あの、小説家にハマる
森沢明夫さんにハマる
作家活動が少しずつ動き出してから、眠っていた読書熱がふつふつと起き上がってきた。気づけば毎日、図書館に通っている。
滞在時間はだいたい二時間弱。
家から図書館へ向かう道は、特別なものじゃない。
コンビニの前を通って、信号を二つ渡って、季節によって少しだけ匂いが変わる公園の脇を抜ける。
それだけの道なのに、不思議と「今日もちゃんと作家の時間に入っていくぞ」と背中を押される。
図書館の自動ドアが開く音まで、もう生活のリズムになってしまった。
だいたい同じ時間に出るようにして、同じ場所に自転車を止める。
入口のところで、いつもの顔の職員さんに軽く会釈する。
そのやりとりが「ただの来館」じゃなくて、どこか小さな出勤みたいになっている。
静かな空気に入ると、体の中の余計なスイッチがすっと切れていく感じがする。
駅のホームで人の流れに合わせていた体が、ここではちゃんと自分の速度を取り戻す。
この感覚が好きで、たぶん通っている。
席はだいたい決まっている。
窓が見える席か、棚に近い席か、その日の気分で変えるけど、どちらにせよ「ここに座ると読み始められる」という場所がある。
机の木目の傷も、椅子の少しだけきしむ音も、今では安心材料みたいだ。
たぶんこれも、昔ギターのネックの擦れ具合を覚えていくのと同じなんじゃないかと思う。
道具や場所に体が馴染むと、心が余計な迷いをやめる。
最初はね、いかにも作家っぽい「研究」をしようと思っていた。
ミステリーやホラーを読む。
執筆のためだ。流行りや構造、伏線の張り方、恐怖の立ち上げ方。上手い人の技を見て、自分の中に取り込んで、いつか自分の作品の骨格にしていく。
棚の前で背表紙を眺めているときは、わくわくもする。この本のここが売れてるんだな、とか、こういう仕掛けが今っぽいんだな、とか、そういう発見は楽しい。
読んでいる時間も、もちろん面白い。
でも、「面白く読むこと」と「書くために読むこと」って、似ているようでちょっと違う。後者を意識しはじめると、どこかで自分が試験官みたいになってしまう。
正直に言うと、難しかった。
読むのは面白いんだ。
ページをめくる手が止まらない瞬間もある。
怖い場面で背中がひやっとしたり、巧いどんでん返しに「うわ、すげえ」と声が出たりもする。
そのくせ、自分が書く姿を想像した瞬間、どこかで手が止まる。頭の中で組み立てが始まる前に、心が「うーん、これは得意じゃないかも」と小さく首を振る。これは、技術の問題というより、もっと根っこの部分の感覚だった。
たとえば、トリックの仕組みを理解するのは楽しいのに、「じゃあ自分が同じものを設計するか」と考えると急に遠くなる。
怖さの演出も、読む側としてはいいのに、「じゃあ自分の世界でそれをやるか」となると、なぜか呼吸が浅くなる。
無理してやれば書けるかもしれない。けれど、無理して書いた文章って、読者にも伝わる。
たぶん自分にも伝わる。
文章の行間は、作者がどこで息継ぎをしているか、どこが苦しいかを、思っている以上に正直に映す。
それが続くと、「研究」という言葉の重みが増してくる。研究しなきゃ、書けるようにならなきゃ。
そんなふうに力むほど、巧さに圧倒されて自分の席がどんどん狭くなっていくような気がした。
周りでは学生が黙々と机に向かっていて、新聞を読むおじさんがいて、子どもが図鑑を抱えている。みんなが各自の時間を過ごしているだけなのに、こっちはなぜか「課題をこなしにきた人」みたいな顔つきになってしまう日があった。
その顔つきのまま帰ると、家でも続きをやろうとは思えなくなる。読みたいはずなのに読めなくなる。
書きたいはずなのに書けなくなる。
あれはたぶん、自分の身体がちゃんと拒否していたんだと思う。
合っていない靴で走ろうとしたときの、ああいう違和感。
そんなとき、ふと立ち止まって考えた。
