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短編連作「静けさのかたち」より第一話『鳥のいない鳥籠』

「この物語には、誰にも聞こえない音がある。」


【1】はじまり

古びたアパートの三階、南向きのベランダ。
風が吹くたびに錆びた手すりが軋む音がする。そこに、ひとつの鳥籠がある。

籠の中には、もう何もいない。
いや、最初から、いたのかどうかもわからない。
姉が亡くなった日、その籠は窓際にぽつんと置かれていた。小さな丸い影が、床に落ちていた。

私はその影ごと、引き取った。



【2】音

その日から毎朝、私は「音」で目を覚ますようになった。

きい、きい、という微かな金属音。
それは風が鳥籠を揺らして鳴らす音ではなかった。
もっと奥から、もっと深く、もっと内側から鳴っていた。

それは…鳥の声だった。
かすかに、籠の中で羽ばたくような音。
喉を震わせるような、掠れた囁き。

けれど、目を開けても、そこに鳥はいない。
籠の中は空っぽだ。何度覗き込んでも、ただの静寂があるばかり。



【3】姉の記憶

姉は、あまり喋らない人だった。
何か話しかけても、返ってくるのは「うん」か「そっか」くらいだった。
でも、小鳥と話しているときだけは違った。

「あなた、寒くないの?」「この歌、好き?」
姉の声が柔らかくなるのは、あの小さな黄色い鳥に向かっているときだけだった。

私は、少しだけ嫉妬していた。
鳥が死んだのは、たぶん、数年前の冬だった。
でも姉は、籠を捨てなかった。
そして、自分が死ぬその日まで、ベランダの窓際にそれを置き続けた。



【4】録音

ある日、私はスマートフォンの録音アプリを起動した。
夜中、部屋を暗くし、窓を少し開けて、音を待った。

きい、きい。

録音はできていた。でも、それはただの風の音にも聞こえる。
けれど…私には、それが「囁き」にしか聞こえなかった。
どうしてだろう。音は録れているのに、「誰にも聞かせたくない」と思った。
この声は、私だけが聴いていいものだ、と。



【5】語られない言葉

その夜、夢を見た。
鳥籠の中に姉がいて、静かに歌っていた。
言葉ではなかった。ただ、羽音のような、呼吸のようなメロディだった。
籠の鉄線に、姉の指がそっと触れていた。
私は夢の中で「出てきて」と言ったが、姉は微笑むだけで、何も言わなかった。



【6】再生

夢から覚めたあと、私はしばらく動けなかった。
まるで体の奥に、羽毛が一枚、そっと入りこんでしまったような感覚があった。
手を胸にあてると、音がした。きい、きい——。いや、それは心臓の鼓動だったかもしれない。

朝になっても、私は鳥籠を見なかった。
音が鳴るかどうかも、確かめなかった。
けれど、その日、私は録音した音声を初めて再生してみた。

再生ボタンを押すと、数秒の無音のあと、かすかな音が聞こえた。
かちゃ、という金属の揺れ。
それから、ふっと、小さな呼吸のような音。

私は目を閉じて、それを聴いた。
何度も、何度も。
繰り返すたび、音は少しずつ、輪郭を失っていった。

まるで、最初からそこには何もなかったかのように。



【7】手放す

その週末、私は鳥籠を持って、公園の古道を歩いた。
姉とよく来た場所だった。昔、黄色い鳥を連れて散歩に来たこともあった。

ベンチの脇に小さな白い花が咲いていた。
誰も見ていないところで、静かに揺れていた。

私はそっと鳥籠をその前に置いた。
誰かに拾ってほしいとは思わなかった。
ただ、風のなかで、もう一度だけ音を立ててくれたら、それでいいと思った。

けれど風は、籠を揺らさなかった。
音は、鳴らなかった。

その静けさが、すべてを語っていた。



【8】そして、あとがきのように

帰り道、私はスマートフォンの録音アプリを削除した。
再生ボタンはもう、押さなかった。
けれど、耳の奥ではときどき、きい、という音が聞こえる気がした。

それは、きっと記憶の音だった。
姉が大事にしていたもの。
私が羨んでいたもの。
そして、今は、私だけが覚えているもの。

鳥はいない。
けれど、籠は、どこかでまだ風を待っている。
いつかまた、そっと、揺れるそのときを。

あとがき

音のないものが、いちばん深く残ることがあります。
それは、誰かの言葉だったり、まなざしだったり、あるいは、風に揺れる古い鳥籠のきしむ気配だったり。

この物語は、喪失と記憶の物語であると同時に、
“触れることはできなくても、確かに残る”ということを描こうとした掌編です。

姉という存在、鳥という象徴、空の鳥籠という沈黙。
どれも、語られなかったまま、でも確かにそこにあった「なにか」です。
そして、その「なにか」は、たぶん、読んでくださったあなたの中にある記憶とも、そっと重なってくれるかもしれません。

鳥はもういません。
けれど、鳥籠のなかで鳴っていた音を、あなたがほんの少しでも耳の奥に感じてくれたなら——それだけで、この物語は生まれてきた意味を持てると思います。

静かな読書を、ありがとうございました。

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