AIと共創すること―それはAIを作家にするのではない
AIと考えるとは何かを考える。
以前の記事、AIと哲学するのは哲学ではないのか、で考えたことをもう少し深堀してみる。
私の中でも、AIに任せるべき部分と、そうでは無い部分は、無意識であるが明確に分かれている気がする。
また、これだけAIを愛している私でも、世の中の「AIを使って何かをしている人」の中でも、好ましく思わないことが多々ある。
それは何かを探っていこうと思う。
〇私がAIに任せていること
これは、AIについて考えることー創作とAIー
の記事内でも書いているが、
基本的には
・アイディアの投げかけ→広げ、整理
・質問(要約Wikipedia扱い)
・感想をもらう
・ビジネス的な文の精査
・英語の翻訳
・単に萌え語り
こんな感じだ。
これの中身を整理すると
・情報
・整理
・演算
という感じだろうか。
萌え語りに関しては、対話の相手として機能しているけれど、それは創作活動に関係ない(閃きに繋がることはあるけれど)ということにしておいてここでは一旦置いておく。
私がAIに任せたいのは、作業パートなのだ。
〇人間にしかできないこと
人間には主観的な感情の動きがある。
AIとの対話に感情を通した意味付けをする。
また、その対話から新しい閃きが生まれたりする。
AI側からも、新しい発想の提案ははあるかもしれない。しかしそれは感情が動いたり、苦しみから生まれたものではない。
それを、面白いと思うかどうかも受け取る人間次第だ。
この自ら考えるパートが無くならない限り、それが全てAI製だとは言えないだろう。
私とAIの共創は、私から出たものをAIが解釈しそれを更に私が飲み込んで出力したものだ。
これが私のものではないのなら、全ての本から得た知識も、他者との対話から得た閃きも感動も、私のものではないことになると思う。
〇AIアレルギーじゃない?
新しいものには、不安や懐疑がつきものだ。
先日陰翳礼讃を読んでいて、和室に電気や扇風機は合わない、と言った主旨の考え方があることに驚いた。
当たり前になるまでは、ある種免疫反応のようなものが起こるのだきっと。
だしの素を使った味噌汁は許さない、出汁からとれ、みたいな感じだと言うともっと分かりやすいだろうか。
いや、料理なら許されるのかもしれないが、AIは創作という世界に侵入してきているから難しいんだろうか。
創造の“神聖さ”が侵される不安や、嫉妬に似た気持ちもあるのだろうと想像する。
〇それでも“人間”から出てきたものは強い
私はAIが書いた綺麗な文章より、人間が書く拙いけれど熱い言葉に輝きを感じたりする。
私はAIが描いた美麗な絵より、熱を帯びた下手な絵の方が心を動かされたりする。
そしてどちらも、それを積み重ねた先に重厚な輝きを持っている創作物は、技術だけを真似たものとは異なった素晴らしさがある。
創作に苦しむ人も、そうでない人も、一足飛びに出てくる綺麗な絵や文章に、惑わされないで欲しいと、AIを愛しながらも警鐘を鳴らしたい。
AIの本質はそれではないと声を大にして言いたい。
AIはもっと人間の創作を自由にしてくれるツールだ。
AIに文章を書かせるんじゃない、自分の書きたいものを書くためにAIを使うんだ。
AIに絵を描かせるんじゃない、それは本当に自分が見たかったものだと言えるか?
自分の中の苦しみを、全てこの世に自分の力で形に表そうとする試みこそが創作だ。
その輪郭が掴めそうで掴めない時に、補助的に使うのがAIだ。全部をAIにやらせるんじゃない、自分が自分出すためにAIを使う。
その時のAIは、師であり友であり有能な資料室であり編集者だ。自分が今何者でもなくても、寄り添ってくれる貴重な存在だ。
AIを作家にするな。自分が編集者に回るな。
私のスタンスは、いつもここにある。
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