そもそも自分は、なにをやってきた人間だっけ。
そうだ、ミュージシャン志望だった。
昔から、曲を作って、詞を書いて、想いをそこに置いてきた。愛とか恋とか、人生とか、どうしようもない自問自答とか。
ライブの前日、寝る前に一行だけ書き留めた言葉が、次の日の朝にはサビになっていたことがある。心の奥に潜って、ひっかかっているものを拾って、そこにメロディをつける。そういうやり方でずっと来た。
「こうしなきゃいけない」より、「こう感じてしまう」を先に歌ってきた。それって、たぶん今も変わっていない。
大きな事件や巧妙なトリックより、もっと身近な「心の揺れ」を言葉にすることで、自分は生きてきたんだな、と。
誰かを好きになってしまう瞬間とか、好きなのに不安な夜とか、明日が来るのがちょっと怖い日とか。
言い切れない、言い切りたくない、そういう曖昧な感情の手触りを、音と言葉で形にしてきた。
その経験が「作家の自分」と切り離されていたことに、ようやく気づいた。
だったら、そういうことを書くほうが自然なんじゃないか。
自分が息をする速さで書ける文章。読んだ人の胸のどこかに、ふっと灯りがつくような話。背伸びをしないで、でもちゃんと心臓の音が入っている話。
無理せず、そこに戻ればいい。
「戻る」って、後退じゃない。自分にとって一番リアルな地点へ、帰ってくるってことだ。むしろ、ここから先に伸びるための支点みたいなものだと思った。
そう思うと、読書の棚の見え方が変わった。
「研究のための本」じゃなくて「一緒に歩くための本」を探しはじめた。
前者は目的地が先にあって、後者は歩く時間そのものに価値がある。
何かを盗むために読むんじゃなくて、何かを思い出すために読む。最近はそういう感覚に近い。
その「戻る先」に近い作家さんを探して、口コミを辿っていくうちに、森沢明夫さんの本に出会った。
棚の前で何気なく背表紙を眺めていたとき、タイトルが自然に目に入り、なぜか手が伸びた。呼吸が合いそうな気がした。理由はうまく言えないけど、言葉の温度が自分の体温と近い感じがした。
読み始めた瞬間、あ、これだ、と思った。
文章がするする入ってくる。
引っかかりがない。
なのに、軽いだけじゃない。
気づくといつのまにか登場人物の横に座っているみたいで、笑ったり、ちょっと胸が熱くなったりしている。
「読みやすい」って、ただ簡単って意味じゃない。
読者の足元を見て、同じ歩幅で進んでくれる誠実さがある。
難しいことを、難しいまま振り回さない。
それでいて、現実の痛みをちゃんと抱えたまま物語にしている。
目線がやさしくて、ちゃんと現実の泥も踏んでいて、それでも最後には人を信じようとする温度が残る。
そんな文章は、読む側の心を疲れさせない。
むしろ、疲れた心ほど、静かに受け取れる。
読みやすさって、作者が読者の手を引っ張る強さじゃなくて、「同じ速さで歩いてくれる感じ」なんだと思った。
置き去りにしない、急かさない。でも立ち止まりすぎてもいない。
この歩幅の合わせ方って、たぶん作家の中でもかなり高度な優しさで、表面だけ真似できるものじゃない。読んでいると、ひそかに背筋が伸びる。
ああ、こういう優しさを文章でやるって、すごいことなんだな、と。
それに森沢さんの文章は、感情を説明しすぎないのに、ちゃんと伝わる。
「今この人はこう思っています」と言われないのに、読者は自然に分かってしまう。
その自然さが、読んでいてすごく楽だ。自分もそういう書き方をしたいと、ふと願う。
今日借りたのは「水曜日の手紙」と「本が紡いだ五つの奇跡」。
タイトルだけで、もうずるい。手紙、奇跡。
どっちも自分の好きな匂いがする。
実は、タイトルだけで本を借りることに、ちょっとした後ろめたさがあった時期もある。
でも最近は、タイトルで手が伸びる感覚を信じるようにしている。その本は、たぶん今の自分に必要な角度で話しかけてくれるからだ。
