ベテランの先生とのバトル
職員室には、独特の存在感を放つ人がいる。
私の隣の席には、定年を過ぎてもなお教壇に立つ、ベテランの女性教師が座っている。
10年連続で1年生担任。そう聞いたとき、正直すごいと思った。
今年、私は初めて1年生を担任している。
だから分からないことも多い。そんなとき、その先生に聞けば——
1聞けば、120で返ってくる。
朝の支度の流れ。
給食準備のコツ。
ひらがなの定着。
経験に裏打ちされた話は、やはり参考になる。
ただし、その120のうち、80が答えで、残り40は武勇伝だった。
「私が今よりも少人数の学級を担任すればほとんどが100点取るの」
「40年前は運動神経がよくてね。お手本は全部、私がしてた」
「学力の〇〇って呼ばれてた時代もあったのよ」
話の最後には、だいたい伝説が待っていた。
2年間6年の担任をしていた時は後ろの席だったがその時もよく6年担任の会話に入っていた。
周囲の先生たちは、もうそのやり取りに慣れていた。うなずきながら話を聞き、それぞれの仕事を進める。
ふと目が合うと、“今日も元気だなあ”とでも言いたげな、やわらかな空気が流れていた。
私は、そんな話も最後まで聞くようにしていた。
長い話の中にも、ふとした実践の工夫や、経験者だからこそ見えている視点が混ざっていることを知っていたからだ。
話を聞くことそのものに、価値があると思っていた。
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5月に入り、学習参観が近づいていた。
今年は同学年に新規採用の先生がおらず、授業をそろえず、各クラス自由にしてよいという話になった。(隣の先生とは別の学年主任の先生)
隣の先生は言った。
「私は促音。“っ”の勉強するよ。毎年これ。分かりやすいしね」
そして、続けた。
「先生も同じのしたら? 真似したら済むよ」
悪気はないのだと思う。
親切心だったのかもしれない。
でも私は、そういう仕事の仕方ができない。
前からこうしているから。
みんながそうしているから。
例年そうだから。
その理由だけで決めたくない。
今、この子たちに何が必要か。
何を学ばせたいか。
どんな姿を保護者に見てもらいたいか。
そこから考えたい人間だった。
「明日まで待ってください。まず自分で考えてみます」
そう伝えて、教材研究をした。
選んだのは、国語『はなのみち』だった。
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1年生にとって、初めて出会う物語文。
私はこの授業で、ただ本文を読むだけではなく、
“物語を読むってこういうことなんだ”という入口をつくりたかった。
考えた導入はこうだった。
まず、教科書の挿絵をランダムに並べる。
そして、「どの順番だと思う?」と予想させる。
次に、絵を見ながら問いかける。
どんなもの描かれている?
どんな動物が出てきそう?
何をしている話だろう?
困っているのかな?
うれしいのかな?
子どもたちは、絵から自由に物語を想像する。
すると、ただ読むのではなく、
“誰が出てくるんだろう”
“何が起きるんだろう”
“自分の予想と合っているかな”
そんな視点をもって本文を読むことができる。
さらに、この学習は単発では終わらない。
このあと、挿絵と本文を対応させる。
場面の変化を考える。
登場人物の様子を読み取る。など
これから続く物語文の学習全体に、見通しをもたせる導入になると考えていた。
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次の日の放課後。
私は1年担任の5名の先生に伝えた。
「学習参観、『はなのみち』でいこうと思います」
その瞬間だった。
横に座るベテランの先生は首を横に振った。
「ダメ。45分もたないよ」
教材名を聞いた数秒後の却下だった。
私は授業の流れを説明した。
導入で挿絵を並べ替えること。
絵から内容を予想させること。
子どもたちが発言する場面。
本文へつなぐ展開。
今後の単元への見通し。
だが、聞く前に答えが決まっていたように感じた。
「子どもが発言するところあるの?」
ある。今話した。
「45分どう流すの?」
それも説明した。
「国語のねらいとズレてない?」
そこも確認していた。
学習指導要領も、指導書も、過去の実践も読み込んでいた。
ひとつひとつ、もう一度丁寧に答えた。
すると、次に聞かれた。
「発表の仕方、分かるの?」
「どの学習でも、発表の仕方はずっと積み重ねてきています」
実は、この学習の流れは子どもたちにとって、まったく初めてではなかった。
国語の最初の教材『はるがきた』でも、似た形で学習をしていた。
話し合いながら考えること。
自分の予想を伝えること。
友だちの意見を聞くこと。
実際、『はるがきた』の授業はとても盛り上がった。
1年生だからこその自由な発想。
思わず笑ってしまう着眼点。
友だちの意見に「なるほど!」と目を輝かせる姿。
教室全体に、活気とあたたかさがあった。
授業後の子どもたちの顔も、よく覚えている。
やり切った顔をしていた。
感想にも、学んだ実感があふれていた。
だからこそ、『はなのみち』でも、その続きをしたかったをことなど全て伝えた。
そうすると、
「それで、1年生の国語のゴールが保護者に伝わる?」
私は答えた。
「ゴールを見せるというより、物語文をどう学ぶかを見てもらいたいです。
子どもたちが考える姿や、友だちの話を聞いて学ぶ姿を」
そして聞き返した。
「先生の促音の授業では、ゴールをどう伝えるんですか?」
この問いへの答えはなかった。
代わりに返ってきたのは、
「この学習、面白くできないよ」
だった。
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このときには、正直けっこう腹がたっていました。笑
「それって、〇〇〇先生でも面白く授業できないってことですか?」
すると
先生は少し黙って、
「いや、できるよ」
と言った。
「じゃあ、学習参観だからできないってことですか?」
「……できると思う」
私は言った。
「でしたら、僕に頑張るチャンスください。チャレンジさせてください」
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ベテランの先生もムキになっていたのは強く感じた。
だけど、私も折れたくなかった。
1年生だから、保護者の方に安心してもらうなどの目的で学習を合わせると言われれば、私も納得する。
だけど、学年主任は各学級で選んでと言っていたからこだわりたかった。
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今でも分からない。
なぜ、『はなのみち』と聞いた瞬間に否定されたのか。
経験がある人の言葉には重みがある。
でも、その重みは、人を支えるためにも使えるし、押しつぶすためにも使えてしまう。
何も聞かずに否定される悔しさは、子どもだけのものじゃない。
大人だって、ちゃんと悔しい。
そして、この日あらためて思った。
問いかけひとつで、人は伸びる。
決めつけひとつで、人は黙る。
教師という仕事は、
大人同士で学ぶことも多いのかもしれない。
もちろん、この出来事も、私自身の価値観や立場から見えている景色でしかない。
相手には相手の思いや経験があり、別の見え方もあったのだと思う。
だからこそ、この話を読んでくださった方がどう感じたのか、ぜひ聞いてみたい。
あなたなら、この場面をどう受け取りますか。
また、職場や学校、家庭などで、似たような経験をされたことはありますか。
経験や立場の違う人とのすれ違いに、悩んだことがあればぜひ教えてください。
