ビアク島へ行った叔父の話─魚雷、漂流、飢餓、そして捕虜に至るまで
鉱山勤務を辞退、海軍軍属へ
父の兄、私にとっての叔父は、もともと鉱山で働いていました。
そのため徴兵されることはなく、戦時中も国内で仕事を続けていたのです。
ところが昭和19年――記憶が曖昧ですが、もしかすると18年だったかもしれません――突然、鉱山を辞めて帰ってきました。しかも、家族の誰にも相談することなく。
それを知ったおじさんの父(私から見れば祖父)は、怒ってこう言ったそうです。
「なんで辞めたんだ! 赤紙がくるぞ!」
その言葉通り、1週間もしないうちに本当に召集令状(赤紙)が届きました。
しかし徴兵検査の結果は不合格。
当時、日本の戦局は悪化の一途をたどっていましたが、それでも「誰でも兵士になれた」というわけではなかったようです。
徴兵検査で不合格となった理由は、身長が足りなかったからだと聞きました。
確かに、栄養状態の良くない環境で幼少期を過ごしていましたから、その影響もあったのかもしれません。
魚雷で撃沈、海での漂流
こうして兵士ではなく「軍属」として働くことになったおじさん。
最初の任務は、台湾へ物資を運ぶ輸送船に乗ることでした。積み荷は大量のビールがあったと話していました。
ところが、この初任務でいきなり命の危機に直面します。
夜間航行中、潜水艦からの魚雷攻撃を受け、自分の乗っていた船は撃沈されてしまったのです。
おじさんは波間にぷかぷかと漂っていたところ、仲間の輸送船に救助され、九死に一生を得ました。
当然、この撃沈事件については、実家の家族は誰も知りませんでした。
その後の詳しい経緯は分かりませんが、おじさんには休暇が与えられたそうです。
当時は今のように通信手段が発達していなかったからだと思いますが、家族への事前連絡は一切なし。
ある日、突然おじさんが実家に帰ってきたのです。家族は驚きましたが、ここで初めて自分の乗った船が撃沈された話を聞いていたそうです。
その時の心情はわかりませんが、とても心配したと思います。
とはいえ、休暇といっても長くはいられません。
父から聞いた話では、実家での滞在は実質1日ほどだったそうです。
というのも、当時の鉄道は蒸気機関車。今のように新幹線で一気に移動できるわけではなく、往復の時間を考えれば、家で過ごせる時間はごくわずかでした。
ここで、誰がそういうふうに決めたのかわかりませんが、休暇を延ばすことにしました。
もちろん軍の正式な許可を取ったわけではありません。そんなものが下りるはずもありませんから。
父親の陰膳と診断書
ここで登場するのが、おじさんの父──
私にとっての祖父です。
祖父は元学校の教員で頭が良く、
字や絵が抜群に上手だったそうですり
一度見たものを細部まで記憶し、
完璧に模写できるという特技を持っており、
書道をやっている人が祖父の字を見ると、
「この字を書いた方は、
どんな先生に何年くらい習ったのですか?」
と驚かれたそうです。
子ども時代からそんな字を書いていたのですから驚きです。
なぜそんな人が、貧しい農家の家を継ぐことになったのか──
その話はまた別の機会に書きたいと思いますが、ともかく祖父は、地元の病院の医師とも
親しくしていました。
祖父は、親交のあった地元の病院の医師に、
息子の診断書の作成を頼んだそうです。
もちろん本当の病気ではなく、「療養が必要」
という内容を書いてもらったのです。
そのおかげで、おじさんは実家に
約1週間滞在することができたといいます。
本当は、祖父も祖母も、おじさんには
もう行ってほしくなかったのだと思います。
父から聞いた話では、家では毎日欠かさず
「陰膳」をしていたそうです。
これは、遠く離れた家族が無事に
帰ってくるよう願いを込めて、
食事を一膳用意する昔ながらの風習です。
陸軍に行っていたもう1人のおじ、
東京に学徒動員で働いていたおばも含めると、
3人分の陰膳を毎日用意していたそうです。
そして、おじさんは次の任地である
ニューギニアへ向かうことになります。
語られなかった戦争体験
おじさんは、戦地での体験について
ほとんど語らなかった──
これは父から何度も聞かされたことです。
私が小学校5年生のとき、父と一緒におじさんの家へ遊びに行ったことがありました。
その席で父が「戦争の話を聞きたい」と言うと、おじさんの顔つきが変わり、
「何を今さら……そんな話はしない。」
と、怒ったように言いました。
当時の私は理由が分かりませんでしたが、
今なら想像できます。
──それほど辛い体験で、
思い出すことさえ嫌だったのだろうと。
ビアク島から帰ってくるということが、
どれほど奇跡的なことだったのか。
私はだいぶ大人になってから知りました。
繋ぎ合わせた戦争の記憶─地獄のビアク島
これから話すのは、父から聞いた話と、
私自身が直接聞いた話が混ざったものです。
おじさんが戦争の話をする時は、
まるで急に思い出したかのように
一言二言だけを口にしました。
それは独り言のようでもあり、
具体的な順序や詳細を語ることはありません。
断片的に語られたそれらの言葉を、
私なりにつなぎ合わせると──
こんな話になります。
ニューギニアへどう渡ったのか、
どんな任務が与えられたのか──
詳しいことは分かりません。
ただ、おじさんが断片的に語った内容から、
いくつかの場面を拾い出すことはできます。
・ビアク島での出来事
海軍の偉い人を川向こうに渡すとき、
