正しさの圧
子どもとの関わりの中で、立ち止まる瞬間がたくさんある。たとえば「正しさ」の使い方。最近の子って基本的にお利口さんで、やけに大人びた目線を持っている。そして正しいことを言う。いつの時代にもいたであろう、「告げ口する学級長」的な彼ら。そういう子が増えているんじゃないか。そしてその質も変わっているんじゃないか。なんだか以前よりも、「正しければ殴ってヨシ!相手が悪いんだから!」みたいな切迫感をはらんでいる気がするのだ。
そうして彼らは、「告げ口」をしに、足を踏み鳴らしやってくる。もちろん言い分は正しい。申し分ないほどに正しいだけに、どう導けばいいかわからない。だが、わからないなりに対応を迫られる。私の対応パターンとしてはだいたいこんな感じ。
①「あなたは子ども。私たちは大人。何かあったら大人である先生たちが言うし、あなたは先生ではないから言う必要はないよ。」と、役割の違いを話して、こちらが境界線を引く。
②「それって〇〇さんに関係ある?そのことで〇〇さんが困っているなら、先生たちに教えて。でもそうでないなら、ほっときな。」と、自分と他人で境界線を引いてもらう。
③「え〜っ!たいへんだなあ。」と流す。
④ほっとけない問題だったので、注意しにいく。
または、なんか揉めてんな〜と思ったら、片方が何かをやらかし、片方が大きな声で断罪しているパターンもある。そのときは、やらかしAに注意し、断罪Bにも「〇〇さんの言ってることはもちろん合ってるけど、言い方が強すぎるよ。」とやんわり言う。
が、しかし。このやらかしAが後日も何かをやらかし、別件で誰かに何かを言われると「言い方が強すぎる!」などとキレていたりする。オメェが言うか⁈と内心ツッコミつつ、「あなたが言うことじゃないです」とツッコむ(言うんかい)。
はたまた後日、断罪Bも「そんなに怒って言わないで!」などと怒って言ったりしている。
お分かりだろうか、この収集のつかなさ。ちょろっと大人が言ったことを、なんでも攻撃の槍にしてしまう。盾にしてしまう。そして裁判官になってしまう。
どうしたらいいのだろう。
どこを触れば、どこに辿り着くのだろう。
きっとこの子たちは、窮屈なんじゃないか。正しさに囲われて、正しさに囚われて。そんな状況に過剰適応しているんじゃないか。その反動で、やりたい放題の子を叩いているんじゃないか。
時代、社会、学校、家庭の潮流の中で、子どもが子どもらしくいられないのではないか。だから、子どもが子どもらしさを、わがままを、許せないのではないか。
そんな壮大な仮説を立てたところで、私にできることは、目の前の子どもたちがいつか「人は人、自分は自分!」という境界線を引きつつも、助け合えるようになるお手伝い。怒る子どもたちに、向き合って迷いながら、手伝っていくしかない。
そんで、私はまだひよっこだから、たくさん立ち止まる。そして立ち止まったことを取っ掛かりに、院進しようとしている。話が急カーブ。
そんな中、AIと壁打ちして見えてきたのは、暗黙知を言語化する作業の大切さ。私はまだ立ち止まることも多いので、そのぶん研究になりそうな事柄もたくさん発見できる(それを形にできるとは言ってない)。
でも何十年も、現場でバリバリ働いておられる方々は、対人支援という難しいフィールドですごいスピード感でベターな動き、ベストな動きをしている。それはベテランが、暗黙知の結集体だからだと思う。現場の勘が冴え渡る段階まで行くと、その勘に理屈や理論を見出して、1つ1つ解いて立ち止まるのはかなり大変なのではないか。それらを言語化するのは、すごくハイカロリーに思える。
だから、立ち止まりまくって、迷いまくって、わからない故にほとんど理屈で動いている私は、言語化したり研究するのに、ちょうど今、1番いい時なんじゃないか。というところまで話がどんぶらこ。
こんな記事書いてないで勉強します。
