ある夏の記憶
うだるような暑さだったその年の夏、私は実家を撤退しなければいけなかった。
***
セミがミーーーンミーーーンと鳴く中、暑いのに真っ黒のスーツを着た男に案内をされたのは、いい具合に年数がたった、古い団地だった。
「ここに郵便が届きますから」と教えてもらった銀のポストは、少し錆びていたものの思っていたよりも綺麗だった。
本来ならエレベーターがあるであろう階数なのに、その男と私は、無言で階段を上った。汗が、顎からぽたぽたと滴り落ちていった。
「こちらです」
案内された部屋は、広めの和室だった。外の暑さの割に、涼しい空気が頬を撫でた。年季の入った畳が、その部屋が過ごした年月を物語っていた。
奥にある障子戸を開けると、鮮やかな濃い緑の木陰が広がっていた。
だから涼しいのか、と納得した。
部屋の中にはロフトのような階段が付いていて、そこからさらに上に上れるようだった。木でできているところが、実家に来たかのようだった。
階段を上ると、古民家の天井裏のような広々とした空間が広がっていた。
あの部屋のどこに、一体こんな空間が隠れているのだろう。
とはいえ、実家を撤退するにあたり、大量の荷物を引き取らなければならない。この空間は、うってつけだった。
「ここにします」
わかりました、と言った時も、男の表情は変わらなかった。能面のように、汗一つかいてはいなかった。
電気やガス、水道の案内がいずれ来ますから、確認してください、と言われた。
わかりましたと言って、男と私は、来た道を戻っていた。
***
その部屋に決めて、入れるようにはなったけれど、私はその部屋に住むわけではなかった。
けれど、自宅以外にどうしても別の家が必要だったから、部屋を借りた。
自宅からは結構な距離があるため、行けるのは時々。
行くたびに、郵便受けには様々な書類が入っていた。
住んでいるわけではないのに、電気と水道の料金を支払わなければいけないことが、憂鬱だった。
ガスは、使わないから開栓していなかった。
ああ、またあの部屋に行かなければ。
郵便受けを見てこないと。
今度はなんの書類が届いているか、わからない。
嗚呼。なんて憂鬱なんだろう。
そう思ったところで、目が覚めた。
着ていた寝巻きが、汗でびっしょりと濡れていた。
部屋はまだ暗く、時計の針は2時をさしていた。
……夢?
あんなにリアルだったのに、全部夢なのだろうか。
あの焦燥感も、夏の暑さも、こんなにも手触りが鮮やかなのに。
私は確かにあの部屋に決めて、契約をしたのに、それさえも嘘なのか。
あの部屋に決めた確信もある。公共料金も確かに払った。
けれど、なぜか住所が思い出せない。
道順も。
あの団地を、確かに知っているはずなのに。
私はあの部屋を、契約で借りているはずなのに。
賃貸ならば契約書があるはずなのに、見当たらない。
用紙が届いて公共料金を払っているならば、その領収書があるはずなのに、見つけられない。
……あの団地の一室は、どこにあるのだろう。
……そして私は、一体誰と契約を交わしたのだろう。
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