軍属の人たちが、その人物をまるで
神輿のように担いで渡った。
・食料の確保
ヤシの木に登り、実を取って食料にした。
・命の危険を感じた瞬間
ある日、ヤシの木から落ちそうになり、
必死に幹にしがみついた。
それでもズルズルと滑り落ち、
幹との摩擦で胸の皮がむけてしまった。
この時おじさんは「もう死ぬ」と思ったそうです。
子どもだった私は、なぜそれで死ぬと思ったのか理解できませんでした。
しかし今なら分かります。
当時はろくな医薬品もなく、劣悪な環境の中での生活。
感染症が命取りになる──そんな時代だったのです。
・艦砲射撃の恐怖
あるとき、艦砲射撃を受けた。
ものすごい音と振動。おじさんたちは洞窟に避難していたという。
その砲撃の圧力に耐えきれず、「もうここを出る!」と錯乱して外へ出ようとした仲間を、みんなで必死に押さえつけた。
・敵より恐ろしいもの
敵の攻撃も恐ろしかったが、それ以上に
飢えや病気で仲間が次々と命を落としていった。
夜はマングローブの木の上に避難して眠るのだが、時々「ボチャン」と誰かが水に落ちる音がする。
そのたびに「ああ、また一人死んだな」と思い、眠りに落ちていったという。
・限界の瞬間
やがて、自分も飢えで動けなくなっていく。
いよいよこれまで、と覚悟を決め、最後の力を振り絞って浜に出た。
部隊について行く力もなくなったのか、
逃げているうちに部隊からはぐれたのか、
詳しい経緯はわかりません。
砂浜で仰向けになり、「ここで死ぬんだな」と思ったそうです。
捕虜に天国と言わしめた、収容所での思わぬ待遇
そこに連合軍の兵士が現れた。
極度の栄養失調で動くこともできず、
おじさんは手刀を作り、自分の首を切るジェスチャーで「殺してくれ」と頼んだ。
だが、連合軍兵士はジェスチャーで「ダメだ」と答え、そのままおじさんを抱えて運び出した。
捕虜になってからの生活について、
おじさんはこう言いました。
「ここからは天国だった」
医療を受けられること、食事が十分にあること─日本軍に所属していた頃には全くなかった環境が、そこにはありました。
・初めての飛行機
オーストラリアにある捕虜収容所へ運ばれる際、生まれて初めて飛行機に乗った。
・砂の海
捕虜収容所の周囲には何もなく、一面が砂漠。
山すらなく、まるで「海」のような光景だった。初めて目にする景色に、おじさんは目を見張ったという。
・毎日の野球
捕虜収容所では、ほとんど毎日のように
大好きな野球をして過ごした。
捕虜収容所の思い出を語るとき、
おじさんはこんな言葉を口にしました。
「白人は根性がいいっけ」
連合軍の兵士がタバコを吸おうとすると、
近くに捕虜がいれば、必ず「お前もどうだ?」と勧めてくれたそうです。
みんな自分だけ吸うことは決してしなかった。
「いつもそうなんだよ」と、おじさんは少し懐かしそうに話していました。
当時小学生だった私は、おじさんが
「白人は根性がいいっけ」とわざわざ言った理由が分かりませんでした。
おじさんは「連合軍」といつも呼ぶのに、
なぜあえてこの話になると「白人」と言ったのか──。
帝国を肯定できなかった理由
ここからは推測になってしまいますが、
おじさんにとって捕虜収容所での生活は、
価値観を揺さぶられる体験だったのかもしれません。
当時、西欧諸国は様々な国を植民地支配していました。
そして私の祖父(おじさんの父)は、子どもたちに「世界は白人に支配されている」と話していたといいます。
そんな時代に、敵国であるはずの「白人」に捕虜として捕らえられながら、丁重に扱われた──。
だからこそ、おじさんの口からは「連合軍」ではなく、「白人」という言葉が出たのではないだろうかと、今は思うのです。
おじさんは、戦後の「日本だけが全部悪い」
という価値観には強く反発していました。
「日本は敗戦国だから、1から10まで全て悪いと言われた。でも、それは違う」
この話になると、かなり感情的になるほどでした。
しかし一方で、大日本帝国を肯定するような発言も一切しませんでした。
それはやはり、軍属として、人として全く大切に扱われなかった記憶があるからだと思います。
例えば、軍での体罰は酷く、ある人が5分遅刻したという理由だけで、硬い棒で頭を殴られた──手加減なく。
そんな仕打ちを受ける一方で、捕虜収容所では「白人」に大切に扱われたのです。
もちろん、連合軍の兵士の中にも本心では「殺したい」と思っていた人も大勢いたことでしょう。
それでも、ルールを守った。
「ここからは天国」という言葉に表れるように、おじさんの心には、否定も肯定もできない複雑な感情があったのではないでしょうか。
叔父が鉱山を辞めた理由
なぜ急に鉱山を辞めたのか、その理由は今となっては誰も分かりません。
しかし、自分でもその意味を理解していたはずです。
私の母方の祖父も、戦時中は鉱山で働いていたため徴兵されませんでした。
当時の心境は「自分だけいいのか」という後ろめたさでいっぱいだったといいます。
おじさんも、きっと同じような気持ちを抱えていたのではないでしょうか。
だからこそ、そこまでして戦ったあの戦争につい否定も肯定もできない複雑な心境があったのだと思うのです。
私も歳を重ね、否定も肯定もできない気持ちになることに、直面することがありました。
もちろん、今となってはおじさんの本当の気持ちを確かめることはできません。
──ただ、その沈黙の奥にあった思いは、
今も私の中で響き続けています。
久助
