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扨化狐通人②~稲荷信仰が盛んな江戸時代の黄表紙

 江戸時代に盛んだった稲荷信仰から、いろいろな稲荷神社を登場人物の名前とし、狐が登場人物の物語。
 「扨化狐通人さてもばけたりきつねのつうじん」は、伊庭可笑いばかしょう作、鳥居清長とりいきよなが画、安永九年1780、西村与八から刊行の黄表紙きびょうし、二巻二冊。
 その現代語訳(意訳)を二回に分けて紹介する最終回。

 

 

下巻

 森之丞もりのじょう真崎まつさきたのんでも金の工面くめんができず、それより、杉の森すぎのもり稲荷いなり(中央区)の方に住む、乳母うばのところへ行き、頼めば、せがれの富介とみすけ突次郎つきじろうというもの、男気おとこぎのある者で、森之丞もりのじょうをかくまい、だんだんのわけを聞き、いろいろと工夫くふうして、金の工面くめんにかかりける。
 
乳母「お気遣きづかいなされますな。あいつら二人が、なんとかして、ご出世させます。あいあい」
森之丞「兄弟の者よ、なんとか頼みます」
富介「私は、はばかりながら、おまえとは乳兄弟ちきょうだいとなるので、弟と心をあわせ、身をにしても金を工面くめんいたし、お宝を取りもどし、ご出世させましょう」

 


 富介とみすけ兄弟、ふと思いつき、当時、篠田しのだ稲荷からやって来た二人連れが膏薬こうやくを売っているのをまねて、人間にけて膏薬こうやく売りとなり、箱をかついで江戸中を売り歩き、森之丞もりのじょうの生活費とし、残りをためておくけれど、三百両という金はなかなかたまらない。
 
富介「篠田しのだならぬ信濃しなの稲荷いなり様の膏薬こうやく膏薬こうやく、とこせやコンコン」
子ども「あれあれ、また狐膏薬こうやくが来た」
 そのころ、自然とこの二人を「狐膏薬こうやく」とぞ呼びけり。

 


十一

 さても森之丞もりのじょうは、兄弟の世話にて金を用意すれども、なかなか集まらず、そのうえ自分が何もせず、二人に骨をらせていることをもうわけなく思い、いろいろ考え、人の多く集まる中洲なかす新地しんちに芝居を出し、役者に化けて金もうけをしようと思いつき、三人で相談し、看板かんばんを出し、故郷の松川村から、森之丞もりのじょう松川鶴七つるしちと名をかえ、兄弟は、たんぞう米松よねまつと名のり、ものまねを始めければ、物見高い江戸のこと、初日より見物がおおぜい入り、多くの金をもうける。
 
呼込よびこみ「さあさあいらっしゃい、三人の役者ものまね、始まりじゃ始まりじゃ」
 夏の夕涼ゆうすずみの人々、おおいにかされて、みなみな見物する。

 


十二

 さても、鶴七つるしち出てきて、身ぶりものまねの口上こうじょうをいう。
「このところ話題の、山下金作きんさく、大谷広次ひろじ、中村仲蔵なかぞう、この三人の身ぶりものまね、ごらんにいれます。まずは、はじまりはじまり」
と、太鼓たいこの音にあわせ、三人とも思い思いに化けて出る。
 
金作「新左衛門しんざえもん夫婦の者が、かように申しますに、たった一口、祐泰すけやすは、この祐経すけつねったりと、お名のりなされてくださんせ」
仲蔵「その方夫婦が忠義ちゅうぎめんじ、なるほど、兄弟がかたきは、この左衛門さえもん祐経すけつねと名のりてやりたいものなれども、河津かわづったは、股野またの五郎が相撲すもう遺恨いこんで、遠矢とおやをもってったわい」
広次「股野またの五郎景久かげひさ相撲すもう意趣いしゅとはいつわり、まことは所領しょりょうあだなりと」
 
