記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

『誰だって無価値な自分と闘っている』を4つのキーワードから読み解いてみる─無価値さ/闘っている/感情/ストーリー

『誰だって無価値な自分と闘っている』を完走した。見終えたあと、しばらく作品の余韻から抜け出せなかった。登場人物たちの痛みが少しずつ滲み出し、絡まり合い、気づけばこちらの心の奥まで届いてくる。そんな物語だった。

特に、ク・ギョファン演じるファン・ドンマンの姿は印象的だった。見ているこちらが思わず目を伏せたくなるほど、不器用で、情けなくて、どうしようもない。けれど同時に、そのどうしようもなさがあまりにも人間らしく、どこか愛おしい。気づけばすっかり、ファン・ドンマンという人物に引き込まれていた。

そして本作の魅力は、彼一人にとどまらない。ピョン・ウナ(コ・ユンジョン)、ファン・ジンマン(パク・ヘジュン)、パク・キョンセ(オ・ジョンセ)をはじめとする8人会の人物たち。彼らもそれぞれに痛みを抱えながら、傷つけ合い、助け合い、愛し合っていく。その関係性が回を追うごとに少しずつ膨らんでいく過程は、とても見応えがあった。

本作の脚本を手がけたのは、『マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜』や『私の解放日誌』で知られるパク・ヘヨン作家だ。個人的にも大好きな作品を生み出してきた作家だったので、今回の新作をとても楽しみにしていた。そして実際に見終えてみると、そこにはやはり、パク・ヘヨン作品らしい世界観が濃く滲んでいたように思う。

見終えたあと、私の頭の中には4つのキーワードが残った。

「無価値さ」「闘っている」「感情」「ストーリー」だ。

本稿では、この4つのキーワードを手がかりにしながら、主に本作の主人公であるファン・ドンマンに焦点を当てて、『誰だって無価値な自分と闘っている』という作品について、私なりに考えてみたい。


1. 「無価値さ」ー存在価値を証明する


パク・ヘヨン作家は、本作のタイトルである『誰だって無価値な自分と闘っている』(모두가 자신의 무가치함과 싸우고 있다)は、『誰だって自分の存在価値を証明しながら闘っている』(모두가 자신의 존재가치를 증명하며 싸우고 있다)と言い換えることができると語っていたという。

本作で描かれるファン・ドンマンにとっての無価値さは、20年間映画監督として生きてきたにもかかわらず、まだ一本も作品を世に出せていないこと、まだ正式にデビューできていないことと深く結びついている。結果を出せていない。何者にもなれていない。その事実が、彼の中で「自分には存在価値がない」という感覚として膨らんでいるのだ。

침묵이 무서워요. 침묵 속에서 갑자기 진실이 튀어나올까 봐.
…너는 존재가치가 없어.

沈黙が怖いんです。沈黙の中で、突然真実が飛び出してきそうで。
…“お前には存在価値がない”と

第4話
ファン・ドンマン(ク・ギョファン)

そして、その無価値さをより強く突きつける存在として、8人会がある。同じ映画業界で働く8人会のメンバーたちは、ドンマンにとって仲間でありながら、劣等感や不安を刺激する存在でもある。自分以外の7人は、それぞれが自身のキャリアを築き、社会の中で居場所を得ている。けれど彼だけが、まだそこに到達できていない。自分だけが取り残されている。その事実が、ドンマンにより強い恐怖や不安を抱かせるのだ。

「アジト」に集まる8人会のメンバー

そして彼は、その耐えがたい事実に黙っていられない。ウナが「不安の塊」と表現するほどに不安に苛まれているドンマンは、その不安を乗り越えるために、必死に食べ、悪態をつき、人の悪口を言う。

나한테 말 좀 줄이라는데, 나 못 줄여요. 절대.
내가 존재한다고 느낄 수 있는 게 드립밖에 더 있어?
말 끊으면 죽은 거야. 인생이 뭐냐? 스토리.
얘기가 끝나면 죽는 거지.

