拝寿仁王参①~仁王信仰が盛んな江戸時代に仁王像が動き出すという黄表紙作品
一世を風靡したPLの花火大会がなくなり、野球部がなくなっただけでなく、PL学園の生徒数も減少しているとのニュースがあった。かつては各家庭に池田大作全集が並んでいた創価学会も選挙の集票力が激減している。宗教においてもはやりすたりがあるのだろう。
江戸時代にも、天明年間(1781~1789)から寛政(1789~1801)にかけて碑文谷の(目黒区経王山法花寺、現円融寺)仁王信仰が熱狂的な流行をみた。その流行を黄表紙も見逃さず題材としている。
黄表紙「拝寿仁王参」は、芝全交作、北尾政美画、寛政元年1789年、鶴屋喜右衛門刊の二巻二冊。
その現代語訳を二回に分けて紹介する。
上巻
序
仁王尊文尽略縁起
そもそも仏法守護の仁王尊というのは、かたじけなくも大仏から作った寛永通宝の一文を二文にし、仁王となり、三文(山門)の金網の中に住んで、ついに四文谷(碑文谷)の五文番(ご門番)となりたまう。六文のろうそくをともし、七文のお供えをそなえ、八文の紙人形を八日の縁日に流し、力士の九文龍(九紋龍)のように裸で立ち、十文の草鞋、十一文の足袋でも小さいとおっしゃり、よって仁王尊へのお供えには十二文が相場となっており、賽銭を投げれば、信心はおこたることなし。
とうみょうせんを あげさっせいましょう
ずっと酉の年のなんでも正月 芝全交坊 執事
一

さても第二十九代欽明天皇の御代、初めてわが国へ仏教が伝わりけるが、いまだ極楽世界は、今の極楽吉原遊郭のごとく、金銀瑠璃玻璃の宮殿楼閣、麝香瑪瑙の台所、琥珀のかまど、珊瑚のすりこ木、金の飯炊き菩薩八百人、銀の茶坊主如来七百人、珊瑚樹の生酔いの酔っ払い毎日千人ずつ、仏法僧と、ぶうぶう言うなぞと、阿弥陀経のようなうまいことではなく、ようやく中洲の地獄と呼ばれた女郎のいた跡へ、北方吉原の極楽が火事で引っ越し、普請もそこそこ、仮のすまいにてありけるが、また、そのころ、都に、運慶、湛慶、安阿弥という名人の仏師三人ありけるが、仏教が繁盛するために、さまざまの仏を作り、開眼して、方々へ仏を送り、金もうけをしていたが、あるとき、運慶が考えて、ちょっと強そうな仏を作ってみようと、仁王を二体作る。今、碑文谷にあるのが、すなわちこの像なり。
仏師「おめえが女郎で、こう腕に好きな男の名前を彫らせると妙だけれど、おれが男色の陰間ならどうだ、そうしたら尻をほらせるだろう」
仁王「おれも、こう彫られてみれば、にらみをきかせた歌舞伎の仙石屋、中村助五郎という身だよ」
二

運慶は、仁王を二体作り、魂を入れて、極楽で披露しけるが、世の仏と違い、身の丈六尺あまりの大男、そのうえいかつい風貌で乱暴そうな仏、この値上がりしている米をいくらでも食われそうだと、披露も途中でやめにして、運慶も、今さらこの二人に食わせる米も続かず、いったん入れた魂をとりもどし、ただの木像にするのも大変と、いろいろちょちょらの口からでまかせを言う。
そのとき阿弥陀の曰わく、
「いかにも、泥棒の用心にはよいだろう」
と、東門の番人をおおせつけられる。今の世でも、仁王は寺の門番として立っているのは、この因縁なり。
阿弥陀のそばにいる観音、勢至は、奥様、お妾のようなものなり。観音が吸いつけて火をつけた煙草は、心で拝んで吸うわいなとは、無駄なお話、それでも、みなみなありがてえともうしやす。
阿弥陀「こっちが三尊で、そっちが運慶と二体なら、阿弥陀の四十八の願いと四十八枚のめくり骨牌みたいだ」
と、わけのわからないことを述べたまう。
運慶「おそれいりやした」
三