図書館のカウンターで本を受け取るとき、ちょっとだけ「深夜の自分が喜ぶ顔」が浮かんだ。
図書館って、借りる瞬間がいちばん未来を含んでいる場所だと思う。
まだ読んでいない物語が「これからの自分」に預けられる。
帰り道の空気が、いつもよりほんの少しうれしそうだったのは、たぶん気のせいじゃない。
家に帰って、机の周りを整える。
読み始める前のこの数分が、もうひとつの儀式みたいになっている。
コーヒーを淹れて、スマホの通知を静かにして、灯りを一段落とす。この準備自体が、読書の入り口になる。
昔、ライブの前にギターをチューニングしていたときと同じ気持ちだ。これから始まる時間のために、体の感覚を整える。
今夜は深夜の読書time。
静かな部屋でページをめくって、森沢さんの言葉の流れに身を預ける。
すると不思議なもので、読みながら自分の中の「書きたいものの輪郭」が少しずつ立ち上がってくる。
何かを学ぶというより、何かを取り戻す感じが近い。
「ああ、こういう温度で書けばいいんだ」
「こういうところで人の心はひっそり曲がるんだ」
そういう小さな気づきが、物語の端っこにそっと置かれている。
そしてその気づきは、読んでいる最中より、読み終えて歯を磨いているときとか、布団に入って目を閉じた瞬間にふっと蘇ることが多い。
あれはきっと、文章が自分の生活の奥まで染みていっている証拠なんだと思う。
メリットで言えば、得意な場所に戻ると、筆が迷わない。読者への距離も近くなる。自分自身の体温で書けるから、長く続けられる。
無理のない場所で書くと、自然に「自分の言葉」が見えてくる。誰かの文体を借りているうちはどこかで息が浅くなる。
でも自分の歩幅で書けると、文章が生き物みたいに次の行へ連れていってくれるときがある。あの感覚が戻ってくるだけで、作家としての毎日はずいぶん変わる。
デメリットは、派手なギミックや強い刺激が売りのジャンルに比べると、目立ちにくいこともある。
じわっと伝わるぶん、届くまでに時間がかかるかもしれない。
わかりやすい衝撃と静かな共感では、広がり方の速度が違う。だから、すぐに手応えが返ってこない夜があるのは避けられない。
投稿しても反応が薄い日、読まれているのに届いていない気持ちになる日。そういうとき、つい「もっと派手にしなきゃいけないのかな」と思うことがある。
でも、合っていない靴を履き直してまで走る必要はない。自分の靴で走れる距離を伸ばすほうが、結局いちばん遠くへ行ける。
客観的に見れば、作家が一番強くなるのは「無理せず書ける場所」を掘り下げたときだと思う。
自分の言葉が一番濁らない場所で、行けるところまで行く。それが結局、いちばん遠くまで届くやり方なのかもしれない。
そしてその場所は、案外、昔から自分の足元にあったりする。
音楽でやってきたこと、日常で大事にしてきたこと、言葉を使うときのクセや呼吸。全部が、今の文章に繋がっていく。
「自分が好きで読み続けられる作家に出会う」って、作家にとってすごく大きい。
憧れは、模倣の出発点じゃなくて、帰ってくるための道しるべにもなる。迷ったときに森沢さんの本のあの感じを思い出せるだけで、文章の羅針盤が少しだけ北を指す。
そのぶん、書くことが怖くなくなる。いや、怖さは残っていても、歩ける怖さになる。怖いままでも前に進める怖さ。
それはたぶん、作家として生きていくうえで必要な種類の怖さだ。
さて、灯りを少し落として、ページを開こう。
水曜日の手紙が、今夜の自分にどんな風を運んでくるのか。五つの奇跡が、どこに静かに置かれているのか。
答えはたぶん、本の中にちゃんと「読みやすい顔」で待っている。
そして読み終えたあと、きっとまた図書館へ行きたくなる。
あの自動ドアの音と一緒に、自分の作家としての時間が、またやわらかく始まる気がするから。
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