春、朧月夜に君を想う。|掌編
静まり返った住宅街で、ゴロゴロとスーツケースを引く音だけが夜道に響いていた。空間を割いてしまそうな音に罪悪感を抱えながら、それでもガラガラと引いていく。
腕が疲れ、ふと見上げた空にかかっていた月は、どこか儚げだった。
かすかな雲と、朧に見える満月。
あの、近いようで、どこか遠い月夜に出会うと、夜空を見上げて、写真を撮っていた人を思い出す。
隣に立っていても、たぶん、近くはなかった。かすかにダウンの袖が触れそうで、届かない距離。吐く息だけが、白くその場に浮かんでいた。
その写真は、もう寝ているかもしれない誰かに、きっと送っていた。
***
プロジェクトが佳境を迎えて、同じチームのメンバーだった私とその人は、連日深夜まで事務所にこもって仕事をしていた。やってもやっても終わらない。クライアントから返ってくる指摘事項に白目を剥きながら、それでも少しずつ、業務を進めていた。
私とその人は、チームの中でも特に業務量が多かった。お互い仕事を抱えがちな性格もあり、次々に業務が飛んでくる。捌ききれなくなる3歩手前で、どうにか仕事をこなしていく日々。
結果として、プロジェクトが佳境に入る頃には、毎日のように一緒に深夜まで残業していた。終電一歩手前。
事務所を出るのは、家に帰る頃には皆が寝静まっているような、そんな時間。タイミングが合えば同時に事務所を出て、徒歩15分の道のりを最寄り駅まで一緒に歩いていたその人は、月夜を見かけると、写真を撮っていることがあった。
理由を尋ねたことは、ない。
もしも聞いていたら、教えてくれたかもしれない。それでもきっと、聞いてはいけないことだったのだろうと、今は思っている。
月夜を見上げて、そっと写真を撮っているその人を、時折、横目で伺っていた。眺めていてはおそらく失礼だったし、私が見ていることを、その人には悟られたくなかった。そしてきっと、私にあまり見られたくは、なかっただろう。わからないけれど。
だからその瞬間は、できる限り、気配を消すことに努めていた。
隣を歩いていても、どこか遠い。
まるで月のような人だった。
太陽の反射で光り、自身の主張は薄いようで、実は相当熱かった。熱いということさえ、近づかなければわからない。冷静と情熱を併せ持ったような、不思議な人。
その人と一緒に仕事をできたのは、わずか1年。それでも、同じ業務に携わり、仕事を進め、時間を共有していく中で、かすかに伝わる何かがあった。いつの間にか滲み、共鳴するような感覚。
その感覚を、私もその人も、言葉にすることはなかった。
淡く、降っては溶けていく粉雪のように、その瞬間だけ、そこにある何か。跡形もなく消えてゆく。けれど、目には見えずとも、何かが残り、溜まっていく。
そうしてある日、月夜に隣を歩くことは、できなくなった。
プロジェクトの終了とともに、私はその事務所を離れることになった。
***
生暖かい風が、頬を撫でていく。少しだけ空気が緩くなった春の夜空に、朧に月が浮かんでいる。はっきりと捉えられず、儚く夜空に滲んでいるような満月。
道端の満開の桜が、風に流れて飛んでいった。深夜の花吹雪。
スーツケースを引きずっていた腕は重く、写真を撮っている余裕などないまま、花びらは風にさらわれていく。その様子を、ただじっと、眺めていた。
────嗚呼。あなたに逢いたい。
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