仁王は、極楽の東門の番人となりたまうが、給料が安いので、小遣いにこまり、夜なべ内職に草鞋をつくりける。今も、仁王へ草鞋を奉納するのは、このためなり。しかし、とかく不器用で大きくつくるので、あまり売れるものでもなし。
これまでは、門の出入りは厳しく、仏や羅漢たち、夜遊びなんぞはできなかったが、仁王が門番になってからは、なんでもかんでも頼まれれば、やたらに「おうおう」とうけあうので、二人が「おうおう」と言うので、仏たちは「仁王仁王(二おう)」と名付けたまう。それまでは、二仏の中間、折介菩薩などともうしていた。
地蔵や薬師も、こそりこそりと夜遊びに出かけたまう。
仁王「今夜は頭の光る羅漢たちばかり、これで十六人だ。十六羅漢ならぬ十六薬缶だ」
右の羅漢「これを明日の朝まであずかってください」
地蔵「百文つなげた銭を二本でどうだ。通行料としては十分だろう」
仁王「仁王だけに二百はありがてえ」
四

仁王の二尊は、だんだん立身したまい、今は、門番の頭となり、東門の脇の長屋をもらい、一人ずつ当番と非番を交代して勤めたまうが、ここにまた、羅漢たちと仲の良い男芸者、減本腎虚太夫、三味線弾き、萎蔵という腎虚の男二人と、おえご、太吉という布袋さまのように太った女芸者二人、仁王がなんでも願いを聞いてくれると聞き、男二人は、「えっちのし過ぎで体力のなくなった腎虚をお治しくだされ」と願い、また女芸者は、内緒でえっちするとき、客のあつかいが悪く、そのうえ、「臼に布を巻いたようだ」と、根っから客が求めて来ず、「どうぞ、やせますように」との願いに、二人の仁王も迷惑したまい、いろいろ断りを言いたまえども、お百度参りをし、仁王に願いを聞いてもらうために、当時の風習であった、紙をかんで吹き付けては願いけるゆえ、しょうことなしに、まず「うん」と言いたまう。
仁王「腎虚する年でもねえす。もう、隠居してもいいくらいだ。
紙をかんで吹き付けるってお願い方はごめんだ。それに、なんだか臭い口があるぞ。おれの鼻は、ぷんぷんと仁王様だ」
腎虚太夫「太吉さん、芸者が内緒でえっちすることを『ころぶ』というけど、あんたらは、ころんで行くほうが早かろう」
萎蔵「腎虚と胃弱はおれの持病だ。治ればいいが」
五

仁王尊、いろいろ相談したまい、まず太った者には七日間の断食をさせたまえば、やせおとろえて、ほっそりとした柳腰となり、腎虚した者には、碑文谷の井戸の水をむしょうに飲ませたまえば、体内の興奮した火が消え、腎臓へ水がたまり、たちまち元気になる。また、鰻の蒲焼は腎臓の薬というけれど、それよりも馬肉の蒲焼は馬の陰茎が巨大なだけに、なかなか鰻よりは腎虚の者の精力回復にはよいだろうと、馬肉の蒲焼を食わせたまう。今も、仁王へお参りする者は、頭へ一本ずつ馬の蒲焼をまねた紙をさしているが、それはここから始まった。
芸者「スタイルはよくなったけど、食事をしなかったのでふらふらする。あれほど大きかったお尻は、どこへ行ったんだろう」
萎蔵「馬の蒲焼ははじめて食べます。馬だけあって、うまいうまい」
次回につづく、
仁王信仰では、健脚を願い草鞋を奉納したり、魔よけでわざと大きな草鞋にしたり、口でかんだ紙を投げつけて、仏像にうまく自分の患部と同じ場所に張り付いたら痛みがなくなるといわれたりした。また、碑文谷では、泊まり込んだり、七日間の断食をしたり、井戸の水を霊水として飲んだりもした。
黄表紙の始まりといわれる恋川春町の「金々先生栄花夢」(1775年)の現代語訳は、こちら、
黄表紙の代表作、山東京伝の「江戸生艶気樺焼」(1785年)の現代語訳は、こちら、
これらの中に、他の黄表紙の紹介もあるので見てほしい。