僕に、少し言葉を減らせと言うけれど、僕にはできない。絶対に。
自分が存在していると感じられるものが、冗談以外にあるか?
言葉が途切れたら、死んだも同然だ。人生とは何か。ストーリーだ。
話が終われば、死ぬんだ。

第4話

彼は自分の無価値さを、すでに痛いほど認識している。でも、それを他人との関わりの中でどう扱えばいいのかわからない。だから言葉や食べることで埋めようとする。こうして自分の無価値さや無能さを包み込み、自分がここにいることをなんとか証明しようとする。

とはいえ彼は、自分の無価値さを否定しない。むしろ、その果てまで行こうとしている。自分の無価値さから目を背けるのではなく、そこに真正面から突っ込んでいく。どうにでもなれ、なるようになれ、というように、自分の無価値さと全面的に向き合うのだ。

그리고 난 내 무가치함의 끝에서 빛나는 진실을 건져 올릴 거야.
나의 빛나는 스토리를 기대해라.

そして僕は、自分の無価値さの果てから、輝く真実をすくい上げる。僕の輝くストーリーを期待しろ。

第2話

ドンマンが、映画製作会社チェフィルムの代表であるチェ・ドンヒョン(チェ・ウォニョン)に面と向かって言うこのシーンは、迫力満点だ。

ここで彼が言っている「輝く真実」とは何だったのか。全話を見終えた今、改めて考えてみると、ドンマンは大きく二つの真実を見出したように思う。

一つは、兄ファン・ジンマンが語る「ヒューマン・ビーイング」に関する一節だ。

인간이 영어로 뭐야? 휴먼 빙, 휴먼 두잉 아니고 휴먼 빙. 그냥 존재하라고, 가만히.
내가 뭘 했네, 어쨌네, 정신없이 오락가락. 이리 갔다 저리 갔다, 두잉 하지 말고 빙.
그냥 가만히.

人間の英語は何だ?ヒューマン・ビーイング。ヒューマン・ドゥーイングじゃなくて、ヒューマン・ビーイング。
ただ存在しろってことだ、じっとして。
「自分は何をした」とか、「どうした」とか、慌ただしく行ったり来たり。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、ドゥーイングするんじゃなくて、ビーイング。
ただ、じっとしていればいい。

第12話
ジンマン(パク・ヘジュン)とドンマン

ジンマンはドンマンに向かって、人間は必死に動き回ることで価値が生まれるのではなく、ただ存在すること自体に意味があるのだと語る。

ドンマンはずっと、自分の存在価値を「何かをすること」によって得ようとしてきた。映画を撮ること。笑わせること。騒ぐこと。悪口を言うこと。何かをし続けなければ、自分には価値がないと思っていた。

けれど、最終的に彼がたどり着いた真実は、その反対だったのではないだろうか。何もせず、「ただそこに存在している」だけで、価値があるのだと。そしてそれは、兄であるジンマンの言葉によって、彼の中にようやく届いていったように見える。

もうひとつの「輝く真実」は、ドンマンが最後に選ぶ「笑い」にあると思う。

ジンマンは繰り返し、ドンマンに問いかける。人生の目的は何なのか。何を望んでいるのか。お前の願いは何なのか、と。

第2話でドンマンは、「不安にならないこと」(불안하지 않은 거)と答え、第9話では、「少しでも恥ずかしくないこと」(덜 쪽팔리는 거)と答える。そして最終話で、彼は「笑って、僕はただ笑って生きていく」(웃기게, 나는 그냥 웃기게 살 거야)と答えている。

この変化は、注目に値する。最初のドンマンは、自分の無価値さが不安で仕方がなかった。恥ずかしくて、耐えられなくて、だから必死にしゃべり、暴れ、証明しようとしていた。でも最後には、無価値でもいい、恥ずかしくてもいい、不安でもいい、それでも笑っていこう、不安で仕方ない自分すらもコメディにしてみようじゃないかというところに辿り着いたように見える。

ファン・ドンマンは笑わせる人であり、滑稽な人であり、同時に痛ましい人でもある。けれどその「笑い」は、ただの軽さではない。自分の無価値さと闘い、その果てまで行った人間が、それでも生きていくために選び取ったものとしての笑いなのだと思う。

