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短編小説・樹脂の喉

その一滴を止めることは、彼女を殺すことだった。

三十年前の夏の朝、白いワンピースを泥に汚し、少女は「星の涙」を集めていた。
「露を数えれば、嫌な昨日が消えるの」
その嘘という檻に、自分も閉じ込められていたのだと気づいたのは、彼女が消えた後だった。
防水塗装職人として生きる秋良(あきら)は、自室の雨漏りを直さぬまま、彼女の気配を保存し続けてきた。
しかし、激しい嵐の夜。彼は職人としての本能のままに、過去を灰色の樹脂で封印することを決意する。
それは修繕か、それとも埋葬か。完璧に乾いた部屋に、かつてない「渇き」が満ちていく。

 ◇ ◇ ◇

 この世のすべての隙間をウレタン樹脂で埋めて回るのが、私の仕事だ。   
 粘り気のある樹脂をクラックに流し込み、水の侵入という「腐敗の種」を拒絶する。私が手に取るコーキングガンは、十年以上使い込んでいるせいで、トリガーを引くたびに動物の喉を鳴らすような微かな音を立てた。かつて新宿の巨大な商業ビルの地下を一人で補修した際、真っ暗な沈黙の中で、この音だけが私の味方だった。あの時の地下室の、コンクリートが吐き出す特有の土埃の匂いが、今も雨の気配が濃くなるとふいに鼻を突く。

 依頼主は満足し、私は報酬を受け取る。だが、私の自宅のベランダにある、あの忌々しいひび割れだけは、もう三年も放置されたままだ。

 今でも、靴下が濡れるあの冷たい感覚を覚えると、反射的に息を止めてしまう。たとえそれが、オフィス街の水たまりをうっかり踏んだだけのことであっても。
 オフィスビルの谷間。排水溝のそばで、誰かが落とした真っ赤なキャンディが溶け、どろりとした着色料の跡を作っている。それを見下ろしながら、私は自分の靴の中に染み込んでくる冷たさを数えている。三十年前、あの白いワンピースの裾を汚していた泥と同じ、救いようのない色の広がりを。

 遠くで救急車のサイレンが鳴っている。それが、鳥の鋭い鳴き声に聞こえた瞬間に、霧が立ち込めてきた。アスファルトは消え、私の足首を冷たい露が叩く。

 ◇ ◇ ◇

 子ども時代の夏休みの朝。近くに沼があり、そこから朝霧が立ちのぼる。あの頃の霧は、空気が水に変わる途中の、中途半端な煮こごりのようだった。

 白い視界の中で、白い影が近づいてきた。凪(なぎ)さんだ。
 彼女はいつも、袖のない白いワンピースを着ていた。朝の冷気に晒された彼女の細い腕には、朝露が小さな粒となって無数に付着し、まるで彼女自身が霧の一部になって溶け出しているように見えた。

「ねえ、秋良。星って、夜が終わる時に泣くのを知ってる?」
 彼女は小さな香水瓶を持ち、一心に朝露を集めていた。草むらから漂う、むせ返るような青臭い匂い。

 足元の草むらには、半分土に埋もれた古いホーロー看板が転がっていた。そこには「肥料」と書かれた文字の、最後の「料」の字だけが剥がれ落ちていた。一匹の蟻がその文字の縁を、まるで迷路を解くように延々と歩いている。彼女はそれらに一瞥もくれず、ただ瓶の中に水を溜めていた。

 彼女が屈んだ拍子に、ノースリーブの広い襟ぐりから、彼女の胸元が不意に覗いた。
 そこにあったのは、朝露の透明さとは対照的な、濁った色の塊だった。それは彼女の肌の下で、あってはならない熱を持ち、不吉な生き物のように蠢(うごめ)いているように見えた。
 彼女が背負っている「昨日」が、その白すぎる生地を内側から食い破り、黒ずんだ毒となって漏れ出している。私はそれを目撃してしまった。

