日本の保守派への3つの疑問
なんか日本の保守派が混迷しているじゃないですか。
私は一応リベラル派でやらしてもらってますけど(だんだん心細くなっているけど)、保守には期待してるわけですよ。
アメリカでは、保守が大いに盛り上がって、トランプを再選させたわけじゃないですか。
いっぽう、日本の保守は、低迷しているようにしか見えないんですね。
一時期、期待を集めた日本保守党も、行き詰まっているし。
今年の選挙に向けて、保守は期待が持てるのでしょうか。
リベラル化した自民党は少数与党とか言われているけど、立憲民主党が協力、ないし大連立しますからね。
そして、安倍元首相を「殺した」メディアも、それに協力する。フジテレビなんて「右翼」が叩かれているのは、彼らには好都合だからね。
このままいけば、左翼の大勝利ですよ。それがわかってるから、左翼リベラルは最近おとなしいでしょう。石破首相も支持率なんか気にせずに余裕ですよ。
「反左翼のリベラル」の私としては、それでは困るんですよ。
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私は、以前から書いてきたように、アメリカの保守派、いわゆるネオコンより下の世代の人たちの本や発言に、刺激を受けてきました。
もちろん、なんでもアメリカがいい、トランプがいいわけではないけれど、アメリカの保守派とくらべて、日本の保守派は、いかにも思想的に弱い感じがします。
いや、リベラル全盛期から頑張ってきた保守の人たちには、敬意を持っていますけど。
そういえば、西尾幹二さんのお別れの会に、日本保守党の人は全く参加していないとネットで見たけど、ほんとなんですかね。信じられないけどね。
それはともかく、私は保守派ではないし、保守主義のことをそんな知らないし、とくに日本の保守運動には門外漢でしかないけど、以下、前から感じていた、「ここが変なんじゃないか」という点3つを指摘させていただきます。
なんか見当ちがいのことを言ってるかもしれないけど、保守にがんばってほしい、というのが基本なので、許してほしい。
1 「保守は理性を信頼しない」っておかしくない?
いや、これ、たまたま昨日、YoutubeのAIが流してきた、朝香豊さんという人の動画で、目に入ったんですよね。
「人間の理性というものに対して信頼を置かない」
「→この思考態度は保守的」

百田・有本VS飯山あかり第二弾 保守派のあり方を改めて考える(朝香豊の日本再興チャンネル 2025/2/3)
いや、これはおかしいなあ、と思ったわけです。朝香豊さんという人のことはよく知らないけれど。
まあ、たしかに、「理性より伝統に重きを置く」、という言い方は、日本の保守派のあいだで、よく聞きます。
でも、それは「理性を信用しない」というのとは違うわけで。
英米の保守派は「理性を信用しない」なんて言わないと思うけどね。
「私は私の理性を信用していません」というなら、それは「私は狂人です」というのと同じですよ。
バークも、「一人の理性だけでは信用できない」とか「理性だけでは十分ではない」という言い方はしていたけど、理性一般を信頼しない、とは言っていないと思う。
彼が「伝統」を擁護するのは、それが先人たちの理性の集積だと思うからでしょう。
われわれの思索家のおおくは、一般的先入見を破壊するかわりに、それらのなかにみなぎる潜在的な知恵を発見することに、かれらの英知を使用する・・かれらは、先入見の衣服をなげすててはだかの理性しかのこさぬよりは、先入見を、それにつつまれた理性とともに持続するほうが、かしこいと考える。なぜなら、理性をもった先入見は、その理性に行動をあたえる動機と、それに永続性をあたえる愛情とを、もつからである。
(エドマンド・バーク「フランス革命についての省察」中公「世界の名著」p156)
ここでの「先入見(プレジュディス)」は、啓蒙主義思想では理性を曇らせるものと否定されたのだけど、バークはそれを擁護する。伝統や慣習と同じものですね。
バークは、「はだかの理性」よりも、「先入見につつまれた理性」「理性をもった先入見」がいい、と言っているわけで、理性が要らないとはもちろん言わないわけです。
いまの人は、宗教は非合理的だと思うかも知れないけど、バークの時代には「理性的な人はキリスト教を選ぶ」と考えられたわけで。
今でも、キリスト教徒に「あなた方は理性がないから信仰ができる」なんて言ったら怒られるでしょう。
当然ながら、今のアメリカの保守主義に、「理性に重きを置かないのが保守」なんて定義はないと思うんですね。
今の時点だけの、あるいは少数の者だけの「理性」では十分ではないから、伝統や歴史を必ず参照しましょう、
ーーというなら保守的態度だと思うんですが。
人間の理性を重視するのは、どんな政治的立場であろうが、前提でしょう。そうじゃないと困る。
だけど、日本の保守は、よく「理性より伝統」と言う。
なんとなく、「理屈は通らなくていい。愛国の熱誠だけがあればいい」みたいになっていないか。
百田尚樹さんなんかも、その都度のノリで、適当なことを言っている場合が多いと感じます。「理性を重んじない」という、この「保守」の定義に甘えているからではないか、と疑っています。
「右翼」ならそれでいいかも知れませんが、選挙に出るような保守派が「理性を信頼しません」と言うならば、人々は不安で投票できないでしょう。
2 日本人だけが「自然と融和して生きてきた」と思っていない?
