僕の選んだ色
「ちょっといい?」
扉の向こう側から、母の声がした。それに続く「コンコン」というノックの音に、僕は思わず扉を押さえる。そうでもしないと、勝手にドアを開けられそうな気がしたからだ。それだけは、是が非でも避けねばならぬ。
「ちょっといい?」
同じ言葉が繰り返された後、柔らかい楊梅色〈やまももいろ〉の扉を押さえつける僕の両手に、大きな力が伝わってきた。母だ。母が、この扉を開けようとしているのだ。
僕がいるのが自室ならまだいいけどさ。脱衣所だぜ? ここ。「扉開けても大丈夫?」とか「まだ着替えてる?」とか聞いてくれたっていいじゃないか。実際、母の声がしたのは、浴室への扉を開くすんでのところだった。まあ、「ちょっと待って」とお願いしたり、「何の用事?」と尋ねたりしない僕も大概だけど。親子間のコミュニケーションって、本当に難しい。
母は僕からの応答が無いことに観念したのか、戸から手を離し、呆れたような声でこう言い放った。
「バスタオル、洗ったばっかりで乾いてないから、別の使って。『バスタオル』って書いてる引き出し開けたら、何枚か入ってるから。分かる? 引き出し。適当に好きなの使っていいから」
……ったく、子どもじゃないんだからさ。言われなくたって、いつも使っているタオルが濡れているのに気付いたら、別のタオルくらい自分で用意するって。
心の中でそう思った。思うだけなので、母に伝わることはない。「あーだこーだ」と言われて口答えしていた時期もあるけれど、もう辞めた。無意味なことに気付いたからだ。何か言ったところで相手の感情が高ぶるだけだし、そうなったらお互いに余計な神経を擦り減らすばかりで、後には疲労感しか残らない。
遠ざかる足音に毒づきながら、僕は言われた通り「バスタオル」と書かれた渋皮色の引き出しを開けた。
中には、何枚かタオルが入っていた。綺麗に折りたたまれたタオルが、手前から菜の花色、山葵色〈わさびいろ〉、空色と並んでいる。淡い色をしたふかふかそうなタオルを前にして、ついさっきまで母に抱いていた漆黒の感情は、どういうわけか消え失せてしまった。
僕の手は自然と、横のトリコロールのど真ん中に向かって伸びていく。何かを選ぶことが苦手なくせに、この3択には全く迷わなかった。好きだから。緑色が。気付いた時には、僕の好きな色は緑だった。
といっても、ずっと昔からこの色が好きだったわけではない。幼稚園生の頃は、確か「紫」がお気に入りだった。青・赤・黄といった主人公感のある色ではなく、子どもがあまり好まなそうな毒っ気のある色を、なぜ僕は好いていたのだろう。思い出そうとしても、さっぱり。
それから小学校にあがり、中学年あたりからは、好きな色を聞かれたら「緑」と答えるようになった。自分の好みが変わるきっかけは、英語の自己紹介だった。週に一度の学校の授業にしろ、当時通っていた英会話教室にしろ、「自己紹介」の練習をすることがままあって。こういうのはテンプレが用意されているから、話す内容の大枠は決まっている。挨拶・名前・年齢・通っている学校・学年・好きな○○と続き、「Nice to meet you.」で締める。
表現として平易だからか、「色」は好きなもの紹介のトピックに選ばれやすかった。そうなると僕はみんなの前で言うわけだ。「My favorite color is purple.」「I like purple.」って。
ある時、自分が「purple」と発することに違和感を覚えていることに気付いた。なんか違う。なんか嫌かもしれない。なんか変だ。
小学3年かそこらの自分に、感じとったものの言語化なんて、到底できやしなかった。でも、その違和感の正体を、「好きな色が紫ではないような気がする」という直観を、好きではない(かもしれない)ものを「好きだ」と偽って公言することのおかしさを、あの時の僕は決して無視したりしなかった。自分の中で意図せずに変わろうとする好みを、新しい色で意図的に塗り変えようと試みたんだ。
好きな色を答えると、時々理由を聞かれることがある。自然の色で、見ていると落ち着くからです―なんて答えるけど、それは本当の理由ではない。昔好きだった色が好きじゃなくなった時に、なんとなく「いい」と思ったから。なんとなく「いい」と思ったのが橙色だったら、今頃、橙色が好きだったと思う。
皮膚に染みるようなじんわりとした寒さを感じて、ふと我に返る。そうだ。僕は、1月の脱衣所にいるんだった。
落ち着いた黄緑色のタオルをケースから取り出して、顔に近づけると、いつものタオルとは違う柔らかさが、優しく頬を撫でた。息を吸うと、森林の中にいるような匂いが広がった気がした。
引き出しを閉め、フェイスタオルの入った別の引き出しを開ける。中を一瞥して、一番手前のクリーム色と鼠色を混ぜ合わせたようなそれを取り出した。
手にした色の違う2つのタオル。
僕の大好きな色は浴室近くの棚にそっと置いて、さもないヤツと一緒に浴室へ入った。
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