2. 「闘っている」ー千個の扉を開け放って、現実と向き合う


前章で書いたように、ファン・ドンマンは自分の無価値さを痛いほど認識している人物だ。私には、ドンマンの悪態や饒舌さ、食べること、叫ぶこと、空気をかき乱すような振る舞いのすべてが、彼なりの「闘い」だったように見えた。

彼は、自分の無価値さを静かに受け止めるタイプではない。黙って耐えるのではなく、時には人を傷つけ、自分自身も傷つける。それは決して洗練された向き合い方ではないし、見ていて痛々しくなる瞬間も多い。

けれど、そこにこそファン・ドンマンという人物の人間くささがあると思う。ウナは、ドンマンのことを「動物的で温かい」と表現していた。彼はとても動物的で、欲望に忠実で、表裏がない。感情をきれいに整理してから出すのではなく、見せたくないはずの弱さや醜さや恥ずかしさまで、ほとんど隠しもせずに外へ出してしまう。彼の闘いは真っ向勝負だ。中途半端なところがない。

ウナは作中で、ドンマンのことを「千個の扉が全て開いている人」(천 개의 문이 활짝 다 열려 있는 사람)と表現している。多くの人は、自分の中にある扉をいくつか閉じて生きている。傷ついていること、恥ずかしいこと、感じていることや考えていることもなるべく外に出さず、取り繕いながら生きていく。でもドンマンは、それをしない。心の扉も、感覚の扉も、感情の扉も、全部開け放ち、すべてを剥き出しにして、現実に真正面からぶつかっていく。

ここでいう現実とはつまり、「自分は無価値なのではないか」という不安だ。彼はそれをなかったことにしない。隠して、静かにやり過ごすことなく、全身でぶつかっていく。食べ、話し、悪態をつき、笑わせ、壊し、壊れながら、自分の無価値さと闘っているのだ。

そしてこの「闘っている」という視点で見ると、ドンマンの強さがより一層見えてくる。

その強さを象徴しているのが、第9話でのコ・ヘジン(カン・マルグム)との会話だ。ヘジンはドンマンの作品について、「作品はすごくいい。ただ、悪いディテールをひとつだけ直そう」とフィードバックする。それに対して、ドンマンは問い返す。

(동만) 근데 악당의 악함을 보강하라는 거야? 강함을 보강하라는 거야? 대개 사람들이 악을 강으로 착각해. 악해 보이게? 아니면 강해 보이게?
(혜진) 강해 보이게.
(동만) 내 속에 악은 없어. 강은 있어.

(ドンマン)それって、悪役の「悪さ」を補強しろってこと?それとも「強さ」を補強しろってこと?たいていの人は、悪を強さだと勘違いする。悪く見せればいいの?それとも、強く見せればいいの?
(へジン)強く見せたい。
(ドンマン)僕の中に悪はない。強さはある。

第9話

ドンマンには、たしかに戦闘力とも言うべき強さがある。いつも千個の扉をすべて開けたまま、現実と真っ向勝負をしている。自分の無価値さに飲み込まれまいとする「強さ」が、彼の中にあるのだ。

もうひとつ、彼の強さを感じた場面がある。

ウナが、ドンマンの家にドンマン、イ・ジュンファン(シム・ヒソプ)、チャン・ミラン(ハン・ソナ)と4人で集まったときに、こんなことを言っていた。

우리는 누가 세게 나오면 철렁, "아 내가 잘못한 건가?" 너무 쉽게 내 탓을 해요.
반성은 약자들의 언어.
못된 인간들이 반성하는 거 봤어요? 반성하지 마요.