これは、言い方が難しんですが。
田中英道さんとかが、よく言うんですよね。
「日本人は、西洋人とちがって、自然にしたがって素直に生きてきた」云々みたいなこと。
西欧での経験が長い、田中さんほどの人が言うのだから、真実を含んでいるんだろうな、とは思う。
日本の自然的な風土や地勢が、日本人の独特の文化や精神性を作った、ということは、あるかもしれないと思います。
ただ、保守派の田中さんがそういう言い方を好むのは、結局、江戸の古学派が言っていたようなことを、言いたいんだな、と思うわけですね。
ああ本当に、上代においては、人の心が率直であり純粋であった。心が素直だから行動も単純だし、行動が単純だから言語表現も複雑でなかった。・・それが、尊い皇統が無限に伝わっていって、長く国をお治めになるとご治世の末の時代になると、唐や天竺の思想・言語が入り交じって我が国に渡来して、我が国の思想・言語と交じり合い、まったく混乱した複雑な状態になっていったので、そうなると純直だった日本人の心も邪悪になり、日本語も乱雑になって、処理できないような複雑多端な状態になってしまった。
(賀茂真淵「歌意考」小学館「新編日本古典文学全集87」p549)
昔の日本人、もともとの日本人は、純真な心で、自然に、素直に生きてきたのに、外国の思想が混じったために、邪悪になったーー
こういう考え方がまずいのは、非理性的な排外主義をまねくだけではなく、自国の優越性の主張としては、説得力に乏しいからですね。
というのも、「我が民族は昔は自然と調和して素直に平和に生きていた」という神話は、だいたいの民族にあると思うからです。
無心・無垢な「幼年期」に戻りたい、というのは、人類に共通のメンタリティだと思う。
これは、「日本にだけ四季がある」「日本人だけが季節を楽しむ文化がある」「日本人だけ虫の声が聞こえる」といったものと同じ類の神話ですね。
日本の最近の保守派は、「1万年以上の平和な縄文時代」という「日本文明」話に惹きつけられているから、余計こういう話をしがちだと思う。
でも、アメリカは、日本にくらべたら短い歴史しか持たないけど、たとえばホイットマンの詩なんかが、アメリカ人と自然との共生の理想として、保守派もリベラル派もともに引用される。
それは、古学派が「万葉集」を利用するのとほぼ同じですね。
これは、1の「理性」の問題とも関連する。
「理性」と「自然」は、英米の保守派がともに重視するものですから。
「自然権」や「自然法」の議論は、私には深遠すぎてよくわからないけれど、「自然」を重視する姿勢は、日本人の専売特許とか、日本の優越性の証拠と考えるのではなく、むしろ他国の保守派との相互理解や連携にもちいられるべきものです。
3 結局、日本の保守派に「原点」はあるの?
