捨てられた顔【ショートショート】
日曜日の昼下がり、私はD教授の自宅を訪れた。
錆びれた門をくぐり、ボーボーに伸びた雑草を掻き分けながら進むと、北欧調のペールオレンジの玄関にたどり着いた。
ピンポーン。
ピーンポーン。
ピーーンポーーーン。
3回呼び鈴を鳴らした後、扉のロックがガチャンと外れた。
やあ、よく来たね
扉の隙間から顔を覗かせながら、D教授は言う。口元の髭は綺麗に剃られており、トレードマークのえくぼが右頬にくっきりと浮かんでいる。
とんでもございません。
久しぶりにお会いできて嬉しいです
軽く頭を下げると、彼の服装が目に入る。穴の空いた靴下。しわの入ったズボン。黄ばんだTシャツ。玄関の晴れやかな色調が、彼の身なりを余計にみすぼらしく見せた。
とりあえず、上がってちょうだい
促されるまま、私は用意された群青色のスリッパに履き替え、彼と一緒に玄関に最も近い部屋に入った。そこはどうやら「応接間」のようで、真四角のテーブルと、それを挟むようにソファが2つ置かれただけの簡素な空間だった。
私がドアに近い方のソファに腰かけると、彼は向かいには座らず、立ったまま話し始めた。
早速、本題に入ろうか。
メールで伝えていた通りではあるんだけど、君には私の実験、もといプロジェクトに参加してほしいんだ。報酬は50万。要件は、たったの30分しかかからないから、時給に換算すると……100万だ。
悪くない話だろう?
まあ、興味が無かったら、こんな辺鄙な場所までやって来ないと思うけど
遡ること3日前、風呂上がりの私の元に一通のメールが届いた。
差し出し人は、大学の恩師であるD教授だった。懐かしい名前に、10数年前の思い出が蘇る。
他の学生より随分と進みが遅い論文の進捗を、いつも気にかけてくれたこと。内定先がなかなか決まらない私の愚痴を、黙って聞いてくれたこと。入社式の日に「困ったらいつでも連絡してよ」とメールをくれたこと。
友達らしい友達を作れなかった私にとって、4年間で最も話した相手がD教授だった。卒業後は、彼の退職祝いに一度会ったきり疎遠になっていた。
今日ここに来たのは、無論、破格の報酬に目がくらんだからだ。メールには「興味を持ったら、我が家に来てほしい。詳細はそこで話す」とあったので、ここに来ざるを得なかった。
だが、それ以上に彼に会いたい気持ちが大きかった。直接会って、それなりに上手く社会に溶け込んで、一介の "ビジネスマン" として生活を送っている自分の姿を見せつけてやりたかったのだ。それが、あの頃もらった恩を返す一番の方法だと思った。
それで、「プロジェクト」とはどんなものなのでしょうか? どうしても口頭で伝えたい、という書きぶりでしたが
教授は私の問いかけには反応せず、無言で部屋を出た。
数分後、紙袋を抱えた彼が戻って来た。テーブルの上にどさりと置くと、中にぐいと手を突っ込み、札束を取り出した。札をくるんでいた白い紙をするりとほどき、私の目の前で一枚ずつ積み重ね始める。
100万円、なかなか見たことないでしょう?
これが今すぐ手に入るとしたら、どんな気持ち?
紙を小さく折り畳む彼からの質問に、私は答える。
嬉しいです。
とても嬉しいですね
私の答えに間髪入れず、彼は言った。
それだよ。それなんだよ。
ああ良かった。変わってなくて
目の前の積み重ねられた札の山から、彼に視線を移す。
昔から、君は「嬉しい」という時、全く嬉しそうな表情をしないんだ。論文が完成した時も、初めて内定をもらった時も、卒業後に久しぶりに顔を合わせた時でさえ「嬉しい」という君は、ちっとも嬉しそうじゃなかった。
いや、内心で喜んでいるのは分かるよ。声がワントーン高くなるし、体がクネって動くから。でも、決して顔には現れない。さっきの質問で、確信に変わったよ
彼は、淀みなく続ける。
僕が今取り組んでいるのが、表情の売買をすることなんだ。ええと、順を追って分かりやすく説明しよう。
人の表情は、顔にある無数の筋肉が自在に伸縮することで作られる。筋肉の動きは、脳から送られる電気信号によって制御されている。簡単に言うと、脳からの指令で表情が作られるってことだ。
最近、電気信号と筋肉の動きが、実は一対一対応になっていることが判明してな。Aというパターンの信号から作られる表情は、必ずaになることが分かった。どんな人であっても、脳からAという信号が送られれば、絶対にaという顔を浮かべる。裏を返せば、aの顔をしたければ、脳からAを送ればいいってことになる。
なかなか面白いでしょう?
