完璧なはずの「ラムちゃん」が、私の脳を休ませてしまった話
■はじめに
毎週土曜日のマーケティングコラムは、サブカルチャー論だが、今回は、私個人の少し感傷的な思い出から話を始めてみたい。
40年以上前、私は多感な高校生だった。毎週水曜日の夜、テレビの前で文字通り正座し、一人の少女に恋をしていた。高橋留美子先生の金字塔『うる星やつら』のヒロイン、ラムちゃんだ。当時の私は「彼女と一度デートできるなら、いつ死んでもいい」と本気で願う、いわゆる「ガチオタ」の先駆けのような少年だった。
時は流れ、2024年。令和の世に蘇った完全新作アニメ『うる星やつら』が、2期にわたる放送を完結させた。
■令和版が成し遂げた「完璧な召喚」
まず断っておきたい。この令和版リメイクは、マーケティング的にも、クリエイティブ的にも、非の打ち所がないほどの大成功を収めた。
昭和の混沌とした風景を、現代の若者が憧れる「エモい昭和レトロ」として鮮やかにパッケージングし、原作に忠実なキャラクターデザインと、神谷浩史、上坂すみれといった超豪華声優陣による完璧な演技。かつてのファンが抱いていた「原作とアニメの乖離」という長年の違和感すら、最新技術で綺麗に塗り替えてくれた。
何より、かつての熱狂を今の世代に繋いだ功績は計り知れない。私のような旧来のファンにとっても、あの頃の宝物がデジタルアーカイブとして美しく修復されたような、深い敬意を感じるプロジェクトだった。
■なぜ、私の心は「ふーん、なるほど」で止まったのか
しかし、不思議なのだ。第1話の放送時、私はあの頃と同じようにテレビの前で正座していた。期待に胸を膨らませ、新しいラムちゃんの登場を待っていた。
だが、画面を見つめる私の口から漏れたのは、「熱狂」ではなく「納得」だった。
「ふーん、なるほど。よくできているな」
そんな、冷めた評論家のような感想が、自分でも驚くほど静かに湧いてきたのだ。
それは単に私が歳を取ったからだろうか?
それとも、高校時代の自分を思い出して「共感性羞恥」に悶えたからだろうか?
おそらく、それだけではない。
■「正解」が奪ってしまったもの
令和版を見て私が感じたのは、あまりにも「正解」が提示されすぎている、という贅沢な違和感だった。
私は原作コミックスを、それこそ千回は読み返している。コマ割りも、セリフの抑揚も、ラムちゃんの髪のグラデーションも、すべて脳内に完璧なインデックスがある。令和版は、その私の記憶を、最新の解像度で一寸の狂いなくトレースしてくれた。
しかし、その「完璧な忠実さ」が、私の脳から「補完する楽しみ」を奪ってしまったのではないか。
昭和のアニメ版には、良い意味での「不純物」が満ちていた。原作にはいないはずの「メガネ」というキャラクターが、千葉繁氏の怪演によって主役を食うほどの存在感を放ち、押井守監督の作家性が爆発した『ビューティフル・ドリーマー』は、原作者との決別すら辞さない「別の宇宙」を見せてくれた。
当時の私たちは、原作とアニメの「ズレ」という、埋まらない隙間を自分たちの想像力で埋めていた。暗室の匂いや、セル画特有の重なりの中に、自分だけのラムちゃんを幻視していたのだ。
■結論を、あえて弱くする
マーケティングの世界では、顧客の期待に応えることが「正解」とされる。
だが、情報が過剰に供給され、あらゆるコンテンツが最適化(パーソナライズ)される現代において、この「正解の提示」は、時として受け手の心を停止させてしまうことがある。
すべてが完璧に定義され、閉じられた表現は、便利な「生成物」にはなっても、個人の血肉となる「体験」にはなりにくい。
かつて、原作とアニメの間で揺れ動くラムちゃんに、私は確かに「生命」を感じていた。
今の完璧な彼女は、あまりにも美しく、そして動かない。いや、物理的には滑らかに動いているのだが、私の心の中に「引っかかる」ための棘(とげ)が、丁寧に研磨されてしまっているような気がしてならない。
便利さと正確さを手に入れた引き換えに、私たちは、あのアナログで不器用な「想像の余地」を、どこへ置いてきてしまったのだろうか。
書き終えてなお、その答えは出ていない。ただ、私の部屋にある1920年代の英国製アンティーク家具が、ガタついて使いにくいのに、なぜか手放せない理由だけは、少しわかったような気がしている。
【マーケティングコラム第148回】
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