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【歴史散策エッセイ】板橋区・世田谷区散歩と古民家の土間についての雑感

 そろそろ体重も落とさなくてはならないし、芸術だの文芸だの歴史だのと努力しなければならないことが目白押しの日々を送っているのに、いまいち、やる気が出ないのは暑さのせいである(と思うことにしている)。しかしこの暑さの中にあっても板橋区と世田谷区の歴史散歩はそれなりに成果を上げている。

 昨日、成増駅からバスで数分の位置にある東京大仏に赴いたら、境内に美しい蓮の花が咲いていた。ブッディストである僕も、このように綺麗な蓮の花を拝める機会は少ない。ありがたや。汚泥の中からこそ美しい蓮華は咲くのだ。この人間界、自我が渦巻き、地獄道そのもの、非常に醜いものだが、煩悩即菩提の言葉通り、悟りの境地はまさにその醜さの中からこそ生まれ出でるのだと云々。

 この散歩の主目的は、板橋区立美術館で開催中の『2025イタリヤボローニャ国際絵本原画展』に行くことだった。この絵本原画展、毎年開催され、僕は毎年欠かさずに行っているのだが、今年の作品は実に良かった。

 二日間行ったのだが、図録を一冊とインドの絵本を購入。絵本が4500円近くして、財布が縮んでしまった。
 毎年行っている展覧会である。素晴らしい原画を紹介したいが、自己責任ということなので、写真は載せず、感想もロシアとインドの絵本が非常に良かったとだけ述べるにとどめておきたいと思う。それにつけても、今年は本当に素晴らしい作品ばかりだった。

 東武東上線の成増駅からバスでゆくと、東京大仏近くの赤塚庁舎というバス停で降りることができる(区立美術館というバス停で降りる手もある)。そこから階段のある坂道を下ると、すぐに植物園の草木の生命力満ち溢れているのが見えてくる。その先は東京大仏こと乗蓮寺である。東京大仏は、もともと板橋宿のお寺であったが、こちらに移転してきた。天保の飢饉の慰霊碑もある。この地はもともと赤塚城の二の丸であったらしい。赤塚城というのは戦国時代、小田原北条氏の支城であった。北条氏の支城ネットワークの一部で、兵站基地みたいなところだったのだろう。

 赤トンボである。池の中にはキングギドラ色の鯉が躍っていた。どちらも縁起の良い色である。

 東京大仏は小さい頃からよく行っている地元(?)の寺である。というのは、祖母の家が板橋区にあるから。

 山門の屋根は、銅板葺きである。両側に立派な仁王像がそびえている。

 東京大仏から、さらに坂道を下ってゆくと、板橋区美術館前のアイスクリーム屋さんが、山羊を飼っているのが見えてくる。可愛い山羊を眺めながら、釣り堀と化している池の先へふらふらと歩き、郷土資料館に入ると、幕末のゲベール銃が展示されている。入り口には幕末の砲術家高島秋帆を彷彿とする大砲が模造されている。これが高島平の名前の由来である。資料館の庭には、古民家が移築されている。田の字型の基本形の民家である。

 古民家の屋根は茅葺きである。土間には、カマドがあり、それに対応している位置に囲炉裏もある。

 先日の世田谷区歴史散歩の際、資料館にある代官の屋敷を撮影したのであるが、これもまたオツなものであった。日本家屋は、土間があると何故かホッとする。それにしても、茅葺き屋根を中から見上げると面白い。

 ここで、大学卒業直前に行った青森の三内丸山遺跡の巨大竪穴式住居を見てみよう。(ずいぶん昔の話だ)

 一体、何を語りたいのか、自分でよくわからないが、土間というのはなんでも、原始古代の生活の名残りなのだとか、誰かが民俗学の本で書いていた。さらに、板の間は中世の名残りで、畳の間は近世の名残りなのだという風に、その本では屋内の生活空間を、時代区分で三等分しているのである。

 山梨県の父方の実家にも、広めの土間があったが、僕が生まれる前にすっかり板の間にしてしまったそうだ。土間なんて不便であるから、時代の変化に抗う必要にないと思うが、名残りを発見すると嬉しい。古民家の土間にはカマドがあるものである。大体、カマドのあるところの向かいに囲炉裏があって、この二箇所が調理場ということになる。日本人にとって調理とは、なによりも煮炊きであった。縄文土器や、弥生土器を連想してみる。屋内で火を扱って、煙を屋根から外に出す。そのため、縄文人の竪穴式住居は、土間を基調としたのだろう。古民家のカマドのある土間の機能性もきっと似たようなものだ。カマドには、カマド神がいる。米の煮炊きは宗教祭祀みたいなもんだ、というと言い過ぎだが、田植えだのなんだのという農耕は、日本の信仰の根本であるばかりか、無数の生活文化や芸能のルーツの一つであったりする。

 山梨県の祖母が亡くなった時、土葬するまでの間(まだ土葬だった)、一番奥の座敷に寝かしていたのであるが、親戚のおばさんが「お母さんをひとりで寝かせるのは可哀想」と言って、何故かその部屋にさらに布団を敷き、自分も一緒に寝たのだという。古民家の奥の座敷は死者のための部屋であるわけで、そんなことをしていいのかよくわからないが、古民家の間取りと宗教祭祀の関係はもう一度、考えてみたいテーマである(今回はあまり熟考せずに寄稿している)。

 江戸時代、旅人が草鞋を脱ぐと、主人だの女房だのは、たらいに水を汲んできて、まず足を洗わせたものである。
 また、目黒の五百羅漢寺では、参詣する際、草鞋を脱ぐコースと、草鞋を脱がないコースのふたつが用意されていたものだ。つまり江戸時代の人間にとって、草鞋を脱ぐことはそれなりに億劫なことであった。
 してみると土間という空間は、草鞋のまま、気軽に入れる空間であるから、旅人にとっちゃ、まあ非常に便利であったに違いない(妄想である)。
 土間の話ばかりしているようである。東京大仏の話からどうして古民家の土間の話になってしまったのか。
 日本の古民家の基本形は、土間の横に田の字型の四間がついたものだが、これが変化していって、無数の型があることが民俗学の本などでは紹介されている。
 中でも、岩手県の遠野にゆくと見られる曲屋は、L字型の古民家で、お馬さんを飼っている馬屋が、土間とそのまま連結している優れものだ。


 遠野に、お馬さんと人間の娘さんが結ばれてしまうオシラ様の伝承があるその理由は、この曲屋の構造における、人間と馬の生活の距離感の近さからもさまざまな想像ができる。
 当時のお馬さんと人間の関係について語るために、路傍の馬頭観音像の話でもしようと思ったが、あまりにも脱線してしまうので、ここらへんで終わりにしよう。
 それではお馬さんを大切に!(古民家の話だったのを忘れてしまったかのようである)

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