私たちは誰かが強く出てくると、すぐに『私が悪かったのかな』と思ってしまう。あまりにも簡単に自分のせいにしてしまう。
反省は弱者の言語だ。
悪い人間たちが反省するのを見たことがある? 反省しないで。

第10話

このシーンの後、葬式で大物俳優のノ・ガンシク(ソン・ドンイル)とドンマンが対面する場面が出てくる。

ノ・ガンシクは、ドンマンを下に見ているような態度をとる。普通ならそこで萎縮してしまうところを、ドンマンは、ガンシクと一緒に仕事をしたいという意思を伝える。相手が強く出てきても、それ以上に強く出る。反省して、自分を小さく見せるのではなく、自分の欲望と意志をそのまま差し出す。

ノ・ガンシク(ソン・ドンイル)とドンマン

ウナの言葉を借りるなら、ドンマンは弱者の言語を使わない。だから彼は強くあり続けることができるのだ。

ドンマンの強さとは具体的に何なのかについて、もう一歩踏み込んでみたい。

ひとつは、「耐える強さ」だ。

ドンマンは、20年間映画を辞めていない。映画監督であることを、諦めていない。たとえ一本も作品を世に出せていなくても、周囲から認められていなくても、自分自身が無価値だと感じていても、それでも映画を撮る人間であることを手放していない。

もうひとつは、「感じる強さ」だ。

ドンマンは、とにかく感情のエネルギーが大きい。怒りも、不安も、恥ずかしさも、喜びも、寂しさも、彼の中ではいつも大きく膨らんでいる。感動する映画を見れば大号泣し、つまらない映画を見れば辛辣に批評する。

彼は自分の感情に大きく振り回されてもいるが、同時に、自分の感情に深く向き合うことができる人でもある。最終話のパク・キョンセとの和解のシーンでは、彼は自分の感情を感情ウォッチを通して認識し、背けた体をもう一度戻し、キョンセと膝を突き合わせて和解する。

「耐える強さ」と、「感じる強さ」。この二つに支えられて、ドンマンは闘い続けられる。無価値さに押しつぶされそうになりながらも、完全には壊れない。むしろ壊れそうな自分さえもさらけ出しながら、そこからまた何かを生み出そうとするのだ。

そして、ドンマンの闘いを最も象徴していたのが、ノ・ガンシクとの撮影シーンだ。

ドンマンのデビュー作『天気をお作りします』(날씨를 만들어 드립니다)の撮影が始まったあと、スランプに陥ったドンマンに対して、ノ・ガンシクは「撮るのか、死ぬのか?」(찍을래? 죽을래?)と問いかける。

ドンマンは、その問いに言葉では答えず、ファイティングポーズをとる。まるで「殴るぞ」とでも言うように拳を突き出したところで、シーンは切り替わる。

「撮るのか、死ぬのか?」と問われたドンマンの答えは、言葉にするなら「闘う」だったのではないだろうか。自分の無価値さと、自分の映画と、自分の人生を相手に、ファイティングポーズを取ったのではないだろうか。彼にとって、映画を撮ることは、自分の本業をまっとうすることであり、闘いであり、生きることなのだ。

3. 「感情」―意志では変えられないものと向き合う


本作の特徴的な小道具のひとつに、「感情ウォッチ」がある。

感情ウォッチ

自分の感情が言葉として表示される、ある種SF的な装置だ。この作品において感情ウォッチは、単なる設定上の面白さにとどまっていない。むしろ、パク・ヘヨン作家がこの物語で描こうとしているものを、とても象徴的に表しているように思う。

パク・ヘヨン作家は、数年前のインタビューで、以下のように語っていた。

가만히 보니까 제 감정이 하루에 50번 넘게 바뀌는 것 같더라고요. 지루했다, 좋았다, 이랬다 저랬다. 그중에 크게 걸리는 감정을 빨리 캐치해요. 나쁜 감정이 올라왔을 때 어느 순간부터 그 감정이 올라왔는지 생각해요.

じっと見ていると、自分の感情が一日に50回以上変わっているような気がしたんです。退屈だったり、よかったり、ああでもない、こうでもないと揺れ動いている。その中で、大きく引っかかる感情をすぐにキャッチするようにしています。悪い感情が湧き上がってきたときは、ある瞬間から、その感情がどこから湧いてきたのかを考えるんです。

https://cine21.com/news/view/?mag_id=102199

作家自身のこうした感情への向き合い方が、本作では「感情ウォッチ」という小道具として表れたのではないかと思う。

感情は、放っておくと曖昧なまま流れていく。怒りなのか、不安なのか、恥ずかしさなのか、嫉妬なのか、寂しさなのか。自分でもうまくわからないまま、ただ心の中で大きく膨らんでいくことがある。けれど感情ウォッチは、その曖昧なものに名前を与える。今、自分の中で何が起きているのかを、言葉で表示する。

