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観音寺の鬼『鬼柴田、二度目の忠義』第十二章③「京の土」

近江に入った翌朝、信長は軍を三つに割った。

「観音寺城へ――柴田勝家、森可成」

「和田山城へ――稲葉良通」

「箕作山城へ――わしが行く。滝川、丹羽、木下も連れる」

地図の上に、三本の指が置かれた。

「六角の本城を動かすな」

信長の目が、勝家を見た。

「それだけでよい」

勝家は頷いた。

分兵の前、勝家は仙石権兵衛を呼んだ。

「若槍」

仙石が、槍を持ったまま振り向いた。

「山で一人だけ速うても、後ろは登れぬ」

「……は」

「後ろの足音を聞け」

仙石は、何も言わなかった。

だが、槍を少し下げた。

観音寺城は、山の上にあった。

石垣が、木々の間から覗いている。

旗が、風に揺れていた。

六角の旗だった。

勝家は、城を見上げた。

攻めない。

攻めるつもりはなかった。

「篝火を増やせ」

勝家は言った。

「旗を広く立てろ。兵を動かし続けろ」

森可成が、隣で首を傾けた。

「攻めませぬか」

「攻めぬ」

勝家は言った。

「動けぬように、攻めておる」

六角の本城には、まだ大きな兵力が残っていた。

その兵が箕作城へ向かえば、信長の軍は挟まれる。

勝家の役割は、その兵を動かさないことだった。

城の上から見れば、鬼柴田の旗が広がっている。

動けば、勝家が来る。

動かなければ、支城が落ちる。

六角は、どちらも選べなかった。

夕刻になった。

箕作城の方角から、鬨の声が聞こえた。

しばらくして、静かになった。

物見が戻ってきた。

「箕作城、まだ落ちておりませぬ。木下隊、押し返されました」

勝家の目が、細くなった。

押し返された。

退いたのではない。

箕作山城の守備兵は、信長の軍を撃退したのだ。

勝家は、西の空を見た。

夕日が、山の向こうへ沈んでいく。

援軍を送るべきか。

しかし、ここで動けば、観音寺城の六角本隊が動く。

勝家は、動かなかった。

夜が来た。

篝火が、闇の中に揺れていた。

箕作城の方角に、遠く火が見えた。

戦が続いている。

勝家は、その火を見ていた。

眠らなかった。

猿が戦っている。

だが。

ここで鬼が動けば、六角も動く。

鬼は、待った。

夜明け前。

物見が走ってきた。

「箕作城、落ちました」

「木下らの夜襲にございます」

勝家は、立ち上がった。

続いて報せが来た。

「和田山城の守備兵、逃亡」

そして。

観音寺城の旗が、消えた。

六角父子が、城を捨てた。

支城が一夜で崩れたと知った瞬間に、本城の主は山を下りた。

戦わずして、逃げた。

観音寺城の門は、開いていた。

勝家は、槍を振るわずに中へ入った。

主はいない。

兵もいない。

残っているのは、消えかけた火と、床へ落ちた六角の旗だけだった。

「柴田殿」

藤吉郎が、後ろから来た。

顔には泥が残っている。

「箕作は、取ったか」

「は」

「誰が取った」

藤吉郎は、少し考えた。

「皆で」

勝家は、落ちた旗を見た。

自分の槍ではない。

猿の槍だけでもない。

観音寺。

和田山。

箕作。

三つへ分かれた軍が、一つの敵を崩した。

鬼は、城を落とさなかった。

ただ。

城を捨てさせた。

数日後。

信長の命を受け、勝家は日野へ向かった。

だが。

六角の旗が、すべて消えたわけではなかった。

日野。

蒲生賢秀は、城を閉ざしていた。

観音寺の主は逃げた。

和田山の兵も消えた。

箕作も落ちた。

それでも。

蒲生の旗だけは、まだ下りていなかった。

勝家が日野へ着いた時、城門は閉じたままであった。

「攻めますか」

藤吉郎が訊いた。

勝家は、城壁の上を見た。

兵はいる。

弓もある。

だが。

逃げる気配はなかった。

「待て」

勝家は言った。

「主が逃げても、残る者には残る理がある」

やがて。

城門が開いた。

一人の男が、少年を連れて出てきた。

蒲生賢秀。

六角の重臣。

その隣には、鶴千代がいた。

まだ元服前。

父の横で、まっすぐ前を見ていた。

賢秀は、城門の前で膝をついた。

「六角は去りました」

低い声だった。

「されど、蒲生の家まで捨てるつもりはございませぬ」

勝家は、賢秀を見た。

負けた男の目ではない。

家を残すために、頭を下げる男の目だった。

「この子を、証として差し出します」

鶴千代は、父を見なかった。

勝家だけを見ていた。

怯えてはいない。

強がってもいない。

ただ。

折れていなかった。

「名は」

「鶴千代にございます」

勝家は、しばらく少年を見た。

それから、藤吉郎を振り返った。

「殿へ伝えろ。蒲生が降る」

短い間があった。

「ただし、首ではない」

勝家は、鶴千代を見た。

「この目を、連れていけ」

藤吉郎も、少年を見た。

「よい目をしておりますな」

「まだ、折れておらぬ」

鶴千代は、目を逸らさなかった。


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