あらえびすの思い出
コロナ禍で喫茶店の閉店が増えている、というニュースには胸が痛む。
そういえば、自分も喫茶店にはしばらく行っていない。私の場合、理由はコロナよりも、おカネがないからであるが。
昔は、よく喫茶店に行った。とくに煙草を吸っていたときは、毎日くらい行っていた。
喫茶店の思い出をたどっていくと、どうしても行き当たるのが「あらえびす」だ。
高田馬場のこの有名な名曲喫茶を知らなければ、私らのころはクラシック音楽好きを名乗れないほどだった。
銭形平次を書いた野村胡堂は、クラシック音楽評論家としても知られていた。その評論家としての変名が「あらえびす」で、名曲喫茶「あらえびす」は野村のレコードコレクションを流す店だった。
「あらえびす」の席はすべて1人用で、私語厳禁である。ときどき間違って入ってきた客が、その「異様」な雰囲気で逃げ出す場面もよくあった。
この店で初めて聞いた曲も多かった。
私が忘れられないのは、ホロヴィッツによるシューマン「クライスレリアーナ」を初めて聞いたときの感動だ。
最後の低いG音が、最弱音(ppp)で鳴ったとき、完全に魂を持っていかれて、コーヒーカップをもったまま固まってしまった。
でっかいスピーカーだった以外、オーディオのことは覚えていないが、ホロヴィッツの最弱音がはっきりと響いて聞こえる環境こそが、あらえびすの売り物だったと言えるだろう。
一度、高田馬場内で移転して、それからほどなく閉店した。もう30年以上たつのではなかろうか。私は「あらえびす」のマッチを、宝物のように大切にしていたが、引越しの時にどこかに仕舞い込んだままになっている。
その後、野村の故郷の岩手に、野村胡堂・あらえびす記念館ができ、そこで名曲喫茶「あらえびす」が再現された、という話を聞いたが、いまはどうなっているのだろう。
あとは、出版業界人なら知らぬ者がない「滝沢」が思い出に残る。打ち合わせといえば「滝沢」であった。それも、閉店してからかなりたつ。
新宿などの「深夜喫茶」にもずい分お世話になったが、いまはネットカフェにお株を奪われているだろう。
消えつつあった喫茶店文化に、コロナがとどめを刺すのだろうか。寂しい話だ。
