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俳句鑑賞 ひらくヨムヨム009

凍星や歴史に残らない仕事

作者:阿見あみ果凛かりん

第三十六回 伊藤園お~いお茶新俳句大賞 文部科学大臣賞より

 きっと取り合わせが近いと言う人がいるだろう。「歴史に残らない仕事」という一見ネガティブな表現に対して、「凍星」というまたネガティブな季語。これほど悲観的な取り合わせが、なぜ成り立つのだろうか。
 仮に「春星や歴史に残らない仕事」だったらどうか。中七下五のフレーズを季語に慰めてもらわなくてもいいじゃないか、と感じる。「歴史に残らない仕事」は反骨心か、矜持か、慰めであるかを問わず、人々に無意識に肯定されており、だからこそ掲句は成り立つのである。
 句の核心は肯定される事実ではなく、理由の方にある。圧倒的大多数を占める普通の人々にとって、歴史に残るような仕事でなければ価値がないと認めることは、自分たちの仕事、引いては自身の存在意義を否定することに繋がりかねない。当時15才の作者は、そのことに気付いてしまっている。気付いているが、取り合わせとして自己満足的になってしまう「星涼し」や、客観的になって自分と距離を置いてしまう「流星」を選ばなかった。作者は仕事とは何か、評価されるとはどういうことなのかを、社会に出る前から問うているのではないか。そしておそらく、既に答えを胸の中に抱いている。
 季語の内情も複雑だ。一つの恒星が「凍星」になったり「春星」になったりするのは、あくまで地球上の、特に日本の季節の都合であって、科学的な事実ではない。我々の住んでいる土地からは輝いて見えても、別の惑星から見れば光が弱くて気付かない星かもしれない。北半球から見える凍星でも、南半球から見れば夏の星であろう。逆のことも言える。
 仕事の評価にしても、例えば生前にほとんど評価されていなかった印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホのように、十数年後に歴史に表出される者もいれば、時代を謳歌しながら、後世の勝者に歴史上から消し去られた知られざる王もいるだろう。季語も単純でなければ、歴史も単純ではないのである。何が世界を動かしているのだろう。
 作者の阿見さんは小学生の頃から俳句集団いつき組の組員だ。組長の夏井いつき氏の冬の名刺に記されている句は「冬うらら俳句の種を蒔く仕事」である。夏井氏が一生を賭して続けている俳句の種まきは、「歴史に残らない仕事」であろうか。阿見さんのこれからに、大いに期待する。


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