『2025年12月20日は何の日?』
明日の、 #12月20日 は、 #日本 では何の日かをまとめてみました。
人間の連帯国際デー(12月20日 記念日)
12月20日は、国連が定めた「人間の連帯国際デー」です。2005年12月の国連総会で制定されたこの国際デーは、英語で「International Human Solidarity Day」と表記されます。この日は、多様性の中での人類の連帯を祝うとともに、2000年に定められた貧困撲滅などを目指す「ミレニアム開発目標」の達成に向けて、連帯の重要性を改めて認識する日となっています。
グローバル化が進む一方で不平等が拡大する現代社会において、国際的な連帯の強化は不可欠な課題です。国連は、連帯の文化を促進し、分かち合いの精神が貧困と戦うために重要であると位置づけています。世界各国が互いに協力し、支え合うことで、貧困や格差、環境問題など地球規模の課題に立ち向かうことができます。この記念日は、私たち一人ひとりが国際社会の一員として、他者への思いやりと連帯の精神を持つことの大切さを思い起こさせてくれる重要な日となっています。
果ての二十日(12月20日)
「果ての二十日」は、日本の伝統的な忌み日として古くから知られています。一年の終わりの月である12月を「果ての月」と呼び、その20日を意味するこの日は、本来は旧暦の12月20日を指していました。年末の挨拶や大掃除、正月の準備など忙しさの極まる時期ですが、この日は一切の仕事をやめて外出を避け、静かに過ごす日と伝えられています。
由来については諸説あり、近畿地方では罪人の処刑をこの日に行っていたからという説があります。また、山の神に深く関わる忌み日とされ、この日に山に入ることを避ける地方が多かったという説も有力です。特に興味深いのは、和歌山県と奈良県の県境沿いにある「果無山脈」にまつわる伝説です。
この山脈には「一本だたら」という一つ目で一本足の姿をした妖怪が棲んでいたと言い伝えられています。この妖怪が12月20日のみ、または12月20日過ぎにのみ現れて、山に入る旅人を喰ったことから、峠越えをする人がいなくなりました。人通りが無くなることから「果無」という名前が付いたという説があり、このような言い伝えから「果ての二十日」である12月20日には山に入ることを避けるようになったとされています。こうした民間伝承は、年の瀬の慌ただしい時期に、一日だけでも心を静めて身を慎む知恵として受け継がれてきたのかもしれません。
道路交通法施行記念日(12月20日 記念日)
1960年(昭和35年)12月20日、日本において「道路交通法」(道交法)が施行されました。この法律は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図ることを目的としています。道路交通法の施行により、日本の交通ルールが統一的に整備され、交通事故の防止や道路の安全性向上に大きく貢献してきました。
高度経済成長期を迎えようとしていた当時の日本では、自動車の普及が急速に進んでおり、交通安全対策の必要性が高まっていました。道路交通法は、歩行者、自転車、自動車などすべての道路利用者に対して明確なルールを定め、安全で円滑な交通社会の実現を目指したものです。施行から60年以上が経過した現在でも、時代の変化に合わせて改正を重ねながら、日本の交通安全の基盤となっています。
デパート開業の日(12月20日 記念日)
1904年(明治37年)のこの日、東京・日本橋の「三井呉服店」が「三越呉服店」と改称し、日本で初めてのデパート形式での営業を開始しました。実際には、12月20日前後に顧客や取引先に三井・三越の連名であいさつ状を発送し、株式会社三越呉服店の設立を案内するとともに、今後の方針として「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は一棟御用弁相成り候設備致し、結局米国に行われるデパートメント、ストアの一部を実現する」ことを宣言しました。
