市民との対話機会の義務化のような制度改革は、今こそ必要です。

【傍観者にならないために】

私は、この経験を通してなお、政治に失望はしていません。
むしろ、だからこそ「まともな政治をあきらめないために書く」という決意を強くしました。

SNSはときに誤解も生みますが、それでも市民が声を上げられる貴重な場であることに変わりありません。
公人の態度に疑問を持ったら、そのままにしない。
発信し、記録し、共有する。

その積み重ねが、きっと少しずつ「政治の質」を変えていくはずです。

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