ペダルを踏まないバッハが教えてくれたこと
―サー・アンドラーシュ・シフ氏のリサイタルから ―
今年4月、サントリーホールで開催された、サー・アンドラーシュ・シフ氏のリサイタルを聴きに行きました。
東京公演では、J.S.バッハ《フーガの技法》BWV1080全曲が、休憩なしで演奏されるという特別なプログラムでした。
さらに演奏後には約30分にも及ぶアンコール。
《半音階的幻想曲とフーガ》《ゴルトベルク変奏曲》のアリア、《平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第1番 プレリュードとフーガ》、そして《イタリア協奏曲》全楽章が披露されました。
まさに、バッハだけで紡がれた贅沢な一夜でした。
私にとって、これほど徹底してバッハだけを聴くリサイタルは初めての経験です。
サントリーホールにいながら、不思議と演奏会場ではなく、ヨーロッパのゴシック建築の教会に座っているような感覚になりました。
ホール全体を満たす響きは、「美しい音色」という言葉だけでは表現しきれません。
音そのものが空間を満たし、まるで聖なる場所で祈りを聴いているような感覚に包まれました。
もちろん、シフ氏は今世紀を代表するバッハ演奏家のお一人です。
それでも、五歳からピアノを始め、多くの演奏会を聴いてきた私にとっても、この日の演奏は生涯忘れることのできない体験となりました。
ペダルを使わないという衝撃
シフ氏は、バッハでは基本的にペダルを使わず演奏されることで知られています。
演奏を聴く前は、「本当にそんなことができるのだろうか」と半信半疑でした。
しかし実際に目の前で演奏が始まると、その疑問は一瞬で消えました。
静かにピアノへ向かわれ、背筋は自然に伸び、余計な力みはまったくありません。
手は鍵盤の上を滑るように動き、音楽だけが自然に流れていきます。
特に《平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第1番 プレリュード》。
ペダルを使っていないとは信じられないほど、豊かで奥行きのある響きがホールいっぱいに広がっていました。
私の席は二階席でしたが、小さな音までも美しく届き、その一音一音に心を奪われました。
バッハが教えてくれたこと
あの日以来、私は《平均律クラヴィーア曲集》第1巻プレリュードに、もう一度向き合いたいと思うようになりました。
そして、シフ氏にならって、ペダルを使わず演奏することに挑戦しています。
すると、今まで見えていなかった世界が少しずつ見えてきました。
ペダルがないからこそ、一音一音を最後まで耳で聴かなければなりません。
身体に力が入っていては、美しい響きは生まれません。
さらに、どんな音を響かせたいのかという明確なイメージがなければ、音楽は育っていきません。
私はこの歳になってようやく、
ピアノを弾くとは、譜面どおりに鍵盤を押すことではなく、一音一音に命を吹き込むことなのだ。
そんな当たり前でありながら、とても大切なことを、シフ氏の演奏から教えていただいたように思います。
今回の演奏動画について
今回InstagramやYouTubeで演奏したのは、その《平均律クラヴィーア曲集 第1巻 プレリュード》です。
もちろん、シフ氏のような演奏には到底及びません。
それでも、あの日いただいた学びを胸に、一音一音の響きに耳を澄ませながら演奏しました。
もし皆さまにも、その静かな響きが少しでも届きましたら幸いです。
今日ご紹介する一曲
今回の記事の最後にご紹介したい私のオリジナル曲は、**『Silence』**です。
バッハが教えてくれた「静けさ」と「響きへのまなざし」は、私自身の作曲にも少しずつ影響を与えているように感じています。
『Silence』にも、言葉では語り尽くせない静寂や、心が少しずつ整っていく時間への願いを込めました。
Spotify・Apple Music・YouTube Musicなど、各配信ストアでお聴きいただけます。
音楽が皆さまの毎日に、穏やかなひとときを届けられましたら嬉しく思います。
