見出し画像

詩神についての覚書

ヘリコーンの歌女神たちムーサイ讃歌ほめうたから歌いはじめよう、彼女たちはヘリコーンの高くきよい山に住み、足どりも優しく舞い踊るのは、すみれ色した泉のほとり、クロノスの力強い御子(ゼウス)の祭壇の

ヘシオドス『神統記』広川洋一訳

古代ギリシャの詩の女神ムーサ(Μοῦσα)は、元来は泉の精であったらしく、各々の泉で祀られ、其々の名で呼ばれていたらしい。ムーサは複数形(Μοῦσαι)で語られる事が多い。

ただし、ホメロスは『オデュッセイア』の冒頭で "ἄνδρα μοι ἔννεπε, μοῦσα" と単数で呼びかけている。

歌神ムーサよ。聖都トロィエーを攻陥せめおとしたる後、いと遠く漂泊さすらひ、あまたの人の町々を見、人々の心調こヽろを識りたる、多技なるその人につき、われに語り給へ。

ホメーロス『オデュッセイアー』田中秀央, 松浦嘉一訳

アガニッペ(Αγανιππη)はボイオティア(ギリシャ中部)のヘリコン山にあるアガニッペの泉の精。この泉は聖なる泉とされ、その水を飲んだ者に霊感を与える力があると信じられていた。

同じくヘリコン山には、やはり霊感を授ける聖なる泉であるヒッポクレネ(Ιπποκρήνη)、すなわち「馬の泉」がある。ペガサスの蹄の跡にできた泉であるといわれる。

英雄ベレロフォンは、コリントスのペイレネの泉で水を飲んでいたペガサスを捕まえて飼いならしたという。彼はペガサスに乗って怪物キマイラを退治した。

このペイレネの泉もペガサスの蹄の跡ともいわれ、やはり詩人に霊感を与える泉とされた。

ヘシオドスはペガサス(Πήγασος)という名は「泉」(πηγή)に由来するとしている。

ヘシオドスは、ムーサをゼウスと記憶の女神ムネモシュネの娘として、9柱の名を挙げている(クレイオ、エウテルペ、タレイア、メルポメネ、 テルプシコレ、エラト、ポリュムニア、ウラニエ、カリオペ)。

しかし、カリオペを第一位とする以外、それぞれの個性については特に語っていない。

筆記なき時代にあれば、詩と記憶の関連は当然ながら、一方でヘシオドスはムーサの賜である詩は、悩みを「忘れさせる」ものとしている。

歌女神たちムーサイの召使である歌人が古往いにしえの人びとの誉れを称え、オリュンポスに宮居する神神を歌えば、たちまち彼は身の憂さを忘れ、切ないことも何ひとつ想い出しはしない。

ヘシオドス『神統記』広川洋一訳

2世紀のパウサニアス『ギリシア記』によれば、かつてはアオエデー(歌)、メレテー(瞑想)、ムネーメー(記憶)という3柱のムーサが祀られていたという。9柱のムーサはマケドニアのピエロスが創祀したものとし、それら新しいムーサがゼウスの娘であるのに対し、古いムーサはウラノスの娘であるとしている。

また、デルフォイではアポロンの娘である、ケフィソ、アポロニス、ボリュステニスの3柱がムーサとして祀られていた。

この3柱はネーテー、メセー、ヒュパテーとも呼ばれた。これは音楽用語で、低弦、中央弦、高弦である。ただし古代ギリシャの音楽用語の高低は現代と逆で、高弦が「低い」音になる。

かくして彼らは、まずテレプシコラには、合唱と舞踏の中にあってこの女神に尊敬を捧げた人々のことを報告して、そういう人々を、一層この女神に愛されるようにしてやり、エラトには、恋に生きながらこの女神を崇敬した人々のことを告げ、またそのほかのムゥサたちにもこのように、それぞれの女神に捧げられる尊敬の種類にしたがって報告をもたらす。ところで、もっとも年長の女神であるカリオペと、それにつづくウラニアとには、智を愛し求める哲学の営みのうちに生を送り、この二人の女神の音楽に尊敬を捧げる人々のことを報告するのだが、まことにこの二人の女神こそは、ムゥサたちの中でもとりわけ、天界のことと、神と人間の物語りとをつかさどる女神たちであって、その送るうた声はもっとも美妙なのである。

プラトン『パイドロス』 藤沢令夫訳

少なくともプラトンの頃には9柱のムーサにそれぞれ担当分野があるという考えが定着していたようだ。

(ちなみに上の引用はソクラテスの台詞で、蝉について話している。蝉は詩人の生まれ変わりで、ムーサへの報告者であるらしい)

各担当は概ね以下の通り。古代の「詩」の範疇は広い。

カリオペ:叙事詩
クレイオ:歴史
ポリュムニア:讃歌
エウテルペ:抒情詩
メルポメネ:悲劇
テルプシコレ:舞踊
エラト:恋愛詩
タレイア:喜劇
ウラニエ:天文学

Antakya Museum Hotel Mosaic (2nd century)
© 2019 DICK OSSEMAN
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Antakya_Museum_Hotel_Muses_mosaic_sept_2019_5637.jpg

この2009年にトルコのアンタキヤの工事現場で見つかったムーサのモザイクには8柱しか見えない。

長女カリオペはその右側に居て、ヘシオドスになにか渡している。

Ibid.
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Antakya_Museum_Hotel_Kaliope_mosaic_sept_2019_5685.jpg

左側はボイオティアとヘリコン山の擬人化らしい。

Ibid.
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Antakya_Museum_Hotel_Helicon_mosaic_sept_2019_5668.jpg

しかし、実はこのモザイクのメインはペガサス。ムーサとペガサスの縁が深いのは上述の通り。

© 2022 Carole Raddato
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Museum_Hotel_Antakya,_Turkey_(52033863374).jpg

いいなと思ったら応援しよう!