翌1905年(明治38年)元旦には全国主要新聞に全面広告を掲載し、従来の呉服屋を廃して何でも揃うアメリカン・スタイルの百貨店を目指すことを表明しました。これは後に「デパートメントストア宣言」と呼ばれ、日本における百貨店の始まりとされています。当時の三越呉服店は二階建てで日本商家の古風を残したものでしたが、この革新的な試みは日本の小売業に大きな変革をもたらしました。
「三越」の名称は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」に由来し、「百貨店」という名称は数多い商品を取り扱う店であることに由来します。「デパート」は英語の「デパートメントストア」を省略した呼称で、和製英語として定着しています。現在、日本の老舗百貨店「三越」は株式会社三越伊勢丹ホールディングス傘下の株式会社三越伊勢丹が運営し、1935年(昭和10年)に竣工した三越の日本橋本店は、国の重要文化財に指定されています。
ブリの日(12月20日 記念日)
12月20日は「ブリの日」です。この日付は、12月(師走)が「鰤」という漢字で魚へんに「師」と書くことから選ばれました。また、20日は「ぶ(2)り(輪=0)」と読む語呂合わせにもなっています。
ブリは、スズキ目アジ科に分類される海水魚の一種で、北西太平洋に生息する回遊性の大型肉食魚です。日本では重要な食用魚として各地の文化や産業に深く関わっています。通常は群れを作り、やや沖合いの水深100メートル程度の中層・底層を遊泳します。泳ぐスピードは時速40キロメートルほどで、季節によって生息海域を変える回遊魚として知られています。春から夏には沿岸域に寄って北上し、初冬から春には沖合いを南下するという習性を持っています。
食性は肉食で、主に小魚を捕食しますが、エビやカニなどの甲殻類、イカやタコなどの頭足類も捕食します。旬は産卵期前で脂が乗る冬とされており、この時期のブリは特に「寒ブリ」と呼ばれ珍重されます。ブリを使った料理は幅広く、刺身、寿司、たたき、ブリしゃぶ、味噌漬け、照り焼き、塩焼き、ぶり大根、カルパッチョなど多様な調理法で楽しまれています。
「ブリ」の語源については諸説あり、脂の多い魚なので「あぶら」の「ぶら」が転じたという説や、古くは火にあぶって食べたので「あぶり」が略されて「ぶり」になったという説などがあります。また、ブリは成長に合わせて呼び名が変わる出世魚としても有名で、立身出世を願う縁起物として正月料理などにも用いられます。関東ではワカシ、イナダ、ワラサ、ブリの順に、関西ではツバス、ハマチ、メジロ、ブリの順に呼ばれます。
シーラカンスの日(12月20日 記念日)
1952年(昭和27年)12月20日、アフリカ・マダガスカル島沖でシーラカンスが捕獲され、初めて学術調査が行われました。1938年(昭和13年)に南アフリカで捕獲されて生存は確認されていましたが、学術調査が行われたのはこれが初めてでした。それ以前は、約6500万年前の中生代白亜紀末に絶滅したと考えられていました。
シーラカンスの学名は「Coelacanthiformes」、英名は「Coelacanth」で、約4億年前の古生代デボン紀に出現して広く世界の水域に栄えていた古代魚です。学術調査の結果、化石の状態で発見された昔のシーラカンスとほとんど形が変わらないことが判明し、このためシーラカンスは「生きた化石」と呼ばれるようになりました。
100種類以上のシーラカンスの仲間が化石で見つかっていますが、現在生き残っているのは2種類のみです。この発見は、生物学や進化学の研究において非常に重要な意味を持ち、古代から現代まで形態をほとんど変えずに生き延びてきた生物の存在は、進化の多様性を示す貴重な例となっています。シーラカンスの発見と研究は、私たちに地球の歴史と生命の神秘を教えてくれる重要な出来事でした。
