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死ぬのがあんまりこわくない──与論島リサーチ

ひょんなことから与論島という鹿児島最南端にある離島の小学校で、総合の授業を任せてもらうことになった。とはいっても、そこは縁もゆかりも無いばかりか、そもそも足を運んだことすらない。そこで、授業の内容を決めるためのリサーチとして1週間、与論で過ごした。(萩原)

きれい

これまで劇団では何回か沖縄で公演や滞在制作などをしてきたが、よく考えたらひとりで沖縄に行くのははじめて。まず那覇から本部へ向かい、念願だった美ら海水族館でジンベエザメをぼーっと眺めていたわけなのだが、同じ海洋博公園にあった海洋文化館がとてもよかった。海洋文化ということで吐噶喇列島からミクロネシアの島々までを網羅するこの博物館。それは、琉球弧という文化区分よりも遥かに広がりを持っているようだ。そんな地図の書き換えは、後述の北山文化圏のような形で今回の滞在にインスピレーションを与えてもらった。

海洋文化館

与論島に行く前に何冊かの本に触れつつ、なんとなくの基礎情報を仕入れておいた。たとえばそこには、1972年の沖縄返還前に与論島と沖縄との間に国境が引かれていたこと、あるいは明治時代には口減らしのために九州の炭鉱への移民政策や、戦争末期には満州開拓団が組織されたこと、あるいは国指定の無形民俗文化財である十五夜踊りが年3回行われていることなどが記されていた。沖縄本島の北から20km、行政区画としては鹿児島県に属する人口5000人ばかりの小さな島だけれども、なんだかすごく掘りがいがありそうな場所だ。

本部港からフェリーに乗って、2時間あまりで与論島へ到着する。

おおきい

20kmとはいっても、海を挟んでのそれは思ったよりもはるかに近い。晴れた日には辺戸岬の向こうに見えるやんばるの山々。それはどこか「対岸」とでもいうべき近さだ。ここに国境が引かれたというのが、やっぱり実感としてどうもよくわからない。

歴史的に見ても、与論はかつて北山王国の支配下に置かれていた。しかしながら、中山王の尚巴志が琉球を統一し、北山は滅ぼされ、与論も琉球の支配下に入る。そしてその後、17世紀初頭に薩摩による琉球侵攻が行われた。しかし、薩摩は琉球王国を直接支配するのではなく存続させることで、中国との冊封・交易関係を維持し、その利益を取り込む体制を選択。その結果、薩摩の支配地域は与論までとなる。それによって、薩摩は、中国との中継貿易によって生み出される琉球王朝の富を最大限搾取することが可能になった。かつての国境や現在の県境が与論島を境にして引かれているのはそのような歴史的な経緯によるものだという。

つまり、もともとは北山王府の文化圏であり、琉球王国の一部であったにもかかわらず、政治的な理由によって、人為的に線が引かれた。とはいえ、もちろん庶民の生活は線は引かれず、とくにやんばる地域と与論では近代以降も活発な交流が行われた。たとえばチガヤや薪を与論はやんばるから仕入れたし、第二次世界大戦後に国境が引かれていたときには国境を挟んで話し合う「海上集会」という活動が行われていた。鹿児島県と沖縄県といった線を引くよりも、「北山文化圏」のひとつとして見たほうが実体に近いのかもしれない。なお、今帰仁村には北山文化圏センターを設立する動きがあるという。

そうやって考えていくと、不思議なことにこれまで「沖縄」と思っていたいろいろな部分は、沖縄ではなく「那覇」であるかもしれないと考えるようになる。当然のことながら沖縄といっても多様であり、石垣島などの先島諸島とやんばるではいろいろな事情は異なるだろう。もしかしたら、米軍基地の問題や沖縄戦の問題なども北山文化圏においては少し語り方が異なるかもしれないと想像する。

海を隔ててすぐ沖縄本島が見える

琉球の北端として与論を中心にしてみると、「沖縄」に対する印象も大きく変わる。

とはいえ、やはりここが「鹿児島」であると感じるのは、イントネーションの違いが沖縄よりも少ないこと、一部に破風墓があるものの、墓石の多くが日本風であること、あるいはテレビを付けると鹿児島の放送が流れることなどばかりではない。沖縄では決定的にある「ウチナンチュー」と「ヤマトンチュー」という区分けが、与論では薄い。与論島ではユンヌンチュー(与論人)とヤマトンチューは対概念ではない。だからわたしのような部外者がのこのことやってきて、郷土教育の授業を受け持つことができる。もし、これが沖縄だったら、きっと問題となるだろうし、仕事を引き受けるかは相当に逡巡すると思う。そしてもちろん、沖縄が基地負担をはじめとして本土に連綿と搾取され続けているように、与論もまたそれが見えにくいだけで被搾取構造のなかにあると想像する。しかし、見えにくいからそれを見ずにわたしが担っていいのか? あるいは島の人間から依頼されたからOKなのか? 「マレビトとしてのアーティスト」といった言説を安易に引用することなく、これらについては折りに触れて再考すべきだろう。

今回の滞在で、わたしは何者であるかについて問われることはなかったし、多分今後もそのような事態に直面することはきっとないと思う。それは、いいことでも悪いことでもない。しかしながら「東京から来た」という言葉にまとわりつく「中央から来た」というニュアンスがどうにも不愉快なので、だんだんと「東京の北区」もしくは「東京の飛鳥山、渋沢栄一が住んでいたところの近所」というところから来たというようになっていった(飛鳥山はわたしの出生地である)。