日本の保守派は、日本に比べて、アメリカは歴史がないとバカにするかもしれない。
しかし、歴史が短いから有利な点が少なくとも一つあって、それは、「戻るべき原点」がはっきりしていることですね。
アメリカという国は、建国の時期と理念がはっきりしている。
「アメリカ建国の精神」は、とくに保守派にとって、強い参照枠になるわけですね。
アメリカを再び偉大に、というスローガンの「再び」の意味は、人によって受け取り方がちがうかもしれないけれど、少なくとも多くのアメリカ人が、その参照枠にしたがって、その意味を理解できる。
少なくとも、「アメリカらしさ」に明確なイメージと、具体的な歴史上の参照枠がある。
ひるがえって、日本の場合はどうか。
たとえば、石破首相は、「日本を『再び』楽しく」とは言えないわけですね。
日本は歴史が長い、長すぎるから、どこを日本の「原点」にするか、人々に共有されていない。
「日本を美しく」と言おうが、「日本を強く」と言おうが、「日本を楽しく」と言おうが、その「日本」の原点が、つねに曖昧なのは同じです。
これは、保守派が、日本の何を「保守」するのか、人々が常に曖昧に感じる原因になっていると思います。
保守ってのは、定義上、「日本のいい時期はまだ来ていない、これから来る」とは言えないのでは。それでは、左翼リベラルと同じになってしまう。
少なくとも「この国柄を守る」というのがあり、その国柄が「日本」という国を定義するものでなければならないはずです。
それは何か。
皮肉なことに、護憲左翼のほうが、そういう「原点」を持っています。
すなわち、「戦後憲法を守る」という。
それは、「アメリカ建国」と同じで、時期と、理念がはっきりしている。
それは、日本を永続的に、敗戦国の立場に押しとどめようとする思想だから、私は支持できません。
でも、思想として明確であるという利点は否めないわけです。
人々にも、「ああ、やっと戦争が終わって、アメリカさんに親切にしてもらった時代、よかったよね」という記憶がまだある。
それに対して、保守派が、たとえば「教育勅語の精神に戻ろう」と言ったって、そりゃ多くの人々は聞いてくれないでしょう。
教育勅語の価値を否定したいのではなく、ここでは政治的なアピール力の問題を言っています。
「尊王攘夷」というのも、保守派の「原点回帰」の思想でした。
それでは、明治維新の時点を原点とするのか。
「天皇制」と言っても、どの時代の天皇制か。
奈良から中世の、仏教化した天皇制か。
その後の、室町から江戸時代の「放置プレイ」中の天皇制か。
それとも、明治以降の国家神道の中での天皇制か。
歴史が長いからこそ、イメージが定まらないじゃないですか。
この点は、たとえば移民問題なんかでも、ポイントになってくると思うんですね。
移民を受け入れるにせよ、日本の国民には、日本の国柄にふさわしく行動してほしい、と彼らに求める権利はあると思う。
それは、実は移民だけではなく、日本人自身にとっても、そうであるべきなんだけど。
つまり、保守派のとっての教育の基本は、すべての日本人を、日本人にふさわしく育てる、ということであるはずですね。
(それに対して、啓蒙主義に発する左翼リベラルの教育に対する基本姿勢は、「コスモポリタンを育てる」なのでしょう)
今は自国民の教育のことは置いておいて、移民に対して「日本の国柄にふさわしく」と求めるにしても、その「国柄」のイメージがはっきりしていないと、困るわけですね。
外国人嫌いのメンタリティから、「とにかく治安を乱すな、おとなしくしておけ」というのでは、人権侵害ですよ。
いかなる外国人にも、できるだけ楽しく自由に生きてほしい。彼らにはその権利がある。
でも、日本で過ごすあいだは「日本人」であってほしい、とするなら、「日本人としてのふさわしさ」を具体的にわかってもらったほうが、彼らにとっても、楽だと思うんですね。
保守派は、むしろそういうイメージを、移民に対して与えるよう努力すべきだと思うんですけどね。そのさいは、外国人にもわかるようなイメージの解像度が必要です。
いずれにせよ、「どのような日本を守るのか」というのは、保守派にとって、基本になるような事項だと思うのだけど、あんがい曖昧なんですね。
その代わり隣国を叩いたり、既成権力に暴言を吐いたりして「存在理由」をアピールしているようにしか見えない。
それというのも、やはり守りべき「日本」を決めるのが難しいからではないでしょうか。だから、その課題から逃げているのではないか、と感じてしまうのです。
古代を褒めたり、江戸時代を褒めたり、明治時代を褒めたり、戦中の日本を褒めたり、保守派の日本観は、なにか取り留めがない印象なんですね。
まあ、私の希望としては、保守派の人たちは仲間割れしてないで、みんなで集まって以上のようなことをお考えいただき、われわれ選挙民に有効なアピールをしてほしいのです。
なんかだらだら書いてすみません。
<参考>