霧笛記念日(12月20日 記念日)
1879年(明治12年)12月20日、津軽海峡の本州側東海岸にある尻屋崎灯台に、日本で初めて霧笛が設置されました。霧笛は、霧のなかで航海の安全を守るためのもので、20秒おきに4秒鳴らされました。
津軽海峡は、本州と北海道を隔てる重要な海峡であり、古くから海上交通の要所として知られていました。しかし、濃霧が発生しやすい海域でもあり、視界が悪い中での航海は非常に危険を伴うものでした。霧笛の設置により、船舶は音を頼りに灯台の位置を把握することができるようになり、海上交通の安全性が大きく向上しました。この技術の導入は、日本の海運業と海上安全の発展にとって重要な一歩となりました。現在、尻屋崎灯台は文化資産として重要な建造物とされ、日本の海上交通史を伝える貴重な遺産となっています。
こうふ開府の日(12月20日 記念日)
山梨県甲府市では、12月20日を「こうふ開府の日」として制定しています。この記念日は、こうふ開府500年記念事業実行委員会が制定したもので、山梨県甲府市役所の記念事業課に事務局が置かれています。
1519年(永正16年)12月20日、武田信玄公の父である武田信虎公が現在の武田神社がある「躑躅ヶ崎」に館を移して城下町の整備に着手し、「甲斐の府中=甲府」のまちが誕生しました。これが甲府の都市としての起源となります。記念の日を毎年祝うことで甲府市の歴史・伝統・文化・自然を再認識し、郷土愛の醸成、学びの機会の創出につなげて、市民はもとより全国に発信していくことが目的とされています。
記念日は2022年(令和4年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録されました。2019年(令和元年)には「こうふ開府500年」という歴史的な節目を迎え、2021年(令和3年)は信玄公生誕500年でした。甲府には、日本一の渓谷美を誇る昇仙峡、富士山の絶景、ワインにフルーツ、世界に誇るジュエリー、心身を癒す温泉など数多くの観光名所があります。また、郷土料理の代表でもある「ほうとう」は、手軽に調理でき、栄養バランスも良く、信玄公も陣中食としてこよなく愛したと伝えられています。
関連する記念日として、山梨県が発足した日に由来して11月20日は「山梨県民の日」、「ほう(4=フォー)とう(10)」と読む語呂合わせで4月10日は「ほうとうの日」となっています。
大洗濯の日(12月第3土曜日 記念日)
東京都墨田区本所に本社を置き、家庭用の洗剤などの洗濯用品を手がけるライオン株式会社が制定した「大洗濯の日」は、12月の第3土曜日とされています。2025年は12月20日がこの日に当たります。
日付は年末の掃除や洗濯の準備を始めるのが12月の3週目が多く、しっかり取り組みやすい日としてその土曜日とされました。年末の大掃除のように、家にある布団カバー、毛布、カーテンなどの大きな物を洗い、すっきりとした気持ちで新しい年を迎えることを推奨しています。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録されました。
同社の洗濯用洗剤のブランドとして「トップ」と「アクロン」があります。同社のWebサイトでは、シャツや肌着、靴下、タオルなど、いつもの洗濯には「トップ スーパーNANOX」、ダメージの気になるお気に入りの服や毛布、カーテンなどには「アクロン」を使い分けることを提案しています。「アクロン」はおしゃれ着用洗剤で、優しく丁寧に洗いたい時に適しています。
つい洗うのを後回しにしがちな毛布やカーテンなどの大物衣料は、週末や連休を利用して洗うのがよいとされています。洗濯前には必ずラベルの絵表示を確認することも大切です。年末の忙しい時期だからこそ、計画的に大洗濯を行い、清潔で気持ちの良い環境で新年を迎えることができます。
劉生忌(12月20日 記念日)