見物「やんややんや。どうしてあのように似るのかな。やっぱり化け物ばけものだ」
見物「さてもけたり、さてもけたり、もう一幕見て帰ろう」
見物「次は市川団十郎のまねだが、これまた似ているようだ」

 


十三

 三人は、毎夜毎夜の大入りにて、四五百両もできたので、もはや正体を現わしてもいいだろうと、宝の二品を買い戻し、わびを入れて勘当かんどうを許され、三崎みさき祝言しゅうげんして、末永すえながく栄え、そののち官位かんいを得て、衣笠きぬがさ森之丞もりのじょう笠森かさもり稲荷、女房三崎みさき三崎稲荷大明神とあがめられ、多くの人がお参りする。
 
父狐「今では、あの子も風俗もやめたので、もう心配はない。娘よ、喜べ」
三崎「あいあい、こんなうれしいことはないわいな」
母狐「このような喜びはござらぬ」
 
 杉の森兄弟は、首尾よくわびもかない、白狐夫婦が機嫌きげんがいいのを見て、
「このたび、宝を取りもどしたごほうびに、宝の玉とかぎの名を、われらの家の呼び名にしてもよろしいでしょうか」
母狐「おお、やすいことやすいこと。いくらでも名のりなさい」
兄弟「ありがたき幸せでござります」
 
森之丞「いやもう、二人のおかげでござります。この金はこのたびの残り。お二人に進上しんじょういたす。なにかの元手もとでにでもなされい」

 


十四

 さても、杉の森富介とみすけは、いまだ暑さも去りかねる時節なので、ふと思いつき、玉を暖簾のれんに染めて、人間に化けて店を出し、花火屋をする。そののち、店は年々繁盛はんじょうし、だんだん金持ちとなる。
 そして思い出して森之丞もりのじょうと深い仲だった真崎まつさきたずねると、お金が準備できなかったことを苦にして、ついに亡くなったといううわさを聞き、大金を出して、真崎まつさき稲荷いなり大明神としてやしろを建て、今も参詣さんけいおびただしきことなり。

 


十五

 弟の突次郎つきじろうは、同じく化けて、兄の近所で同じ商売をし、暖簾のれんにはかぎを染め抜き、こちらも店は繁盛し、花火をあげれば、
「たまや~」
「かぎや~」
の声があがる。
 
 そののち、兄弟は官位を得て、杉の森稲荷大明神とあがめられ、毎月とみ(宝くじ)の興行こうぎょうありて、人々集まることは、みなさまご存じのとおり。
 
 いずれもとうとき稲荷様、通力つうりきのある神様から思いついて、「狐の通人つうじん」とタイトルをつけたり。
いのりたまえ祈りたまえ。 

 


 こうして有名な稲荷神社をならべ、ひとつの作品としている。
 単なる信仰だけでなく、杉の森稲荷でとみくじを発売していたように、寺社自身の商売も盛んだったようだ。また、花火見物が人気だったことも、この作品からよくわかる。 

 

 伊庭可笑いばかしょう(1747~1783?)は、天明(1781~1789)の初めに活躍し、黒本のような内容の、昔話や化け物ばけもの話を得意としていた。それがグロテスクにならなかったのは、絵師鳥居清長とりいきよながの筆力が大きく影響しているだろう。また、若くして亡くなっており、経歴も生没年もはっきりしない。三十作以上の黄表紙を残しながら、天明の黄表紙全盛の時代は知らずにいる。
 鳥居清長とりいきよなが(1752~1815)は、浮世絵鳥居派の四代目。鳥居派は、役者絵を得意としているが、鳥居清長とりいきよながは美人画を得意としていた。また、黄表紙の挿絵も多く描いていたが、伊庭可笑いばかしょうが亡くなったのと同じく、天明の時代から黄表紙から離れ、役者絵を中心とした鳥居派の仕事に比重が移っていったようだ。
 
 黄表紙の作者や絵師にも、いろいろな人物がいる。 


黄表紙「草双紙年代記」には、鬼の出てくる伊庭可笑いばかしょうの作品をまねた絵が描かれている(七場面)、

 

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