はい、という代わりに首を縦に3回振った。
これをビジネスに援用しようという話なんだ。
君みたいに、特定の表情を表出できない人は一定数いる。その表情をほとんど使わないなら問題は無いんだ。ただ中には、その表情を「したいけど、できない」「使わなければならないのに、できない」ことに苦しんでいる方がいらっしゃる。そんな方に向けて、表情を売るサービスを始めることにした
教授は「ただ」と前置きをして、さらに続けた。
売るものは、表情そのものではない。本当はそれができると良いんだけどね。今の技術だと、まだその域には到達できていない。
でも、電気信号なら可能性がある。さっき、信号と表情は紐づいているって言ったでしょ? 脳から、作りたい表情を発現させる信号を任意のタイミングに流すことができれば、その人は好きな時にその顔をすることができるって寸法さ
何となく全容が掴めてきた。恐らく、私の脳に電気信号を流して、表情が変わるかどうか確かめたいということなのだろう。それが、教授の言う「実験」もとい「プロジェクト」に違いない。
そんな心の声が聞こえたのか、彼は
別に、君に新しい表情を与えるつもりは無いよ。
その逆。顔を与える側になってほしいんだ
と微笑んだ。
まず君には、満面の笑みを浮かべてもらう。
いかにも「嬉しい」という表情だ。
大丈夫。これは作り笑いで構わないから。
この時、特殊な装置を頭にかぶってもらう。この装置で「嬉しい」の表情に繋がる電気信号を測定するんだ。測定が終わったら、脳に電気ショックを与える。与えることによって、特定の信号を切り取ることができる。この辺の仕組みは難しいから省略しようかな。
なあに、電気ショックと言ってもそんなに強いものじゃない。一瞬気を失うくらいだ。死ぬことは無い。でも、記憶の一部を失う可能性はある。そのリスク込みの報酬だと思ってほしい。
君から切り取った信号を、表情を欲している人の脳に流すとその人は笑顔になる。君が浮かべた笑顔と全く同じ笑顔になるんだ。
表情をもらう側は、手術をして脳に極小のチップを埋め込む。チップを専用のアプリと同期させた上でアプリ内のボタンを押すと、脳から顔に信号が流れ、自然と求めている表情ができる。
表情の移植は、まだ不完全な部分が多い領域なんだ。法の適用もされていない。そういう意味でも、報酬は弾んでいる
彼は、そこで一層真剣な表情に変わり、
信号を切り取ったら、君は今後一切それに紐づいた表情を浮かべることができなくなる。そこだけは留意してほしい
と、付け加えた。
一通り説明を聞いた私は、二つ返事で引き受けることにした。
もちろん、リスクがあることは承知だ。怖さはある。教授の話を一から百まで理解できた訳でもない。けれど、あのD教授からの直々の頼みである。ろくでもない学生だった私を未だに覚えていてくれた事が、他でもない私に声をかけてくれたことが心底嬉しかった。
それに、近々大金が必要になりそうな用事もあった。払えない額ではないが、サラリーマンの薄給と今の貯金では心もとない。
私の返事を聞いた教授は、満面の笑みを浮かべた。「ありがとう」と言いながら紙袋から契約書を取り出し、私にサインをさせた。
うん。これで問題ない。
じゃあ、行こうか
私たちは部屋を出て、長い廊下の突き当たりにある灰色の扉を開けた。
現れたのは、美容院にあるような椅子と鏡。あとは、テレビで観る手術室さながら精密そうな器具たち。
D教授は、椅子に腰掛けた私の背後に立ち、こう指示を出した。
はい。じゃあ、思い切り口角をあげてみて。
そうそうそう。お、いい感じ。
じゃあ、早速本番に移ろうか