この「感情に名前を与えること」は、本作においてとても重要な意味を持っていると思う。

作中で、心理カウンセラーはピョン・ウナに対して、大切なのは、湧き上がる感情を正確に読むことだと助言する。自分がそのとき、どんな気分だったのかをちゃんと見ること。そして、その感情を正確に読む瞬間、それを制御できるのだと語る。

感情は、見ないふりをすると膨らんでいく。そこに妄想が加わり、自分でも止められないほど大きなストーリーになってしまう。けれど、感情を正確に見つめ、名前を与えることができれば、その膨張に少しだけ歯止めをかけることができる。

だから本作において、感情を見つめることは、ただ自分の心を知るためだけの行為ではない。自分の無価値さに飲み込まれず、折り合いをつけて生きていくための方法でもある。

感情ウォッチで「不明」(알 수 없음)が表示された感情を、ドンマンは「助けて」(도와줘)という言葉で名づける。

"도와줘."
당신을 건져 내고자 찾아낸 그 말이 나를 건져냈습니다.

「助けて」
あなたを救い出そうとして探し出したその言葉が、私を救い出してくれました。

第7話

この言葉は、感情に名前を与えることの力をよく表していると思う。

言葉にならなかった感情が、「助けて」という言葉を得た瞬間、それはただの混乱ではなくなる。誰かを求める声になり、誰かとつながるための手がかりになる。そしておそらく、ともに「不明」(알 수 없음)が表示されていたウナもまた、ドンマンと同じように、その言葉によって自分自身を救われたのだと思う。感情はひとりで完結するものではない。誰かを救おうとする中で、自分も救われるのだ。

ここで思い出されるのは、第1章で触れた第2話のセリフだ。ドンマンは「내 무가치함의 끝에서 빛나는 진실을 건져 올릴 거야(自分の無価値さの果てから、輝く真実をすくい上げる)」と宣言していた。そして第7話では「건져 내고자 찾아낸 그 말이 나를 건져냈습니다(救い出そうとして探し出したその言葉が、私を救い出した)」と語る。両者は同じ「건지다(救い上げる)」という動詞で対になっている。

無価値さの底から自分を救い上げることと、誰かを救おうとして自分も救われること。本作はこの二つを、同じ動詞のもとに繋いでいる。感情に名前を与えることの射程は、自分の救済と他者の救済が分かちがたく重なる地点にまで届いているのだ。

そして、感情ウォッチといえば、ドンマンとウナが踏切の前で初めて交わす「感情クロス」も印象的だ。本作では、感情をあくまで個人の内側だけのものとして描かず、交差し、相互に影響し合うものとして描いている。

ドンマンとウナの「感情クロス」

タイトルからもわかるように、本作はそれぞれがそれぞれの無価値さと闘っている物語だ。けれど実際には、人はひとりで感情を抱えているわけではない。

ドンマン自身も、そのことをよくわかっている。

나는 리트머스지 같은 남자야. 상대가 산성이면 나도 산성, 알칼리면 나도 알칼리.

僕はリトマス紙みたいな男だ。相手が酸性なら酸性、アルカリ性ならアルカリ性。

第3話

상대가 좋아하면 안심, 상대가 싫어하면 불안.
상대의 감정을 스펀지처럼 그대로 받아들이는 감정의 노예.

