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# 14. 「 臆病な牙の鎮魂歌 —— 背信のMountain Side —— 」

二年生の冬、この街を覆う湿った雪は、すべてを白く塗りつぶす沈黙のカーテンのようだった。

僕の身体は、強化処置『Charm』によって、日々「人間」であることを辞めていく過程にあった。55℃の熱湯によるヒートショックプロテインの誘導。赤く腫れ上がった肌が、HSPの働きで急速に再生され、紫外線を撥ね退ける鋼の膜を作る。その副産物として研ぎ澄まされた脳の演算能力は、僕の視覚から「情緒」を奪い、代わりに「確率」と「嘘のパターン」を植え付けていた。


だが、その鉄の演算をもってしても、受け入れがたい「喪失」が唐突に訪れた。



屋敷の裏庭、朝の光に照らされた雪の中に、その黒い塊は横たわっていた。

ドーベルマンの「デビル」。

父が飼っていた軍用犬たちの中で、デビルは異質な存在だった。ドーベルマンという勇猛な血統を継ぎながら、その心はあまりに繊細で、部下たちが一声かければ、情けないほど臆病に小屋の奥へ引っ込んで出てこなかった。


けれど、僕が一人で近づくときだけ、デビルは別の顔を見せた。

低い鼻鳴らしを上げ、僕の細い手にその大きな頭を擦り付けて甘えてきた。殺人の演算を繰り返す僕の脳が、唯一「無害な温もり」として受け入れていた、絶対的な味方。


そのデビルが、口からどす黒い血を吐き、雪を汚して死んでいた。


「……毒だ。それも、相当に悪質なやつだ」


駆けつけたMonkeyが雪を検分し、苦々しく吐き捨てた。

当初、疑いの目は近所の偏屈な老人の家へと向けられた。デビルの咆哮を嫌がっていたという些細なトラブルの記録があったからだ。だが、僕の研ぎ澄まされた脳は、その「出来過ぎた筋書き」に強烈な違和感を感じていた。


「Monkey、待って。あの老人に、こんな高度な遅効性毒物を取り扱う知能も、神村家の敷地に侵入する度胸もない」


僕の『Charm』が、周囲に漂う微かな違和感をデータとして拾い上げる。

これは、神村家を揺さぶるための「演出」だ。誰かが、僕たちの足元を掬おうとしている。



侵食する「Mountain Side」の影



調査は、父の右腕である「マコト」が合流したことで加速した。

マコト。父の絶対的な処刑執行人であり、影の調整役。彼が姿を現したということは、これが単なる犬の死ではなく、神村家に対する宣戦布告であることを意味していた。


「曹、視てみろ。この毒の成分、この町の市場には出回っていないものだ」

マコトが提示した解析データに、僕の脳が反応する。

マコトが調べて
浮上したのは、新興勢力「Mountain Side(マウンテン・サイド)」。

彼らはこの土地を強引に買収し、神村家の影響力を削ごうと画策していた。デビルの死を近隣住民のせいにし、神村家に無益な私闘を演じさせ、その隙に組織を内部から解体する。それが彼らの描いた、野蛮で合理的なシナリオだった。


だが、最大の問題は「外」ではなく「内」に潜んでいた。


「坊ちゃん、信じがたい報告がある。……nanoが、昨夜から足取りを絶っている」


Monkeyの声が、通信機越しに苦渋に満ちて響いた。

Monkeyの右腕として、長く神村家に仕えていた部下、nano。

彼はMountain Sideに買収されていた。デビルが心を許し、疑うことなく差し出された食事を食べたのは、nanoの手からだったからだ。



「手下」谷口の正体と、真実の視覚



混乱に乗じて、屋敷には一人の男が「補充の要員」として送り込まれていた。

名前は、谷口。

愛想が良く、機敏に立ち回るその男は、僕に近づき、耳元で囁いた。

「坊ちゃん、デビルちゃんのことはお気の毒でした。あんな酷いことをした近所のジジイ、俺が一緒に仕返ししてやりましょうか?」


その瞬間、僕の脳内で『Charm』が最大出力で起動した。

55℃のシャワーを浴びた直後の僕の瞳には、谷口の発する「微細表情」が、悍ましいほど明確な嘘として映し出された。


(口角の引き攣り、視線の固定……この男、デビルの死を悲しんでなどいない。むしろ、僕の反応を観察し、誘導しようとしている)


