第154回「神は信じないけどお天道様はみていると思う」
私は宗教とは無縁の、
普通の日本人。
宗教とは無縁すぎるがゆえに、
クリスマスだろうが、
お盆のお墓参りだろうが、
葬式だろうが、
なんの想いも持つことはない。
ただのイベントであり、
それ以上でも以下でもない。
だから宗教を重んじる人たちの気持ちが、
あまりよくわからない。
よくわからないからといって、
別に口出しもしない。
そんなのは、あたりまえのことだ。
ただ、人に迷惑をかけるようなことは、
そんなの宗教とか関係ないから、
全力で否定する。
お前は人として間違っているぞと。
そんな宗教はクソくらえだと。
とまぁ、そんなことは置いといて。
だから私は、神を信じていない。
神というものが本当にいるのであれば、
なぜこの世界はこんなにも荒廃しているのだろうか。
私が神なら、こんな体たらくはありえない。
神というものが本当にいるのであれば、
なぜこんなにも正しい人が生きづらく、
正しくない人がのうのうと生きられるのだろうか。
もし神がいたとして、
こんなふざけた世界になっているのだとしたら、
そいつは相当に無能な神だ。
いまの日本の政治家以上に無能かもしれない。
だから神は信じない。
でも、だからと言って、
神は私を見ているかどうか、と思うと。。
ん〜?となる。
神というか、なんていうんだろうか、
そう、お天道様(おてんとさま)はやっぱり人を見ているんじゃないかと思っている。
お天道様ってなに?
って言われると、私も実はよくわかっていない。
もうそりゃあジェスチャーを交えて言うなれば、
「☝️お天道様」
としか表現しようがない。
神ではない、天が見ているぞと。
そんな感じだ。
例えば私は、ポイ捨てをしない。
それは大きく理由が2つある。
1つめの理由は、
ポイ捨てをする意味がないから。
意味がないことはそもそもやらない、
そういうポリシーだ。
2つめの理由は、
バチがあたるだろうと思うから。
バチとは、おしおきだ。
ポイ捨てなんてしょうもないことをして、
その後どのようなバチがあたるか、
そのリスクはわからない。計り知れない。
だったら最初からそんなことはやらない。
お天道様はきっと、
やるもやめるも全てみているから。
これだけ聞くと、いかにも神の存在を信じているっぽく見えるだろうが、
それが全く信じてないんだ。
お天道様が何者なのかなんて、知らない。
ただ上を指差して、
☝️なにかがみてる。
ということだ。
そして誰も見てないかもしれない、
だからそこまで深くは考えてはいない。
また逆に、
良いことは積極的にやろうとしている。
例えば道に落ちているゴミを拾う。
道でも、ショッピングセンターでも、
家でも会社でも、
そこにゴミが落ちていたのなら、
拾ってゴミ箱へ捨てる。ただそれだけ。
なぜそんなことをやるのかというと、
これも理由が2つある。
1つめの理由は、
良い行いだから。
良い行いは別にいくらやってもいい。
まわりに称賛される行為だと思う。
2つめの理由は、
きっとなにかに見られているんだろうな。
と考えるから。
ゴミが落ちている。人が困っている。
拾わないと、助けないと、
それができない人はバチこそあたらないけど、
良いことも起きなくなっても仕方がない。
と考えてしまう。
その良いことを与えるものは何かというと、
それは神ではない、
この世の大きな流れの中のなにか。
それを言い表すものがないから、
お天道様。と言ってみる。
だから良い行いをしようと思っている。
お天道様ってのは、
もしかしたら、我々"人"のことなのかもしれないし、何か時の流れのようなものかもしれない。
もし良い行いをしたときに、
誰かにそれを見られていたり。
もしくは逆に、良い行いをした人を見ていたり。
するとその人は、
その良い行いをした私たちを、
あの人は良い行いをする人だ。
と評価してくれるかもしれない。
好感というやつだ。
誰かがみていても、みていなくても、
そんなのは関係ない。
誰もみていなければゴミをポイ捨てしていいわけはなく、
誰もみていなければ良い行いをする意味が無いわけでもない。
お天道様がどうこうも、本当は関係ない。
全ては自分の中にある、
"美学"だと思う。
だから「お天道様がみている」という美学をもって、正しい行いをする。
だからこそ、
別に神なんか信じなくてもいいんだ。
と思えるんだ。
とはいえ、
神様がいる。とされている場所では、
見えない神に対して、
あたかもいるかのように振る舞うのが礼儀だ。
それも美学。
まるで真剣にプロレスをみるようなピュアな気持ちで、見えない神と対峙する。
それがきちんとできているかどうか、
それもお天道様が見ている。
信じはしないが、否定はしない。
それが無神論者の我々の正しい姿なんだろうなぁ。
第154回目の投稿でした。
