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掌編『いちばん厚い本のゲーム』

図書館の入り口で、手が勝手に二つ目のカゴをつかんだ。
指先だけが驚いているあいだに、頭がゆっくり事情を思い出す。
ああ、もう一人分はいらないんだった。

一つだけ残したカゴの中は、まだきれいに空っぽだ。
となりの台には、受験勉強らしいノートが山になっている。
鉛筆の匂いと、コピー機の低い唸りだけが、朝の図書館を動かしていた。

自動ドアをくぐる時、いつもの癖で右側に半歩寄ってしまう。
誰かと肩がぶつからないように、道をあけるみたいに。
空いているのは、もちろん僕の右側だ。

一般書のフロアに上がると、見慣れた棚が並んでいる。
文学、エッセイ、実用書、旅行ガイド。
背表紙の色が少しあせてきている本も、そこにあることを当然のように受け入れている。

僕は何を借りに来たんだったか。
それを思い出すより先に、足は自然といつもの棚に向かう。
一番奥、窓際に近い、ハードカバーの小説がぎゅうぎゅうに詰まった列。

ここが、僕たちのゲームのスタート地点だった。

図書館に一緒に来るようになったのは、結婚して少し経った頃だ。
休日の午前中、特に予定もなくて、でもどこかに出かけたい日。
「買い物でも行く」と言うと、君はたいてい首を横に振った。

「お金が減らないところがいい」

それで、図書館が選ばれた。
財布の中身を減らさずに、カゴだけを重くできる場所。
歩いているあいだ、君はいつも僕の少し後ろを歩いていた。

何度か近所の人にからかわれたこともある。
「仲いいねえ。手、つないだらいいのに」

そう言われるたびに、君は笑ってごまかし、僕は視線をそらした。
四十を過ぎてから、人前で手をつなぐのは、やっぱり少し照れくさい。
だから僕たちは、手ではなく歩幅を合わせた。
段差の前で少しだけ速度を落として、横断歩道で同時に足を出す。
図書館までの道は、練習しなくても自然とそろった。

ゲームを思いついたのは、君だ。

その日も、二人でカゴを持って、本の海をふらふらと泳いでいた。
同じ棚の前で立ち止まり、同じ背表紙を同時に見上げた。
分厚い小説が並んでいて、どれもこれも時間を食いそうな顔をしていた。

「ねえ」

君が少しだけ声を落とす。
図書館仕様の、やわらかい音量。

「ここから、一冊ずつ選ばない」

「どんなふうに」

「いち、にの、さんで見せ合って、どっちが分厚いか勝負」

それが、始まりだった。

ルールはすぐに決まった。
同じ棚から選ぶこと。
貸出しできる本に限ること。
禁帯出の札が貼ってある本や、参考図書は扱い外。
制限時間は、その棚を一周するくらい。
文庫と新書と雑誌は反則。ハードカバー限定。
同じ本を選んでしまったら、その回は引き分け。

「勝ったらどうする」と僕が聞くと、君は少し考えてから笑った。

「勝ったほうの本を、声に出して読む権利」

「どこで」

「寝る前とか、気が向いた時とか。べつに読まなくてもいいけど」

そんなあいまいな景品のせいで、ゲームは妙にやる気が出た。
なんの役にも立たないのに、勝ちたくなる。
勝ちたい理由も、負けてもいい理由も、どちらもちゃんとあるような気がした。

最初の何回かは、純粋に厚さで競った。
ページの数、背の高さ、紙の質。
「これは二段組だから実質二冊分」
「これは写真が多いから、ずるい」
そんな子どもじみた文句を、四十代になってから言い合うことになるとは思わなかった。

負けた日は、帰り道で君が腕を組んでくることが多かった。

「今日の勝ちは、認めてあげる」

そう言いながら、肘で僕の脇腹をつつく。
その仕草に少しだけくすぐったさを感じながら、僕は「まあね」としか答えられない。

ある日、君はぽつりと言った。

「意味ないけど、こういうのがいちばん楽しいね」

小声だったが、その言葉だけはやけにはっきり耳に残った。
ゲームというより、儀式のようなもの。
図書館で、今日も一緒にいることを確かめる行為。

やがて、厚さだけでは決まらなくなってきた。
装丁の好み。
タイトルの良さ。
その日の気分。
最後はたいてい、話し合いで勝敗がついた。

「じゃあ今日は、あなたの勝ちでいいよ」

そう譲られると、逆に負けたような気もして、僕はわざと不満そうな顔をした。
君は、そういうところが好き、と笑った。

そんな日々が、どれくらい続いていたのか。
正確な数はもう数えられない。
ただ、図書館に来るたびにカゴは二つで、帰り道はいつも、どちらかの腕が相手の肘を探していた。

今はどうかと言えば、カゴは一つで、腕を組む相手はいない。

僕はハードカバーの棚の前で立ち止まり、息をひとつ吐く。
ポケットの中で、図書館カードが小さく鳴った。
君のカードは、別の引き出しの奥にしまってある。
期限切れのささやかな証拠。

「今日は、ゲームしないつもりだったんだけどな」

小さくつぶやいて、周りを見渡す。
背後のテーブルでは、高校生が問題集にペンを走らせている。
彼らには彼らの、別のゲームがあるのだろう。

僕はカゴを床に置き、右手と左手で一冊ずつ本を抜き取った。
どちらも、見覚えのないタイトルだ。
背表紙を重ねてみる。
厚さは、ほとんど同じ。

「どう思う」

思わず口をついて出た言葉は、空気にそのまま溶けた。
答える人はいない。
それでも僕は、少しだけ間をあけてから、いつものやり取りを頭の中で続ける。

たぶん君なら、左のほうを指さす。
タイトルのフォントが柔らかい、休日向けの長編小説。
右の本は、淡々としたエッセイ集で、僕の好みに近い。

「厚さはこっちだけど、読むのはそっちだよね」

君の声が、ちゃんと想像できてしまう。
勝ち負けよりも、「どっちを一緒に読みたいか」で決めようとする顔。
棚の陰から、少しだけ顔を出して笑う仕草。

僕は二冊を見比べてから、右の本を棚に戻した。
左の本だけカゴに入れる。

「今日の勝ちは、君ということで」

誰にも聞こえない声でそう言うと、胸の奥が少しだけ軽くなる。
ゲームは不成立だ。
相手がいない。
いくら分厚い本を選んでも、「いっせいのせ」で見せ合う相手がいない。

それでも、体のどこかがルールを覚えている。
棚の前での立ち位置。
本を抱えてから、相手の顔を見るまでの時間。
勝ちを譲る時の、あの小さな溜め息。

カウンターに向かう途中で、ガラス窓に自分の姿が映った。
反射した廊下には、僕の少し右側に、もう一つ分の空白が伸びている。
そこに誰かがいるような気がして、思わず歩幅を合わせそうになる。

僕は君が好き。
君がどこまで僕を好きかは、わからないけど、
このままずっと、どちらかがいなくなるまで、
こうしているんだろうね。

図書館で分厚い本を選ぶたびに。
意味なんてないゲームを、思い出すたびに。

カウンターで本を受け取ると、職員さんが小さく会釈をした。
ありがとうございます、の代わりに、僕も頭を下げる。
図書館を出るドアが、ゆっくり閉まる。

外の光の中に出た瞬間、右側の空白が、すこしだけ冷たい。
それでも僕は、その空白に向かって歩幅を合わせた。

君がいないともうできないゲームを、
今日もまた、心の中でだけ続けながら。
さみしいよ、と誰にも聞こえない声でつぶやきながら。

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ヒーリング小説家 髙橋P.モンゴメリー よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!