相手が自分を好きなら安心して、相手が自分を嫌っていたら不安になる。
相手の感情をスポンジみたいにそのまま吸収してしまう、感情の奴隷なんだ。

第7話

彼にとって、他人の感情は自分の感情と強く結びついている。相手の好意や拒絶、温度や揺らぎをそのまま吸収してしまう。だからドンマンは苦しいし、面倒くさいし、傷つきやすい。

けれど同時に、それは彼の感受性でもある。彼は自分の感情に敏感であると同時に、他者の感情にも敏感だ。感情は決して、ひとりの内側だけで完結していない。人と人とのあいだで生まれ、反応し合い、膨らんだり、静まったりするものなのだ。

だから本作でドンマンが自分の無価値さと闘うとき、その闘いは彼ひとりの中だけで起きているわけではない。兄であるファン・ジンマン。恋人であり仲間でもあるピョン・ウナ。かつての親友であり、今は最も傷つけ合う相手でもあるパク・キョンセ。そして、8人会のメンバーたち。彼らとの関係の中で、ドンマンの感情は揺れ、削られ、ときに救われていくのだ。

ここでドンマンが作中で手がけているデビュー作品『天気をお作りします』(날씨를 만들어 드립니다)の意味についても考えてみたい。

第12話で、作品内の登場人物はこう語る。

(주인공/노강식) 너, 날씨가 뭔 줄 알아? 통제되지 않은 자연이 얼마나 무서운 줄 아냐고.
(아이) 통제될 수 없는 게 존재한다는 게 좋아요. 어쩌면 나도 통제될수 없는 무언가일 것 같은 느낌.
(주인공/노강식) 어쩌면 나도 통제될 수 없는 무언가일 것 같은 느낌

(主人公/ノ・ガンシク)天気が何かわかるか?制御されていない自然が、どれほど恐ろしいものかわかるのか。
(子供)制御できないものが存在するということが、良いんです。もしかすると、自分も制御できない何かなのかもしれない。
(主人公/ノ・ガンシク)もしかすると、自分も制御できない何かなのかもしれない。

第12話

私はこの「天気」を、「感情」と読み換えることができるのではないかと思った。

感情とは、制御できない自然のようなもので、「自分も制御できない何かなのかもしれない」とは、ウナのいうところの人間は「感情の塊」だということではないだろうか。

ドンマンは、「感情は意志では変えられない」(감정은 의지로 못 바꿔요)と語っていた。つまり、意志ではどうすることもできない、制御できないものが存在するということは、自分がただの理性や意志だけでできた存在ではないということでもある。

だからこそ、天気は感情に重なる。天気が移り変わるように、感情も移り変わる。天気が制御できないように、感情も制御できない。

そうした「制御できないもの」を、それでも人の手で扱おうとする営み――それが、劇中作のタイトルが示す「天気を作る」という行為だ。もし天気を感情として読むなら、「天気を作る」とは、自分の感情に主体的に向き合おうとすることを示しているのではないかと思う。

感情は、意志だけで思い通りに変えられるものではない。けれど、だからといって、ただ振り回されるしかないわけでもない。今、自分の中で何が起きているのかを見つめること。名前を与えること。誰かとの関係の中で揺れながらも、その感情を自分のものとして引き受けていくこと。それが、ドンマンの作品における「天気を作る」ということなのではないだろうか。

4. 「ストーリー」―自らの存在を叫ぶ


ここまで、「無価値さ」「闘っている」「感情」というキーワードから、ファン・ドンマンという人物を見てきた。

そして最後に残るのが、「ストーリー」だ。

ドンマンにとって、ストーリーは単なる物語ではない。映画監督として描くべき脚本でもあり、自分の人生そのものでもあり、自分が無価値さと闘うための方法でもある。

終盤、ドンマンは映画制作メンバーの前で「僕たちの仕事はストーリーだ」(우리의 업은 스토리)と言う。映画監督として物語を描くこと。映画監督として生きること。つまり、ファン・ドンマンという人間がやるべきことは、結局のところストーリーを作ることなのだと、彼自身が改めて確認するような言葉だ。

ドンマンは、「ストーリーがあってこそ人生だ、ストーリーがなければ死んでいるのと同じだ」(스토리가 있어야 인생이지, 스토리가 없으면 죽은 거지)という言葉を残しているが、彼はある意味で"ストーリー狂"のような人でもある。

彼はあらゆるものにストーリーを見出す。パソコンは父の遺品で、靴は20年も通う店で買ったものだ。そしてコートは、ベルリン映画祭に参加した際に蚤の市で購入した、第二次世界大戦時のロシア兵が着ていたものなのだ。彼はそれを身につけることで、自分が歴史の真ん中に立っているような気がするのだと言う。

