「意味のない時間」に救われる日がある
このままでいいのだろうか、と考える夜があります。
ちゃんと働いて、ちゃんと返事をして、ちゃんと明日の準備もしているのに、なぜか心だけが追いついてこない日があります。
そんな夜、私はよく、本を開きます。
読むためというより、逃げるために近いのかもしれません。
けれど不思議なことに、本は「逃げ場」でありながら、どこか「戻ってくる場所」でもあります。
ページをめくっているうちに、自分の呼吸の速さが、少しだけ普通に戻っていくのです。
本というのは、役に立つから読むものだと思われがちです。
知識が増えるとか、視野が広がるとか、人生が変わるとか。
もちろん、それもあるのでしょう。
でも、本当に疲れているとき、人はそんな大げさなものを求めていません。
ただ、「ひとりじゃない感じ」がほしいだけなのだと思います。
誰かの文章のなかに、自分と似たさみしさを見つけるだけで、今日はもう十分だったりします。
以前、休日を「有意義に過ごさなければ」と思い込んでいた時期がありました。
朝からカフェに行って、勉強して、運動して、読書して、できれば美術館にも行って。
そういう休日の写真を見ていると、人生をちゃんと生きている感じがして、安心したのです。
でも、ある日、本当に疲れていた日に、何もしませんでした。
昼過ぎに起きて、コンビニのおにぎりを食べて、ぼんやり窓の外を見て、夕方に少しだけ散歩をしました。
それだけです。
けれど、その日が、なぜか忘れられません。
川沿いを歩きながら、「風って、こんなに涼しかったっけ」と思ったことを覚えています。
人間は、追い詰められると、「意味」を探し始めます。
この努力に意味はあるのか。
この仕事は、自分に合っているのか。
この毎日は、どこへ向かっているのか。
もちろん、それを考えることは大切です。
でも、ずっと意味ばかり見つめていると、心が乾いていきます。
花を見て「生産性がない」とは思わないのに、自分の休息には、すぐ意味を求めてしまうのです。
散歩もそうです。
散歩には、ほとんど意味がありません。
目的地もなく、成果もなく、誰に褒められるわけでもない。
けれど、歩いているうちに、少しだけ考えがほどけていきます。
信号待ちをしている犬とか、八百屋の前の段ボールとか、名前も知らない家のベランダの植物とか。
そういう「どうでもいいもの」が、なぜか人を現実に戻してくれます。
心がつらいときほど、人は壮大な答えを探してしまいます。
でも、本当は、小さなことしか人を救えないのかもしれません。
あたたかい飲み物とか。
読みかけの本とか。
夜のコンビニとか。
洗いたてのタオルとか。
意味のない会話とか。
そういうものの積み重ねで、人はぎりぎり明日へ行けるのだと思います。
昔読んだエッセイに、「人生は思ったより長い」という一文がありました。
若い頃は、それが少し怖かったのです。
まだこんなに続くのか、と思っていました。
でも最近は、少しだけ違うふうに感じます。
人生が長いなら、急がなくてもいいのかもしれない。
今日は何もできなかったとしても、明日がある。
今はまだ途中なのだと思える。
そう考えるだけで、呼吸が少し楽になります。
私たちは、自分を責めるのが上手すぎます。
休んだだけで不安になり、立ち止まっただけで置いていかれた気持ちになる。
けれど、本当に疲れている人に必要なのは、「もっと頑張る方法」ではなく、「安心して休む許可」なのだと思います。
何も生み出さない時間。
役に立たない読書。
意味のない散歩。
そういうものは、遠回りに見えて、実は心の修復そのものなのかもしれません。
夜になると、世界は少し静かになります。
返信を急かされる空気も、昼間ほど強くありません。
そんな時間に、本を開くと、ときどき思います。
人間は、完全には分かり合えなくても、「わかろうとした記録」を残せる生き物なのだな、と。
だから文章には、体温があります。
誰かが眠れなかった夜。
どうしようもなく孤独だった夕方。
もう頑張れないと思った朝。
そういう時間を通って書かれた言葉は、不思議とこちらに届きます。
もし今、少し疲れているなら、今日は無理に前向きにならなくて大丈夫です。
立派な答えも、人生を変える決意も、いりません。
ただ、お茶を飲んで、少しだけ窓を開けて、数ページだけ本を読めたら、それで十分です。
人は案外、それくらいで、また生き延びられます。
そしてたぶん、人生には、「意味があるから大切なもの」と同じくらい、「意味がないから救われるもの」があるのだと思います。