 私の視線に気づいた瞬間、凪さんは両手で耳を強く塞ぎ、狂ったように頭を振った。
「聞こえる。まだ、昨日の音が聞こえるの」
 彼女は震える手で、私に空の小瓶を突き出した。
「一滴数えるたびにね、昨日までの嫌なことが一つずつ消えていくの。……水の中なら、叩かれても痛くないのかな」
 その言葉は、祈りというよりは、自分自身を騙し続けるための薄氷のような嘘だった。私はその嘘を暴く勇気もなく、ただ彼女の共犯者として、露に打たれて羽を動かせなくなった一匹の大きな蛾を避けるようにして、一滴の露を追い求めた。

 だが、季節が変わり、その嘘は物理的な重みを持って砕け散った。

 冬の朝、側溝に張った分厚い氷を前に、凪さんは絶叫に近い声を漏らした。
「閉じ込められちゃった。あの日の声も、あの日の匂いも、全部。割らなきゃ。割って、流さなきゃ」

 彼女は素手で氷を叩き、指先を血で染めながら、側溝の脇に転がる半分凍りついた空き缶の「おしるこ」を蹴り飛ばした。氷を割るたびに響く「パリン」という乾いた音は、彼女自身の骨が折れる音のように私の耳を打った。

 秋良、と彼女は私を呼んだ。その瞳には、夏にはなかった暗い憎悪が宿っていた。
「あなた、私が汚される音を、氷が割れる音みたいに楽しんで聞いてたんでしょう」
「違う、僕は……」
「もうダメ。露が凍っちゃったから、私はもう、昨日の外へは出られない」
 彼女は小瓶を氷の上に叩きつけた。瓶は割れず、ただ暗い側溝の奥へと滑っていき、彼女の姿とともに私の人生から消失した。

 ◇ ◇ ◇

 それから三十年、私は彼女を「保存」し続けてきた。ベランダの雨漏りは、彼女の時間がまだ流れていることを示す、唯一の脈動だった。

 だが、今夜、すべてが終わる。
 激しい嵐が窓を叩き、部屋の床にはすでに薄い水たまりができている。このままでは部屋は腐り、私の生活は瓦解する。

 私は、震える手で道具箱からコーキングガンを取り出した。
 職人としての本能が、私の意思を無視して的確にひび割れを捉える。灰色の樹脂が、凪の「昨日」が漏れ出していたあの隙間へと、暴力的なまでに滑らかに注入されていく。

「一、二、三……」

 かつて露を数えたように、私は樹脂を流し込む。

 それは修繕ではなく、埋葬だった。

 ヘラで表面を均(なら)そうとした時、不意に指先が樹脂に触れた。硬化を始めたばかりのその物質は、驚くほど生温かく、凪の腕に浮き出ていたあの朝露の粒を思い出させた。私は一瞬、息を止める。職人なら決して許されない、均し損ねの「うねり」がそこに残った。それは鏡面のような静寂の中に、一点だけ、彼女の悲鳴が混じった不純物として刻まれた。

​ 私の手によって、凪との唯一の接点が、表情を失った滑らかな樹脂の被膜によって封じられていく。ひび割れが消えるたびに、私の肺を占めていたあの朝霧が、急速に干上がっていくのを感じる。

​ 嵐が過ぎ去ったあとの部屋は、不自然なほどに静まり返っていた。

 床を拭き、バケツを片付ける。そこにあるのは、完璧に乾いた、そして完璧に死んだ空間だった。

 私はプロとしての仕事を完遂した。もう二度と、私の靴下が濡れることも、彼女の悲鳴が混じった雨音を聞くこともない。

​ 私は、塞がれたばかりのその樹脂の跡に、そっと指を触れた。

 そこには、何の熱も、何の湿り気もなかった。

 ただ、ヘラの跡がわずかに波打っているその一点だけが、剥製にされた思い出の傷跡のように、私の指先を優しく、拒絶するように弾き返した。

​ 私は、彼女を二度殺したのではないか?

 それとも、ようやく彼女を「昨日」から解放したのだろうか。

​ 完璧に乾いた沈黙の中で、私はただ、自分の喉が激しく渇いていることに気づく。

 蛇口から流れる水は、もはや星の涙でも、消したかった昨日の残滓でもない。ただの、無機質な液体の音として、虚しく部屋に響くだけだった。

​(了)

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。