あの感情に、名前をつけるのなら|掌編
────カァーン……
木刀がぶつかり合った音が、冬の閑散とした道場に響きわたった。
一瞬、相手と視線が交錯する。
チッと心の中で舌打ちした。
────芯から外れてしまった。むしろこちらが真ん中を捉えられてしまった。失敗した。
うまくいなせればよかったかもしれないけれど、この状況からでは案の定うまくいかない。
そのまま制圧されてしまった。くそう。
下がって、一礼する。
真冬なのに、頬を汗が伝う。相手は涼しい顔をしているのに、こちらは息が上がっている。
「ありがとうございました」
────この人には、全然、叶わない。
2年しか違わないのに、今の私ではとてもじゃないけれど、この人には届かない。
鍛錬した時間が、積み重ねた経験が違う。
2人で稽古をして相対していると、嫌というほどわかる。
「負ける」ということが。
それでも私は、この人と稽古をする時間が面白くて、──好きだった。
圧倒的に自分より上手い人と行うからこそ、否応なしに、引きずり出される。一人では到達できない、その場所に。
何より、全身全霊でぶつかっていっても、きっと大丈夫だとわかっていることが。
稽古中は、集中すると相手と自分しか見えなくなる。
今この瞬間、ここにいるのは、自分達だけのような感覚に陥る。
自分が捉えるか、相手に捉えられるか。
向き合って、組み合っていることが、──愉しい。面白い。
思わず口角が上がる。背筋が、ゾクゾクするような感覚。全身の産毛が総毛立つ。
全力でぶつかっても、傷つかない──それどころか、さらに高いところに引き上げてくれる。
そんな人は、そうそう出会えるものではない。
そして私は、その時間が、ずっとではなくとも、少なくとももうしばらくは続くだろう、となんの根拠もないのに、信じていた。
そんな保証は、どこにもないのに。
信じた私が馬鹿だったのか。
それとも。
***
出会えたことを、後悔はしない。
それが間違いだったか、と聞かれたら、答えはNOだ。
けれど。
稽古中に感じていた愉悦も、面白さも、あの瞬間だったからこそ、なのに。
あの、愉悦と快楽と尊敬と恋情がない混ぜになったような感情を。
なんと名付けたらよかったのだろう。
身のうちで、蟠を巻くようにうずくまっている激情。
押さえ込んでいるだけでもかなりのエネルギーが必要だが、一歩間違えば、自分にも他人にも牙を剥いてしまう。
惹かれてはいけない。
……当時、なんとなくでも、名付けてはいけない気がしていた。
ただの、先輩と後輩。
そこに名前がついた瞬間、──この時間は終わるだろうと予感していた。
そして……嫌な予感は、見事に的中した。
東京で春一番が吹いた日に、思ってもみなかったおみやげを連れて。
***
道場から最寄りの駅までの道は、遠くも近くもなかった。
歩いていけるけれど、人によっては少し疲れてしまう、くらいの微妙な距離。
お互い歩くことが好きだった私と先輩は、稽古後は歩いて駅まで一緒に帰ることが多かった。稽古中の真剣さとは打って変わって、たわいもない、どうでもいいような話をしながら。
道すがら、途中の自販機で買うのは、そんな雑談のお供だった。
私はカフェラテだったりミルクティーだったり、その時の気分で変えていたけれど。
先輩は、黄色というか金色というか、そのパッケージが目を惹くデザインの缶コーヒーを飲んでいることが多かった。
視線を奪われる、鮮やかな色彩。
歩きながら、その日カフェラテを飲んでいた私は、ポツリと溢された先輩の一言に、一瞬フリーズした。
「来月、結婚するんだ」
「……そう、なんですか」
そう、返すのが精一杯だった。
あまりにも唐突な話に、頭が真っ白になった。
正面から吹いてきた風が、かぶっていた帽子を吹き飛ばしそうになった。かろうじて、抑えることができた。
そこから、お互いに無言だった。
駅に辿り着いた時、かすかに「じゃあ、またな」と言われたような気がしたけれど、空耳だったのかもしれない。
──その日以来、私が道場に行くことは、なくなったから。
***
先輩が飲んでいたあの缶コーヒーを、私はいまだに飲んだことがない。
だから、味を知らない。
知っていれば、知ろうとしていれば、何かが違ったのだろうか。
……わからないまま、私は今日も、珈琲を淹れている。
あの日以来飲めなくなったカフェラテを、いつか飲める日が来ますように、と願いながら。
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