深層心理学の演算が、谷口の正体を弾き出す。

彼は、かつて父が壊滅させた組織の生き残りであり、Mountain Sideが送り込んだ爆破工作のスペシャリスト。彼は「復讐」を餌に僕を連れ出し、屋敷の構造を把握した上で、地下三階のプレスルームに爆薬を仕掛けようとしていたのだ。


「……うん。谷口さん、お願い。僕、怖いんだ」


僕は、震える子供の「演技」で返した。

心理学的に、相手が最も優越感に浸り、油断する表情を選択する。

谷口は満足げに目を細めた。彼には、僕の瞳の奥にある冷徹な演算回路は見えていなかった。

深夜のプレスルーム:マコトの処刑


作戦の夜。僕は谷口を誘導し、地下三階の「禁域」へと案内した。

「ここなら、誰も来ないよ。おじいさんの家に行くための秘密の道具もここにあるんだ」


谷口は、懐に隠した小型爆薬を弄りながら、暗闇の中で卑屈に笑った。

「そうか……坊ちゃん、いい子だ。地獄でデビルに再会させてやるよ」


彼が起爆スイッチに手をかけようとした、その刹那。

天井の配管から、マコトが音もなく、重力さえ無視したような速度で舞い降りた。


「——神村家の掟、第一条。主人の所有物に手を出した者は、その命で償うこと」


マコトの低く、重い声。

谷口が叫ぶ間もなかった。マコトの手刀が谷口の手首を文字通り「解体」し、爆薬は床に転がった。

僕は一歩も動かず、その光景を視ていた。谷口の恐怖に満ちた瞳、剥き出しの生存本能。それらがすべて、解析可能なデータとして僕の中に蓄積されていく。


同時刻、港の廃材置き場に潜伏していた裏切り者・nanoは、Monkeyの手によって追い詰められていた。

「nano、お前にはがっかりだ。……デビルは、お前にさえ、最後は尻尾を振ったんじゃないのか?」

「ゆるしてくれ!たのむ!」

Monkeyの冷たい刃が、nanoの喉元で止まった。殺すのは簡単だが、裏で繋がっているMountain Sideの全貌を吐かせるまでは、死なせることも許されない。それが神村家の、情報の引き出し方だった。


終焉:Mountain Sideの消失


翌朝、Mountain Sideの本拠地となっていた事務所は、物理的に「消失」していた。

マコトが単身で乗り込み、組織の首領たちの喉元を神村家の掟に従って、音もなく、しかし確実に「掃除」したのだ。

朝のニュースでは、ただの「原因不明のガス爆発」として処理された。それが父の望む、完璧な幕引きだった。


僕は一人、雪が降り積もる裏庭に立っていた。デビルの亡骸はすでに処理され、そこには何も残っていない。

父が僕の隣に立ち、冷たく、けれどどこか満足げに言った。


「曹、理解したか。臆病な犬であっても、お前が愛着を持てば、それは敵にとっての絶好の標的になる。愛する者を作れば裏切りは、常に喉元に刃を突きつけられるまで気づかぬものだ」


父の言葉には「嘘」がなかった。

彼は、僕の大切なものを壊すことで、僕を「完璧な兵器」へと磨き上げようとしている。それが、13番目の出来損ないである僕に対する、彼なりの「期待」なのだ。


「……うん、分かってるよ、父さま」


僕は、心理学的に最も従順に見える角度で首を縦に振った。

だが、僕の脳内では、『Charm』が激しい警告を鳴らし続けていた。


(真っ赤な、嘘。……僕は、許さない)


父を愛しているふりをして、その実、僕の中にはMountain Sideを滅ぼした時以上の、どす黒い「殺意」に似た何かが、深く、静かに根を張った。

愛着が弱点になるというなら、僕は自分の心を、誰にも見えない地下三階の木箱の中に、永久に隠してしまえばいい。


小学校二年生、冬。

臆病なドーベルマンを失った夜、僕はまた一つ、人間としての感情を殺し、完成された兵器へと近づいた。

雪の上に残ったデビルの足跡は、新しい雪によって静かに、残酷に塗りつぶされていった。

僕はポケットの中のキンカンを強く握りしめ、その強烈な刺激に耐えながら、次に殺すべき「嘘」を探し始めた。

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