「描かずして描く」ってどういうこと?
描かずして描く
…先週先生に言われたことですが、なんとなくわかっていながら言語化が難しく…。でも、がんばって書いてみます。
以前このように↓つぶやいた通り…
① 描いては消し、消しては描き…しながら
ガッツリ腰を据えて向き合い構築していく系の絵
(=複数手法が比較的重なり合ってる)
② 少ない手数で、わき起こるがままに、
サラッ、フワッとデキテシマッタ系?の絵
(=比較的余白多め)
⋯の両方を同時進行で今、手がけてます。
(トップ画像は②の1例。)
以下、①を「ガッツリ系」、②を「サラフワ系」…と呼ぶとしましょう。
(音楽で言えば、①「作曲」vs ②「即興演奏」…みたいな?)
まず特筆しておきたいのは、
「サラフワ系」の作品も
「ガッツリ系」制作の経験が下地にあるからこそ、
" ここぞ " という所に
選び抜かれた手法が生かされた
クォリティー高いものになる
…ということです。
言い換えると、
「ガッツリ系」制作時に養われた「構図力」や「色感」が、
無意識に「サラフワ系」制作時にも 応用できてる
…わけで、
決して「少ない手数だから考え過ぎなくても良いや〜」ではない
…と。
で、対極のこの2つを同時に手がけてる場合、「この絵はガッツリ系、あの絵はサラフワ系…に仕上げていくつもり」と 明確に意識を区別 しておかないと、
つい時間も手間もかかる「ガッツリ系」の 気分が切り替わらないまま「サラフワ系」の次の手を、無理してレッスン直前に焦って入れてしまい、「そこは余白で良かったのに〜〜〜💦」と後悔することになります。
(まぁ無理も無い…。「ガッツリ系」制作時は「これでもかこれでもか」と手を入れても先生に「まだ6〜7割出来」とよく言われてましたから…。)
(あと、スパルタ音大時代のレッスン前心理癖の名残りもあるかな。当時の「超絶技巧箇所を少しでも前回より出来てる形にして先生に見せねば」というトラウマ級の邪心…。😮💨)
現在、絵のレッスンは隔週。2週間のスパン中、どうしてもほとんどの時間を「ガッツリ系」に費やしがち。
でも「サラフワ系」の方もいつも視界に入るようにはしておいて、「ガッツリ」に取り組みながらも目の端で「サラフワ」も観つつ、次どう出るかを探ってはいる…。
…で、途中、思い付いた時点で「サラフワ系」に何か手を入れたくなれば入れてみる。しかしあくまで、
研ぎ澄まされた集中力で、厳選された「繊細な一手」を。
…が、レッスンが近付いても「とうとう触手が動かなかった」としたら…、
…その
「どうしても何も入れたくない」が、「その時の答え」
…なのです。
この「サラフワ系制作」に関する「一連の "精神" の流れ」
つまり、
一手を入れるならその入れるまでの内観作業
入れないならその入れたくない心に従う潔さ
…も含めて「描く」ということ なのかな。
ガシガシ手を動かすだけが「描くこと」ではない。
「 "いざ" という瞬間まで、(目の端で観ながら)
内なる声で自問自答していく」
ことも「(描かずして)描くこと」。
「その "いざ" が来ないならば、あえて描かない」
ことも「(描かずして)描くこと」。
うん、多分そういうことなんだと思います。はい。
⋯長くなりましたが、伝わりましたでしょうか???
下手すると内面そっちのけで「いかに沢山の音を速弾きできるか」を競いがちになる音大の(特にクラシック)ピアノ…。しかし絵はつくづく"精神" や "心" と直結してる(=内観と共にある)…。
でも本当はピアノだって「弾かずして弾く(=バリバリ指を動かすだけが「弾くこと」ではない)」精神が大事…と今でも私は信じてます。実際、卒業後数年してから始めた演奏活動は、それが証明されていくような旅路でした。
筆も指も実は「白紙の "心"」にこそ、宿っている…。
この「描かずして描く」精神は1周回って「ガッツリ系」制作時にも結局役立ってる…と節々で思います。このように「両輪の相乗効果」で腕を上げていく過程を、絶賛体感中なのであります。
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ありがとうございました。チップで応援していただけた場合…う〜ん、そ〜ですね、、、個展のDM郵送代にさせていただこうかな…と思います。手元に葉書が届くのってやはり嬉しいですよね。(ちなみに「必ず手書きで一言添える」タイプです。)