そう言いながら、私の頭に真っ黒いヘルメットを被せた。側面からは烏賊の足より多い数の配線が伸び、得体の知れない機械に繋がっている。教授は、改まって言った。
ここから「表情の切り取り」をやっていきます。
さっきと同じように口角を上にあげてみて。
うん。そんな感じ。
じゃあ、そのまま15秒キープでお願いします
私は鏡越しに、笑みを浮かべる私と対峙した。
悔しいかな、普段の自分よりも穏やかそうで、おおらかそうで、優しそうな「いい人」に見えるではないか。この笑顔を使いこなせていたら、もっと上手く社会を生きていけたのかもしれない。
鏡に映る教授は、右頬にえくぼを浮かべながら私を見つめている。
彼は目線を動かさぬまま胸ポケットに手を入れ、小さなボタンを取り出した。
カチッ。
軽い金属音が鳴ったと同時に、被っているヘルメットが熱くなり始めて……。
ここから先、自宅に帰るまでの数時間の行動は記憶にない。すっぽりと抜け落ちてしまっている。教授の言っていた「副作用」は、これを指していたのだろう。
ただ、それ以外には特に身体に異常はなく、お金の振込もきちんと確認できたもんだから、表情が欠落した人間であることなんてすっかり忘れて、周りとさも同じであるかのような顔をして日々を過ごした。
冬が近づく10月最後の日曜日、私は彼女を誘って高級レストランにやって来た。
今まで飲んだことのないワインに、食べたことの無いコース料理。
ひとしきり料理を楽しんだあと、私は意を決して本題を切り出した。
あの、俺らってさ、付き合ってもう2年になるじゃん。今日食事しながら改めて感じたんだけど、ヒカリといると穏やかな気持ちで居られるんだよね。それは最初に会った時から、今日までずっと変わらなくて。
ヒカルと話すとさ、辛いことがあっても「明日頑張ろう」って思えて。頑張れないかもしれないけど「頑張れるかも」って少しだけ希望を持てて。そういう人と出会えて幸せだなって思ってるのね。
だから、ヒカリももし同じような気持ちでいるんだったら、嬉しいと思ってるし、そう思えるような人生にできたらと思っています。
僕と、結婚してくれませんか?
彼女はしばらく俯いた後、僕の目を真っ直ぐ見て答えた。
はい!
よろしくお願いします!
あの日、鏡に映った自分と瓜二つな満面の笑みを浮かべながら。
あとがき
小説を投稿した時点では載せていなかった「あとがき」を、小説の推敲を終えた今、ようよう書き始めました。
作品が誕生した背景を少しだけ、紹介しようと思います。
小説の着想は、他のクリエイターから得ました。
ゆうりさんが主催する「ゆる創作部」の2月のテーマが「まだ誰にも見せていない顔」で。
面白そうなトピックだと直感し、これに沿って作品を創ることに決めました。
最初は、周りに見せていない僕の姿(自分しか知らない自分)を題材にしようと思ったのですが、おおっぴろげにするのは恥ずかしくて、フィクションたる小説を創ることに決めました。
誰にも見せていない/普段使っていない〈表情〉だったら、その〈表情〉自体なくても良くない?
みたいな考えが、作品の根底にあります。
本作で登場する「私」は、教授の話に乗っかって〈表情〉を売ります。この〈表情〉の買い主が、実は彼女だった、というのが話のオチです。
彼女がなぜ〈表情〉を買ったのか。私は、彼女が自分の〈表情〉を買ったと気付いた時、どう思ったのか。私とD教授は、その後どうなったのか。
ここは、読者の想像に委ねています。
このあたりを考えながら、読んでいただけると嬉しいです。
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