12月20日は、明治から昭和時代初期にかけて活躍した洋画家・岸田劉生の忌日です。1929年のこの日、劉生は山口県徳山(現在の周南市)において、胃潰瘍と尿毒症のため多量に吐血し、わずか38歳という若さでこの世を去りました。日本洋画史に輝かしい足跡を残した天才画家の生涯は、あまりにも短いものでした。劉生忌は、日本の近代美術史において重要な位置を占める画家を偲ぶ日として、多くの美術愛好家や研究者によって記憶されています。
岸田劉生は1891年(明治24年)6月23日、東京・銀座に四男として生まれました。父の岸田吟香は薬屋「楽善堂」を経営する実業家であり、劉生は文化的にも経済的にも恵まれた環境の中で育ちました。幼少期から芸術的な才能の片鱗を見せていた劉生は、1908年(明治41年)、17歳の時に白馬会洋画研究所に入所し、著名な洋画家・黒田清輝に師事して外光派の洋画を学び始めます。この時期の劉生は、まだ西洋の印象派的な明るい画風を追求していました。
劉生の芸術人生における大きな転機は、1911年(明治44年)に訪れました。文芸雑誌『白樺』主催の美術展をきっかけに、イギリス人陶芸家バーナード・リーチと知り合い、さらに思想家・柳宗悦や小説家・武者小路実篤ら『白樺』周辺の文化人たちとも交流を深めていきます。当時の『白樺』は、西洋の最新芸術動向を日本に紹介する重要な役割を果たしており、同誌に紹介されたポスト印象派やフォービスムなどの新しい芸術運動に強く感化された劉生は、やがて従来の外光派の画風に疑問を持ち、白馬会を去る決意をします。
1912年(明治45年)には、詩人・高村光太郎や洋画家・斎藤与里、木村荘八らと共にフュウザン会を結成しました。この頃から劉生の画風は劇的に変化していきます。北欧ルネサンス様式、特にドイツの画家アルブレヒト・デューラーの精密な描写技法に深く影響を受け、それまでの印象派的な明るさから、細密な写実描写へと転じていったのです。1915年(大正4年)には木村荘八らと共に草土社を創立し、独自の芸術理念を掲げて活動を展開していきます。劉生は「内なる美」を追求し、対象の本質を捉えることに執念を燃やしました。
劉生の代表作として知られるのが、1915年に制作された『道路と土手と塀(切通しの写生)』です。この作品は劉生独特の細密な写実描写と、対象への深い観察眼が見事に表現された風景画として高く評価されています。一見すると何の変哲もない道の風景ですが、劉生はその中に深遠な美を見出し、緻密な筆致で描き上げました。また、娘の麗子をモデルにした『麗子像』のシリーズは、劉生芸術の頂点とも言える作品群です。1923年の『童女図/麗子立像』をはじめとする麗子像は、父親の深い愛情と画家としての卓越した技量が見事に融合した傑作として、今日でも多くの人々を魅了し続けています。麗子の独特な表情や存在感は、日本美術史上でも類を見ない個性的な肖像画として記憶されています。
晩年の劉生は、江戸時代に成立した初期肉筆浮世絵や、中国の宋・元時代の絵画である宋元画に深く傾倒していきました。これらの東洋美術の持つ精神性や線の美しさに魅了された劉生は、東洋的な味わいのある油絵や日本画も数多く制作しました。西洋画家として出発しながら、最終的に東洋の美に回帰していった軌跡は、日本の近代美術史における重要な足跡となっています。劉生は西洋と東洋の美術を融合させ、独自の境地を開拓した画家として評価されています。
劉生の墓所は東京都府中市および小金井市にある多磨霊園に設けられています。著書としては『初期肉筆浮世絵』『図画教育論』『美の本体』『演劇美論』などがあり、これらの著作は後に『岸田劉生全集』(全10巻・岩波書店・1979~80年)としてまとめられました。劉生は画家としてだけでなく、優れた美術理論家としても知られており、その思想は多くの後進に影響を与えました。また、終焉の地である周南市の文化会館前庭には岸田劉生記念碑が建立されており、この地を訪れる人々に劉生の業績を伝え続けています。