そして、彼にとってのストーリーとは、「笑い」あるいは「コメディ」なのだ。先ほども述べたように、ドンマンは人生の目的についても、最後には「笑って、ただ笑って生きていく」(웃기게, 나는 그냥 웃기게 살 거야)という答えにたどり着く。コートが1998年の中国製であることが判明しても、笑いに変えながら、むしろそのコートをより愛するようになる。

そんなドンマンに向かって、ジンマンはストーリーについて以下のように語る。

모든 스토리는 “나는 존재한다”는 아우성.
이렇게 아프게 존재해. 이렇게 슬프게 존재해. 이렇게 우울하게 존재해. 이렇게 웃기게 존재해.
기껏해야 100년. 100년이면 다 사라지는데, 사라지는 것이 진정 존재했던 건가.
그런 의문을 잠재우기 위해 정신없이 스토리를 써대지.
살아 있는 한, 스토리를 써야 한다면.
이왕이면 웃기게,
난 그렇게 못살았지만 웃기게.

すべてのストーリーは、「私は存在している」という叫びだ。
こんなふうに痛く存在している。こんなふうに悲しく存在している。こんなふうに憂鬱に存在している。こんなふうに笑って存在している。
せいぜい100年。100年も経てば、すべて消えてしまうのに、消えてしまうものは本当に存在していたと言えるのか。
そんな疑問を鎮めるために、人は夢中でストーリーを書き続ける。
生きている限り、ストーリーを書かなければならないのなら。
どうせなら、笑えるように。

私はそうは生きられなかったけれど、笑えるように。

第12話

この言葉は、本作が描こうとしていた「ストーリー」への考え方を、ほとんどそのまま表しているように思う。そして、それをジンマンが語り、ドンマンが聞いているということも、とてもいい。

ドンマンが「笑って生きる」という答えを出したことに対して、ジンマンはまるで「そうだ、お前のストーリーはそれでいい」と言っているように見える。自分はそうはできなかったかもしれない。けれど、お前は笑って存在すればいい。お前が紡ぐべきストーリーは、コメディなのだと、そっと託しているようにも感じた。

ここで、最初の「無価値さ」の章に戻ってくる。先ほど、本作のタイトル「誰だって無価値な自分と闘っている」は、「誰だって自分の存在価値を証明しようと闘っている」と言い換えることができると述べた。そう考えると、ストーリーを書くこと、ストーリーを生きることは、自分の存在価値を証明するための行為でもある。

ドンマンにとって、映画を撮ることはまさにそれだったのだと思う。映画監督として成功するためだけではない。誰かに認められるためだけでもない。自分がたしかに存在していたことを、自分のストーリーとして形にするために、彼は映画を撮るのではないだろうか。

だから、ストーリーはドンマンにとって、人生そのもので、闘いそのもので、そして、存在証明そのものなのだ。

最後の授賞式のシーンで、ドンマンは以下のように語る。

앞으로 더욱! 열심히 만들겠습니다. 감사합니다.

これからも、さらに!一生懸命作っていきます。ありがとうございました。

第12話
授賞式でのドンマン

ここでは、彼の姿をあえて映さず、ブラックアウトした画面に彼の声だけを響かせる演出がなされている。私はこのシーンを、ドンマンの言葉でありながら、同時に、パク・ヘヨン作家が視聴者に贈るコメントのように受け取った。

私はこれからも面白いストーリーを作っていきます。
あなたのストーリーは何ですか。
あなたはどのように存在していますか。
あなたは自分の人生をどう生きますか。

そんなふうに問いかけられているような気がした。

ドンマンは、自分の無価値さと闘いながら、最後に「笑って生きる」という自分のストーリーを選んだ。私たちは、どんなストーリーを描けるだろうか。

この作品を見終えたあとに残る余韻は、そこにあるのかもしれない。誰もが無価値な自分と闘っている。けれど同時に、誰もが自分の存在を証明するために、自分だけのストーリーを書き続け、どう生きるべきかという問いに向き合い続けているのだ。

いいなと思ったら応援しよう!