前置きが長くなった。

今回は、コーディネートをしてくれるヨロンSCの方々と一緒にリサーチを行った。地元ツアーガイドである麓さんの案内で道なき道をかき分けながら国指定史跡である与論城跡を解説してもらったり、与論民俗村の村長である菊さんから与論の民具の解説を受けたりした。そのような、いわゆるリサーチのみならず、カヌーやバナナボート、シュノーケリングでウミガメと一緒に泳ぐような体験をさせてもらったりした。シュノーケリング、ハマりそうだ……。

きれい

印象に残っている話をいくつか。

十五夜踊りの舞台となる地主神社でのこと。

わたしと同世代くらいの神主である沖道成さんは、葬送の変遷について語ってくれた。もともとはほかの南洋の島と同様に風葬文化だった与論は、明治以降、衛生上の理由からだんだんと土葬になっていった。そして、土葬した遺体は、数年かけて朽ち、洗骨をして改葬する。当時、まだ幼かった道成さんは、気持ち悪いと思って洗骨を避けていたが、周囲の大人たちに言われてしぶしぶその輪に加わったという。しかし、実際に洗骨をしてみると、頭蓋骨から言い得ぬような暖かさを覚えたそうだ。ちなみに洗骨は、早朝、陽の上りきらぬうちに行う。2003年に火葬場ができて以降は、土葬の風習はなくなったという。

また、近年、島にできたセレモニーホールも葬送儀礼の姿を変えたという。それまでは各家庭で行われていた通夜や葬式だが、当然、直会をはじめとするさまざまな準備が必要となる。この作業は、かつて共同体によって支えられていたものの、2011年にセレモニーホールが開設されることによって準備や片付けを外部化できるようになった。その負担は小さくなったというが、共同体の関係は少し変わってしまったそうだ。なお、与論では結婚式はいまだに小学校からの同級生らによって仕切られるということで、かつてに比べたら薄くなったのかもしれないが、それでもいまだにその関係性はほかの地域よりも濃いと思う。

また、当時を知る人にかつて沖縄との間に存在した北緯27度の国境線について話を聞いてみると、じつはさほど実感がなかったという。自由に行き来できる時代を知っていれば別かもしれないが、そういうものだと受け取っていたそうだ。その人だけがそうだったのかはわからないけれども、国境の話については、ほかの人々からもあまり話題に上がらなかったのが印象的(なので、あえて話を振らなかった)。それは、生活実感の外にあるものかもしれない。国境についての話で印象的だったのが、それまで普通に行われていた交通が途絶されたことによって、赤瓦を運べなくなったことから、与論から赤瓦の家が消えたという。資材が入らないことによって、たった20年で、生活文化は変わってしまう。

破風墓もある

いろいろな人々の話を聞いたり図書館に行ったり飲みにいったりしつつ(「与論献奉」と呼ばれる焼酎一気飲み文化がある)、今回は、大人を対象にしたワークショップを行った。

何をしようかなと思ったものの、シンプルに、拡大した地図を用意して、思い出の場所を付箋で貼り付けてもらった。参加してくれたのは与論在住歴3日目〜64年目まで多様な人々。プロポーズの場所、与論献奉に明け暮れた浜、子供の頃にサトウキビを運搬した道……など、いろいろな思い出が可視化されて、それまでとは違うレイヤーが浮かび上がってくる。なかでもわたしとして白眉だったエピソードが高校生の頃、失恋した夜にいてもたってもいれなくなって、原付で向かった島の外れの自販機。夜中に家を飛び出す衝動と、島の外には出られないという無力さを感じられて、この島で生活するということのリアリティに触れたような気がした。


WSでつくった地図

与論島は、ユンヌンチュと呼ばれるネイティブばかりでなく、移住者も多いし、観光客も年間7万人が訪れる。リサーチをしているとどうしても、歴史であったり継承文化であったり、「島の本質」みたいなものに注目してしまいがちだけれども、今回は子どもとの事業ということもあり、あまりそうはしないほうがいいんじゃないかと思う。ネイティブもいるし、移住者もいるし、観光客もいるし、それぞれが等価に与論島の風景を作っている。そのなかに小学生も含まれる。その意味で、生態系が垣間見えるような授業にしたいなと思っている。たとえば、与論島の各所には「思い出ノート」という観光客が感想を記したノートが多数残っている。そうやって思い出が積み重なっていることは、与論島の大切な風景の一部なのではないかと思う。

最後に、与論島で島の人々に話を聞いていると、死ぬことがこわくないように思えてきたのがとても不思議だった。いや、きっとそれは怖いことではあるのだろうが、祖先とともにあり多くの人が最後の瞬間を家のなかの神棚の前、先祖に見守られながら逝くから病院に霊安室がないという。また、家名(やーなー)は、先祖の誰かの名前に関連しているという。死の旅路という言葉があるけれども、死んだあともいろいろあるし、死も生も巡りのなかのひとつの現象に過ぎないと思えてくる。それは、都市で暮らしていて、死の先にはなにもないと感じている(より精確に言えば、死の先に何も感じない)わたしの実感とは大きく異なる。与論島で話を聞いていると、わたしたち生きている状態と死んでいる状態に強い差異はないし、そうすると当たり前のように「個人」という概念は成立しない。だから、必然的に公共の捉え方が異なるのだ。それは共同体主義とも少し違う。

実際のワークショップは10月と来年1月に行われる予定。詳細な報告書もつくろうと思っている(わたしが自分でつくる)ので、そちらもお楽しみに。

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