石鼎忌(12月20日 記念日)
12月20日は、岸田劉生の忌日であると同時に、大正から昭和時代にかけて活躍した俳人・原石鼎の忌日でもあります。石鼎忌は俳句の世界では冬の季語として用いられており、俳句愛好者たちによって大切に受け継がれています。原石鼎は、俳人・村上鬼城、渡辺水巴、飯田蛇笏、前田普羅と共に、大正期の俳句雑誌『ホトトギス』を代表する作家の一人として知られています。これらの俳人たちは、それぞれ独自の個性を持ちながら、大正期の俳壇を牽引し、日本の俳句文学を豊かにしました。石鼎もまた、その中で独特の存在感を放っていました。
原石鼎は1886年(明治19年)3月19日、島根県簸川郡塩冶村(現在の出雲市)に三男として生まれました。本名は鼎(かなえ)といい、家は代々医師を務める名家でした。幼い頃から文学的な感性に恵まれていた石鼎は、中学時代から俳句や短歌を始めとする文学活動に熱中し、早くから文学的才能の片鱗を見せていました。しかし、その情熱は学業への支障ともなっていきます。
家業を継ぐため、1908年(明治41年)に京都医学専門学校(現在の京都府立医科大学)に入学しますが、石鼎の心は医学よりも文学に向いていました。校内で句会を起こすなど文学活動に没頭してしまい、結局、2年続けて落第し、放校処分となってしまいました。医師への道を断たれた石鼎は、家族の期待を裏切る形となり、各地を放浪する生活を送ることになります。この放浪時代の経験は、後の石鼎の俳句に深い影響を与えることになりました。
その後、俳人・高浜虚子に認められたことが、石鼎の人生を大きく変えました。虚子はその才能を見抜き、石鼎を育てようとします。1915年(大正4年)に上京した石鼎は、ホトトギス社に入社します。当初は虚子の口述筆記など雑用を担当しながら、俳句修行を続けました。師である虚子のもとで、石鼎は俳句の技術と精神を磨いていきます。1918年(大正7年)には、同じく俳人であった原コウ子(志賀コウ)と結婚し、家庭を築きます。コウ子もまた俳句を愛する人物であり、夫婦で俳句の道を歩んでいくことになります。
1921年(大正10年)、石鼎は俳人・小野蕪子から俳句雑誌『草汁』を譲り受け、これを『鹿火屋(かびや)』と改称して主宰するようになります。この雑誌を通じて、石鼎は独自の俳句観を展開し、多くの門人を育てていきました。『鹿火屋』は石鼎の俳句精神を体現する場となり、彼の影響を受けた俳人たちが数多く育っていきました。
しかし、1923年(大正12年)の関東大震災以降、石鼎の人生には暗い影が差し始めます。震災の恐怖と混乱が引き金となり、石鼎は神経衰弱に苦しむようになりました。また、師である虚子との間に芸術観や俳句に対する考え方の違いから対立が深まり、やがて絶縁という悲しい結果に至ってしまいました。師弟関係の断絶は、石鼎にとって大きな痛手となりましたが、それでも俳句への情熱は失われることはありませんでした。たびたび病に伏せながらも、石鼎は後進の指導を続け、俳句の道を歩み続けました。
1951年(昭和26年)12月20日、原石鼎は65歳でこの世を去りました。「松朽ち葉かゝらぬ五百木無かりけり」という句が辞世として残されています。この句には、人生の終わりを迎えた石鼎の心境が静かに表現されています。句集には『花影(かえい)』(1937年)などがあり、石鼎の俳句世界を今に伝えています。没後、『鹿火屋』の主宰は妻のコウ子が継ぎ、後に養子の原裕へと受け継がれていきました。石鼎の俳句精神は、こうして次の世代へと確実に伝えられていったのです。
12月20日という同じ日に、洋画と俳句という異なる芸術分野で活躍した二人の巨匠が世を去ったことは、不思議な巡り合わせと言えるでしょう。それぞれの道で独自の境地を開いた岸田劉生と原石鼎の功績は、今日まで日本の芸術文化に大きな影響を与え続けています。この日は、日本の美術史と文学史において特別な意味を持つ日として、記憶されるべき日なのです。
